第9話 来ちゃった
俊樹たちと、昼食を取った後、俺は、ある場所へと急いでいた。
全速力で足を運ぶ先は、ここ最近、しょっちゅう訪れている場所――すず姉の家だ。
健から聞いた奏さんの噂が頭からどうしても離れてくれず、ボーっと電車に乗っていたところ自宅からの最寄駅を過ぎてしまったため、十五分に一本しか来ない上り電車を待つ羽目になった。おまけに、ただでさえ本数が少なめなのに、電車が急病人の救護活動でさらに十分遅延――。故に、俺は、バイトに遅刻している。
俊樹がせっかく、奏さんの噂を聞いて動揺した俺にカップルに対する妬み僻みみたいなものだ、と声をかけ、励ましてくれたのに情けない限りである。
それは、さておき。
通常のバイト先でも遅刻は、それなりに怒られることだし、今、俺がしているように急ぐべきだろう。
しかし。
何も、こんなに催促することってある……?
先ほどからスマホがものすごい量の通知を受信しており、『ピロン!』『ピロン!』と狂った鳥のように鳴き続けている。チラッと確認したところ、奏さんからのメッセージも混じっていたが、すず姉からのメッセージがほとんどだった。
――絶対、怒っている。多分、未だかつてないほどに怒っている。
すず姉は、約束を破られることがこの世で一番嫌いだ、と自己紹介で言うくらいには、時間に厳しい人である。と、すず姉に関わったことのある人間ならば、それは、一般教養として知っている。
すず姉検定一級を取っている俺も、もちろん知っていたとも。
しかし、そんな一般教養をすっかり失念し、乗り過ごしてしまうくらいに健から聞いた奏さんの噂が気になっていたのだ。
噂といえども、人生で初めてできた可愛くて仕方ない彼女が「やばい女」呼ばわりされているのだ。気になってしまうのは、仕方のないことだ、と思わせていただきたい。
そう言い訳するも、絶対、遅刻理由として認められないよなあ……と、肩の荷が増えていくのを感じる。
そうして、走ること四分程――。
すず姉の家が見えてきた。それと、同時に門の前にスマホを握りしめ、鬼の形相で操作しているすず姉の姿を確認。
普段のおっとりとした様子からは、考えられないくらいすず姉は豹変しており、頭を搔きむしり、地団駄を踏んでいる。こんなに怒っているすず姉は、さすがに十数年の付き合いの俺でも見たことがない。
俺の取得していたすず姉検定一級の資格は、しばらく会っていなかったうちに有効期限切れになっていたみたいだ。
再取得しなきゃな。なんて、そんなのんきなことを考える余裕は今の俺にはなかった。
うわあ……。マジでやばい……。
俺は、生存本能に従い、家が見えてきたところで急ブレーキをかけ、急旋回した。そして、近くにあった電柱の裏に隠れる。
俺は、息をふう、とついた。
とりあえず、避難に成功。
頭では、逃げてはならないことは、わかっている。
が、こうなってしまったら、俺がこの後、すず姉の家でどんな目に遭うことになるかは、もはや予測不能。だが、ろくなことが起きないことはわかっている。
先程からバイトと言っているが、今日のバイトは、厳密には、バイトではない。
ただし、今日、すず姉に呼び出されてるのは、クリスマスまでの期間限定で働かせてもらう条件の一つとして提示された条件――すず姉の趣味に付き合うというものであるため、実質バイトと言える。
そして、俺に女装させることは、すず姉にとって、本来、バイトというべきはずのカフェ店員として俺を働かせるよりも大切なものだ、と俺は自負している。そう自負しているからこそ、すず姉の熱の入り方が違うことも痛いほどに理解してしまっている。
そんな俺が把握している限りでも、俺を女装させることに熱狂的になっているすず姉が怒り狂っているのだ。恐怖以外の何物でもない。
――でもなあ、ここで、逃げたら明日もやばいし、奏さんとのクリスマスデート代も稼げないんだよな……。それに、どこからどう見ても、遅刻した俺が悪いし。
先ほど、スマホを確認したときには、バイト(すず姉の趣味)の開始時刻から十五分は過ぎている。
少し落ち着きを取り戻すと、やはり、俺が遅刻しなければこんなことにはならなかったのだし、どんな目に遭ってでも、すず姉のもとに今行った方が身のためだ、と思えてくる。
俺は、意を決して、電柱の陰から出た。
すると――。
「海里くん、何してるの?」
後ろから声をかけられた。
俺は、緊張感で神経が鋭利に研ぎ澄まされていた、ということもあるが、ここでは、聞こえてくるはずのない声に驚きのあまり、後ろに尻餅をついてしまった。
そのまま、おそるおそる顔をゆっくりとした動作で上げる。
「ど、どうして、ここに……?」
緊張、驚き、困惑。様々な感情が頭の中で渦巻く中、俺は、どうにか声を絞りだした。
――あの女はマジでやばいから北野くんに早く別れた方がいいって言っておいて。
健の口で語られた誰かの言葉が一度だけ脳内再生された。
「えへへ……。会いたくて来ちゃった……」
現在進行形で、学校の一部の生徒に「やばい女」呼ばわりされているらしい俺の彼女――西野奏が、尻餅をついたままの俺を見下ろし、可愛らしくはにかみながら言った――。
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