第9話 命の森に灯る霧

 影年一九九五年。それはあらゆる物事が動いた年だった。

 影年一九九〇年から始まった魔王ノワールによるセフィロート侵攻。王国都市マルクトに始まり、果てには英雄都市ゲブラーまでもが魔王軍によって滅ぼされた惨劇。まだ幼かった炎の勇者リヴァルは敵として立ち塞がった師シュバリエに成す術なく打ちのめされてしまう。

 そんな絶望から始まった五年に及ぶ戦いは様々な陰謀が飛び交うも、終結を迎えた。

 滞りなくこのセカイが続いていることからもわかるだろう。炎の勇者リヴァルとその仲間たちの勝利である。

 一九九〇年から一九九五年にかけて、勇者は魔王軍に立ち向かうため、仲間を集めた。人間の身でありながら膨大な魔力を持ち、短い詠唱で風魔法を自在に操る風の賢者リュゼ。ビナーの知識の泉について研究し、研鑽を積み、至高レベルの治癒魔法を取得しながら、前線でも戦うことのできる治癒戦士ジェルム。魔力にこそ恵まれなかったもののその矢は確実に標的を射抜く凄腕の狩人メネストレル。三人の仲間たちとそれぞれの特性を生かし、欠点を補い合い、鍛練を積み重ね、途中様々な困難や挫折を乗り越えながら共に歩んだ。

 その結果、セカイ最高峰の実力を持つとされる魔王四天王、アルシェ、サージュ、アミドソル、シュバリエを倒し、彼らの剣は遂に魔王ノワールの喉元まで到達した。

 が、魔物が駆逐され、魔王四天王が殺され、魔王の喉笛に刃が突き立てられることまで、彼の悪逆の魔王ノワールの計算のうちだった。

 魔王ノワールが当初より掲げていた目標、闇の女神ディーヴァの復活は大量の魔物の死、ノワールの命を贄に成されてしまったのだ。

 ディーヴァは破壊の女神にして死の女神。セフィロートの主神である生命の神と対を成す彼の女神はありとあらゆる生命の死を糧とし、力を得る。特に眷属たる魔物の死、それが強い魔物であればあるほど、その死はディーヴァの力として大きく還元される。

 そう、炎の勇者一行が行ってきた魔物退治、魔王四天王討伐は優勢なようでいて、全くの逆効果だったのだ。

 その事実を知った勇者たちは絶望の淵に立たされる。魔王四天王及び、魔王までをも倒してしまった彼らの前に立ちはだかるは、完全復活を遂げた闇の女神ディーヴァ。そこに立つだけで植物を枯らし、動物を畏怖させ、圧倒的存在感と魔力と神性を放つ存在。魔王と四天王たちとの戦いで消耗しきっていた勇者たちはまさに絶体絶命だった。

 それでも、最後の力を振り絞り、勇者たちは果敢に女神に立ち向かう。闇の女神を外へ解き放ってしまえば、セカイは文字通り滅亡する。勇者たちが食い止めなければなかった。

 リヴァルは魔王四天王シュバリエとの対戦前、新しい剣を手に入れていた。英雄都市ゲブラーを司る使徒エペの加護宿るネツァクの使徒ガニアンの双剣。武勇を誇るガニアンの剣の力とエペの加護の力を引き出し、勇者リヴァルはディーヴァに致命傷を負わせ、女神の封印に成功する。

 こうして、影年一九九五年、魔王軍との戦いは終結し、セカイは平穏を取り戻した。

 勇者リヴァルと賢者リュゼは後の世にディーヴァについての文献を残した。封印はしたものの、生命の神と闇の女神が対を成すことで存在が保たれるセカイ、セフィロートにおいて、どんなに邪悪であろうと、闇の女神を殺すことはできないのだ。

 きっと、今回と同様、ありとあらゆるものの死を糧とすることで、闇の女神はいつか復活してしまう。そのときを一刻でも遅らせるため、ディーヴァが万物の死を糧復活を遂げる存在であること、あらゆる死の中でも眷属である魔物の死がより大きな糧となってしまうことを文献として残した。

 そんな英雄の著書は図書館都市コクマの知恵の実大図書館に保管されている。後の世の平穏のために。

 そうして、炎の勇者の冒険譚は幕を閉じた。

 その後、炎の勇者がどのような余生を送ったかについて、詳細なことはわからない。だが、一つ確かなことがある。彼はこのセカイを救った英雄だ。──英雄譚はどのような犠牲を孕もうと、幸福な結末でなくてはならないのだから。



 ずさっずさっ

 一寸先も見えるか怪しいほどの霧の中、誰かが足を引きずって、森へ入ってくるのをフェイは感じた。氷の剣士と炎の勇者。ここで繰り広げられた激戦から、外ではどれほどの月日が経ったのだろう。霧に包まれ、昼も夜もわからないほどの森で既に悠久の時を過ごしていたフェイは、時間感覚が曖昧になっていた。あの二人の決戦以来、この近くを人が通るのは初めてだ。そう思いながら彼女は音のする霧の向こうを見つめて待った。

 黒い影が徐々にはっきりしてくる。音も足を引きずる音の合間に固いものをざく、ざく、と地面につく音が混じってきた。

 それは刃が大きく欠けた大剣を杖代わりに歩く満身創痍の鬼人だった。二本あった角は片方が半ばから折れ、残る片方も煤で汚れ、小さな傷がいくつもある。結い上げられていたでえあろう緋色の髪は乱れ、その端正な面差しを半分ほど隠していた。

 フェイはその鬼人の青年に歩み寄る。木の枝が絡み合ってできた足がぴしりと音を立て踏み出すと、青年は足を止めた。一瞬、青年が手負いであることを忘れさせるほどの殺気が空間を切り裂いた。フェイは思わず身を固くしたが、空気はすぐに弛緩する。

「鬼人、フラム」

 フェイがまだ緊張のために固い声で青年に呼び掛ける。ゆったりと顔を上げた青年は、自嘲の滲んだ笑みを浮かべて応じた。

「よう、精霊のお嬢さんか。はじめまして、だな」

 傷だらけで苦しげな様子とは裏腹に鬼人の青年──シュバリエ・ド・フラムは飄々として言った。

 森の守護者として、今も霧となり森を見守り続ける氷の剣士リアンの師であるフラムのことをフェイはリアンから聞いて知っていた。実はソルからも魔王四天王の一人であるシュバリエの特徴については聞いていたため、とれだけずたぼろの姿でも、二本角と緋色の髪さえ見れば、それがフラムであることはわかった。負傷していて尚、セカイ最高峰の剣士であった風格は廃れておらず、フェイはその姿に敬意を持つ。

「私は森の大樹の依り代フェイと申します。少し、お話しいたしませんか?」

「はは、そうだな。俺もちょうど話し相手を探していたところだ」

 口端から血を垂らしながらも快活に笑うと、フラムは足を引きずりながらフェイへと歩み寄った。

 山吹色の着物は幾重もの剣戟に晒されて、もはや襤褸と称しても差し支えないほどだ。じわりと赤が滲み、美しい山吹色を汚している。着物には所々焼け焦げた跡があり、煤けていた。僅かながらに覗く肌は赤く爛れ、じくじくと膿んでいる。袈裟懸けに斬られた痕からは多量の出血、足も剣の支えがなければ、立つことさえままならない様子で、突き立てた剣にすがって尚、震えている。履き物は底が擦りきれて、もはや靴としての役割を果たしていなかった。

「随分、酷い……」

「ああ、これか?」

 フェイがフラムの怪我を見て思わず呻く。フラムの声の調子はどこか飄々としているものの顔には苦いものを滲ませて笑った。

「馬鹿弟子の仕業だよ。俺には剣の弟子が二人いてな。その片方がえらく馬鹿に育っちまったようでさ。罰でも当たったのかねえ。それでこのザマよ」

 がっと剣を突き刺し、それに寄りかかるフラム。幅広の剣は深く地面に突き刺せば、歴戦の猛者たる鬼人をしっかと支える背凭れとなる。その額からぽたぽたと紅いものが落ちていくのが見えた。

 フェイが見かねて回復魔法を施そうとするが、フラムはその手を払う。

「この傷もまあ悪くない。馬鹿とはいえ、弟子の成長を見られたからな。まんざらでもないんだ」

「ですが……」

「それより」

 明らかに大丈夫ではなさそうなフラムだが、フェイを遮って言葉を次いだ。

「アミドソルから、リアンがここにいると聞いて来たんだが、知らないか?」

 その一言にフェイは凍りつく。フラムが不審そうに覗き込むと、フェイははっとして俯いた。

「お弟子さんはリアンのこと、お話しにならなかったんですね」

「あの馬鹿が話すかよ」

 フラムはけっと吐き出し、渋面を浮かべる。その渋面のまま、ただ、と続けた。

「あの阿保勇者の仲間の魔導師が、勇者の敗北は剣士との戦いだけで充分だ、とか言ってたな。要はリアンのやつ、あの馬鹿を負かしたんだろ?」

 フラムの声は朗らかで、リアンの勝利というのが当たり前にただ打ち負かしたというだけだと思っているのが伺える。それが切なくて、フェイはぎゅ、と枝の手を握りしめた。静かに花色の髪を縦に揺らし、首肯する。

 フラムはその意をわかっているのかいないのか、満足げに笑う。

「それで、最期にあいつと手合わせしたかった。リアンとまともにやりあったことはなかったからな」

「えっ? あなたはリアンの剣の師だと聞いておりましたが、手合わせしたこと、なかったんですか?」

 虚を衝かれたフェイが問い返すと、フラムは再び自嘲的な笑みに戻り、遠くを見つめる。

「馬鹿の方はよくよく刃向かってきたから、その度ぎったぎたにしてやったんだが、リアンは真面目な奴だったからな。わかるだろ?」

「ああ、確かに真面目、でしたね」

 ソルとの取っ組み合い、一人での自主鍛錬。抜刀の練習で切り傷を作って、ダートでごまかしていたリアン。ぽつりと語った、心の中で唱えている師からの教え。契りを守らんと剣を振るっていた。

 思い出の一つ一つが、フェイの心を濡らしていく。

「でもまあ、結局のところは」

 悲しみに浸りかけたフェイは、フラムの声に引き戻される。彼が続けて発したのは意外な言葉だった。

「負けるのが怖かったんだよ」

 きょとん、と緋色の髪から覗く面差しを見つめる。吊り上がった口端が、微かに喜びのような色を成す。

「鬼人フラムともあろうものが、らしくもなく臆病風に吹かれたのさ。あいつは小せえ頃からあの阿保勇者と違って、剣士だったからな」

 剣士──フェイはふと、天使リーヴルを思い出す。彼はリアンをずっと剣士と呼んでいた。ダートを持つリアンを勇者ではなく剣士と。

 それと同じなのか、目の前の鬼人も、リアンを剣士と呼び、もう一人の弟子を勇者と言って、頑なに呼び方を区別している。

「リアンは、剣士ですか?」

 疑問をそのまま口にすると、フラムは柔らかく笑った。

「あいつは生粋の剣士さ。剣に己のすべてを託すことができる。ただ剣で戦うのが剣士ってわけじゃない。だからあの勇者は剣士としてリアンに勝てず、半人前のままなのさ。

 確かに炎の勇者は、立派に役目を果たしたかもしれない。だが、それはあくまで万人に求められる[勇者]としてのことだ。武人として、剣士としては極みの域に程遠い」

 セフィロートの救世主たる勇者を捕まえて半人前とは、フラムもかなり辛辣である。しかしそれよりもフェイはある一言が心に染みていた。

 ──剣に己のすべてを託す。

 その言葉はまさしく、リアンという人物そのままを表していた。リアンの守りたいという信念に、その願いを託された剣に、フェイも森も守られてきた。そのことがとても胸に痛い。

「そう、ですね。リアンは剣士です」

「だろう? 俺は剣の師として魔王軍でも何人か見てきたが、リアン程剣士の素質を持った奴は見たことがなかった」

 そう言い、ふっと苦笑混じりの溜息をこぼすと、フラムは大剣の刃に映る己を見た。鋼色が髪の緋色とそうでない赤色を返す。

「自慢の弟子だが……剣士として、本気になったリアンには勝てないだろうと悟っちまった。悟っちまったら、負けるのは、俺に燻る矜持が許してくれない。だから俺は、リアンと手合わせしなかったんだ」

「では、何故今は、リアンと戦おうと?」

 フェイが訊くと、フラムはからからと声を立てて笑った。

「ちょっとした男心さ。弟子に引けを取るもんかって意地もあったな。あとは」

 乱れた緋色の髪から覗く目が綻んだ。

「介錯を頼みたくてな」

 介錯。自刃するものが腹を切った後、苦しまぬように首を切り落とす役のことを言う。もしくは、もう助からぬほどの重傷を負いながら、それでも意識が保たれ、痛苦に苛まれ続ける者に安らかな眠りをもたらすべく、とどめの一撃を与える者のこと。

 フェイが苦しげに息を飲む。指先がしん、と冷える心地がした。

「あの阿保勇者に弔われるよりゃ、リアンの方がいいと思って」

 フェイが視線を落とすと、フラムの腹部に添えた手からじわりと紅が滲む。見ていられなくて再び顔を上げると、脂汗の浮かんだフラムの笑い顔と出会う。

 どこか晴れ晴れとした表情に、この人は死にに来たんだと悟った。

 途端、頬に触れる霧の雫が一気に冷たくなった。

「どうして、リアンなんですか!?」

 気づけば、フェイは叫んでいた。

 リアンのことを思うと、たまらなくなった。リアンはダートの使い手として道を違えた、と罪悪感を抱きながらも、約束のために森を守り続けた。魔王四天王とは知らないまでも、魔物の中でも指折りの実力者であった師のフラムのことをいつだって誇らしげに語っていた。最後の最後まで、その教えを守り、誰にも打ち破れない強さを得て尚、リアンは師が偉大だからだ、とフェイに語っていたのだ。

 そんなリアンに、フラムが介錯を? ……勝手すぎる。そんな思いがフェイの喉から迸った。

「どうしていつも、リアンが全部背負わなきゃならないんですかっ? 森を守るという約束も、セフィロートを守るという使命も! 誰もかれも、リアンにばかり重い荷を負わせて……ソルも、私も」

「お嬢さん……」

「そのうえ貴方まで、リアンに背負わせるんですか? あなたの命という重い荷を、師を殺すという罪を。リアンはそんなこと、きっと望んでないのに!!」

 フラムは返す言葉もなく、よろめきながらそっと、フェイの肩を叩こうとした。途中、その手が血まみれなのに気づいてやめたが。

「すまん。そうだったな」

 リアンはそういう奴だ、とフラムは霧を見上げて呟く。

「だからこそあいつは強いんだ。剣は生きているものの命を絶つ道具。そんな剣を生きているものを守るために振るうという矛盾にも、折れることのない信念……それこそが、リアンの持っていた本当の剣だ」

 言い切るとフラムはがくりと膝をつき、荒い息を繰り返す。フェイがはっとしてその背をさすると、フラムは苦笑気味にありがとうと言った。

「はあ。しかし、そうか、リアンのやつ、勇者に勝ったくせに」

 フラムは今一度、霧の空を見上げる。

「こんなんに、なっちまったんだな」

 霧に手を伸ばし、空を掴む。

 この森に足を踏み入れたときから、フラムは察していた。だって、あまりにも馴染みのある冷気がそこら中に漂っていたのである。この森を覆う霧がリアンのダートで、リアンそのものだと理解するのに、さしたる時間は必要なかった。

 それでも、一縷の望みを抱いた。リアンがダートを極め、森を覆うほどに広げられるようになったのだと、剣士としてだけでなく、ダートの使い手としても、自分の想像すら凌駕するほどに成長したのだと、夢想した。夢想は夢想でしかなかったが。

 それでもどこか満足げなフラムに、フェイは静かにはい、と答えた。

「この霧で、森を守り続けています」

 リアンが己の身を賭して生み出したこの霧は、回復以外の能力は効かない。故にもう魔法でもダートでも森を焼くことはできない。

「どーりで、だましにかけてた身体強化、切れてるわけだ」

 フェイから説明を受け、参った参った、と息苦しそうにフラムは深く息を吐き、俯いた。

「ま、あいつらしい選択だ」

 そんな呟きをこぼしながら、フラムはかちゃりと手をかけたままだった剣を引き寄せる。血まみれのもう一方の手で刃についた水滴をなぞりながら、これじゃ手合わせも頼めんな、と寂しげに微笑んだ。

「なあ、お嬢さん」

「はい」

 フラムの呼びかけに応じると、優しげな眼差しが緋色の髪から覗いていた。

「嫌じゃなけりゃ、俺を看取ってくれ」

「……はい」

「それと」

 神妙な面持ちで頷くフェイにフラムは続ける。

「見守り続けてくれよ。リアンが守っているこの森を」

「はい!」

 もちろん、と言うようにフェイはフラムの眼前で大きく頷く。フラムは柄にかけていた手を放し、フェイの花色をわしゃわしゃと撫でた。

 フラムの髪と同じ色の花飾りが揺れる。

「な、何するんですか?」

 フェイが慌てて花飾りを守ろうと手をやる。すまんすまん、と笑いながら謝り、フラムは言った。

「泣かないでおくれよ、お嬢さん。せっかくリアンが守ってくれたんだからさ」

 フェイは俯き、枝の手をそっと自分の頬に当てる。頬に触れた瞬間枝が消え、白い手がすっと流れる水滴に触れた。

「ちがいますよ」

 フェイは柔らかな声で告げた。

「これは、霧の雫が落ちたんです」


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氷の剣士は炎の勇者に立ち向かう 九JACK @9JACKwords

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