第2話「惨めったらしく階段を転げ落ちるのはやめろ!!」(CV:櫻井ヒロ)

 ことの発端は数日前に遡る。


 その日、この国随一の勢力を誇る公爵家・アンソロジューン家の令嬢アストリッド・アンソロジューンと、その弟であるヴィエル・アンソロジューンは、ともに屋敷の階段から転げ落ちた。


 それも、事故の内容が噴飯ものであった。まずアストリッドが階段の上でスカートの裾を踏んづけて体勢を崩し、下にいた弟を巻き込んで転げ落ちるという、それは今では到底流行らないギャグの類に入る事故であった。


 それを見ていた従者たちの動揺と恐怖は如何ばかりであっただろうか。何しろ、この国では最も強大な貴族家の令嬢と令息が諸共に死ぬようなことがあれば、それは留守を預かるものたちの不手際である。失神している二人はすぐさま屋敷の寝室に担ぎ込まれ、複数人の医者が呼ばれ、二人は手厚い看護を受けた。


 幸い、重大な箇所の骨折等の怪我がなかったどころか、二人は奇跡的に無傷であった。


 だがしかし、おそらくすぐに目を覚ますだろうという医者の見立てに逆らい、彼らは覚醒することを拒否するように、実に丸一日も仲良く眠り込んだ。


 明くる日、二人が心配そうにその顔を覗き込む従者たちが見守る中で再び目を開いた時、周囲の人間はほっと安堵のため息をついた。


 彼らの父である公爵が不在の間に起こった珍事は、そうして何事もなく終わったはずだった。




 だが――目を覚ました彼ら二人の中には、実際には重大な変化が生じていた。


 強く頭を打ったことがそうさせたのか。

 それとも、眠っている間に彼らの魂が輪廻の輪に触れてしまったためか。

 覚醒した時――彼ら姉弟には、前世の記憶が蘇っていた。

 それも、二人が遠い遠い異世界――日本という国の、やはり今と同じように姉弟であったときの記憶である。




 姉の葛西千鶴は、こう言ってはお差し障りがあるやも知れぬが――いわゆる腐女子であった。




 二十二歳にもなって現実の男を「萌えないゴミ」と言って憚らなかった女は、仕事から帰宅するなりスーツを脱ぎ捨て、そのまま深夜までやれ乙女ゲームだBLゲームだと言った趣味に興じることを無常の喜び――否、生きる糧としている女であった。


 その不肖の姉の三つ歳下の弟――当時大学生で、姉のアパートで二人暮らしをしていた葛西有利は、ものぐさで自堕落で、クサリ神に魅入られきったこの姉と、ところがどっこい、なかなか平和にひとつ屋根の下で暮らしていたのだった。


 だが――そんな平和な姉弟を、ある日の深夜、凶事が襲った。


 築十五年という古いアパートのことである。日々の暮らしや襲い来る湿気に耐えて耐えて耐え抜いていたアパートのインフラのひとつ、ガスパイプが破断し、そこから大量のガスが漏れ出して部屋の中に充満したのだ。


 そこに姉が夜食を食べようとガスを点火したからたまったものではない。深夜の住宅街を轟かせたガス爆発は容赦なく二人の姉弟の肉体を吹き飛ばし――こうして葛西千鶴・葛西有利は若い身空で敢え無く即死ということに相成った。


 だがその時――遠い遠い異世界で、同時に死の危険を迎えていた肉体があった。

 それが公爵家アンソロジューン家の姉弟、姉のアストリッドと、弟のヴィエルであった。


 目を覚まし、己の肉体が全く異世界人のそれになってしまった姉弟は手を取り合って震えた。

 震え、嘆き、慄き、一体これはどうしてしまったことだろうと動揺する中、姉のアストリッド――否、葛西千鶴が、はっとした表情で弟を見た。




「ユーリ、アンタその声――!?」

「へ? な、なにか変?」

「お、おおおぉぉぉぉ……! エッロ……!」

「えっ何!? 急に何そのトロ顔! 怖ッ!」

「やめなさい! その声でそんな下品な騒ぎ方しないで! その声は愛を囁くこと以外に使っちゃダメ!」

「は、はぁ――?! 何言ってんだよ姉ちゃん!? 怖ッ!」

「その声、その声は――!」




 そう――彼らが転生した先は、姉の千鶴が「人生の羅針盤」と言って憚らなかった乙女ゲーム『妄執と欺瞞のCinque』、通称もぎチンのゲームの世界。


 そして、その悪役令息であるヴィエル・アンソロジューンのCVを担当している男こそ、『乙女ゲーム界のプリンス』として名声を馳せる声優――櫻井ヒロなのであった。

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