第8話 水よ、祈りと降り注げ
リアンはリーヴルの羽根を受け取り、取り込んだ自分の手を見つめる。
感じたことのない熱の奔流が体中を駆け巡っている感覚。けれど熱すぎず、冷たいわけでもなく、むしろ心地よい。ただ、あまりなじみのない感覚に戸惑いを覚える。
これが魔力というのだろうか。
「これはボクのとっておきだよ」
「キミに足りない魔力を分けたんだ」
先のリーヴルの言から察するに、リーヴルの羽根に込められていたのは魔力に違いない。
「譬、命を賭したとしても、その誓いを守ってよ。それがボクの啓示であり、キミという存在に対する願いだよ」
リーヴルの行為には意味がある。それはリーヴルの願いであり、彼の主であるセフィロートの主神の意思も少なからずあるであろう。
ダート使いに魔力を渡すことは一見、無意味に思える。ダートは先天的な能力で、魔力も先天的に少なく、ダートの利便性もあり、魔法を使う必要などないのだ。
しかしながら、リアンはその魔力の使い道を知っていた。おそらく、リーヴルが魔力を渡すと同時、使い方を念じておいたのだろう。──これだけの魔力があれば、きっと。
可能性に思いを馳せ、心中でリーヴルに感謝し、目を閉じる。手は小瓶の冷たさに触れる。
必ず、守り抜く。
今一度、その誓いを胸に刻み付け、目を開ける。
ざわり、と風が動いた。それと同時、傍らにいたフェイがきゅ、と腕を引く。
「リアン、森に誰かが」
「うん、きっとリヴァルだね」
断言したリアンにフェイが目を丸くする。思わず見つめた湖水の瞳には一片の迷いもない。
「もう三人、人がいる。そのうちの一人はこないだケテル付近の森を襲った風魔法使いのリュゼって人だ。一回戦ったことがある。リヴァルの仲間だ。他の二人もそう」
「リアン、わかるの?」
戸惑いの表情でフェイが問いかける。リアンはこくりと頷き、気配を察知した方向を見据える。
「きっと、リーヴル様に魔力をもらったから、魔力の気配がわかるようになったんだ。それに、リヴァルとはもう何度も戦っているからね」
最後の一言には苦笑が混じった。近づいてくる闘志にリアンは柔らかく目を細める。それをフェイは不思議そうに見上げた。リアンが何故か、とても嬉しそうに見えたのだ。
「きっと彼らは森を越えた先の、マルクトにあるディーヴァの神殿を目指してる。魔王四天王のうち残るはシュバリエのみ。それを打ち倒せば、魔王の首に刃が届く。それで終わるとリヴァルは思ってるんだ」
「目的は、それだけ?」
順当に、勇者として辿るべき道を考えれば、リアンの言った通りである。しかし、あまり戦いとは縁のないフェイでも、闘志とともにこちらへ向けられる明確な敵意がありありと感じられた。
フェイは不安で仕方なかった。リアンはリーヴルから魔力を与えられた。羽根のたった一枚だが、人間では到底抱えられない、魔物でさえそれほどの魔力を持てるかどうかというほどの膨大な魔力。リアンはそれを受け入れ、なんでもないことのように、気取られないよう抑えている。フェイですら、いつもどおりのダートしか持たないリアンと思ってしまうほどだ。
与えられたばかりの魔力、本来持ちうるはずのなかった魔力をリアンは呼吸をするのと同じく使いこなしている。それはつまり、リアンがダートも魔法も使える存在になってしまったということだ。その条件だけを見るならフェイと同じだが、フェイは治癒魔法しか使えない。一方リアンはこの様子だと、戦いに魔法を使うようだ。
フェイの助けもいらないような、手の届かない存在にリアンはなってしまった。それがひどく悲しくて怖い。リアンは自分を省みないところがあるから。
リアンもフェイの言わんとするところは察していた。それでもなお、彼は微笑んでいた。
「リヴァルは絶対、僕との決着を望んでいる。だって、後ろにセフィロートを救う救わないの決着が控えているんだもの。その前に僕くらい倒せないと。リヴァルはきっと前に進めない」
「リアン、それって」
リアンを見つめる夜空の瞳に咎めるような色が混じる。自然と、リアンの腕を握る手に力がこもる。触れているのはごつごつとした木の枝の手なのに、柔らかな温もりが、伝わってきた。
「大丈夫だよ、フェイ」
優しいその面差しに翳った不安を払うために、リアンは言った。
「僕は死にに行くわけじゃない。リヴァルや他の人たちにこの森を傷つけさせはしないし、僕も死んだりなんかしない。死んだら闇の女神の糧になるわけだし、そんなのまっぴらごめんだ」
リアンの微笑みは徐々に深まっていき、次第にいつもの無表情に──真顔に戻っていく。
心を研ぎ澄まして、静かに。
リアンは何も言わなかったけれど、そんな言葉が聞こえたような気がした。
リアンの表情変化に伴い、空気もいつも纏う涼やかな冷気に変わる。木に害のないように、冷気と熱気を使い分け、器用に張り巡らされた氷壁。今日も正確に森を守ろうという意志を形にしたもの。──いや、何かいつもと違う。
「いつか帰ってくるソルのために、いつも見守ってくれるフェイ、君のために、僕は戦う」
真摯に立ち向かう顔で。
フェイは手リアンにそっと手を重ねると、いつもなら枝越しでも冷たいはずのリアンの手に、温もりを感じた。体温の感じられる手にフェイははっとする。
「だから、いってくるよ」
もう一度、フェイを見たリアンは確かに微笑んで。
直後、ばりん、と音を立てて割られた氷壁のほうを見やった。
リアンがぱっとフェイから手を放すと、腰に下げた柄を抜き放つ。神速の剣閃は氷壁を突き破った何かを弾いた。リアンが超速で構築した氷の刃と何かが、がきん、と固い音を鳴らす。
リアンの放った氷の短剣に阻まれ、土に突き刺さったそれは風の魔力を帯びた属性矢だった。魔力を持っていない人間というのはダート持ちも含めていないが、潜在的な魔力量にはやはり個人差があるため、魔力が少なく、魔法が苦手な人間もいる。
そんな人のためにあるのが属性付きの武器だ。魔力を帯びさせてあり、使用する際にその属性の効果を発揮する優れもの。飛んできたのは矢の形をした属性武器だった。かけられている属性は風のようで、突き刺さった地面から軽く風が渦を巻いて立ち上り、消えた。
リアンが即席で作った氷の短剣がばらりと一部砕けた。即席とはいえ、こうもたやすくリアンの剣を砕ける者はそういない。ただの風の属性矢というわけではないようだ。
リアンは油断なく、矢の飛んできた前方を見据えた。
ざっざっと土を踏みしめる音がし、やがて、四つの人影が近づいてくる。
「あれ、当たってない」
心持ち緊張感の欠けた声がした。近づいてくる四つの影のうち、弓をつがえた長身の青年のものだ。先程の矢の射手のようだ。読みどおり、保有する魔力量が少ない。けれど目が良く、遠距離からでも正確無比な矢を放つことができる狩人としてこの上ない才能を持ち合わせているよう。惚けたような顔をしている射手にリアンは油断なく刃の欠けた短刀を構えた。
ゆったりとした足取りでこちらへ向かってくる。青年の両脇には深緑色のローブを纏った魔術師と背丈の小さい長い棒を持った子どもがいた。
「さすがね。私の魔法でブーストかけたのに」
魔術師がぽつりと呟く。リアンが目を細めた。かちり、と柄を腰に戻し、氷の刃を納める。欠けた刃は消失し、短剣は元の柄のみに戻る。
複数の敵を前に武器をしまったのには意味がある。リアンは並んだ三人を見据え、紡ぐ。
「リィエ」
たった一言。ただそれだけだったが、冷気が三人を取り囲み、強固な氷壁が生まれる。氷壁は仄かに光を放ちつつ、三人の周囲を一瞬にして取り囲んだ。空間が狭いためか、武器も魔法も自由が利かないらしい三人。もう一人と引き離されることを拒んでいるが、どうにもならない。弓使いの青年が背中の矢筒から矢を取り出し、矢じりで氷を砕こうとしているが、そこでもう一つの効果に気付いたらしい。
「属性が消えてる」
おそらく先ほどと同じく属性付きの矢だったのだろう。青年の呟きに棒を持った子どもがこぼれんばかりに目を見開き、魔術師──リュゼは、やはり、と口にした。
「これは、原語魔法よ。神レベルにしか破れない」
「ええ? 神?」
狭い空間でこの上なく縮こまる羽目になった子どもがリュゼの言葉に声を上げる。
リアンも薄々感じてはいた。神の使徒であるリーヴルからの魔力を織り交ぜた魔法である。
原語魔法、というのはよく知らないが、リアンの詠唱が通常と違うものであるのも自覚していた。リーヴルが魔力と共に自分に流し入れてくれた詠唱の知識は聞き慣れないものだったから。
けれど詠唱の効果は想像以上で、言葉こそ短いが、かなり強力であることはリアン自身にもよくわかった。魔力を得たことで、魔法の纏う魔力量もなんとなく察せるようになったが、氷壁の纏う魔力は尋常じゃない。リュゼの言った「神レベルにしか解けない」というのも、あながち間違いではないのだろう。
それは、いい。舞台は整った。
「お前はつくづく、反則的だな」
目前に迫りつつあるもう一人から、そんな声が上がり、リアンはそちらに目をやる。双つの剣を携え、髪を紅蓮に染め上げた人物が静かに歩み寄ってくる。
「リヴァル、一人で戦う気?」
氷壁の向こうから、青年が問いかける。リアンに焔の敵意と闘志をたたきつける、炎の勇者に。
ゆらり、と双つ剣に炎を纏わせた勇者は決然と答える。
「みんな、ごめん。こいつとは俺一人でやらせてくれ」
それはリアンも望むところだ。そのために魔力を織り交ぜたダートの氷壁を作り、お膳立てをしたのだから。
だが、リアンと対したことのないうちの一人は不安げだ。
「無茶だよ! だってリヴァル、そいつには一度も勝てたことないんでしょ? いくら魔王四天王のほとんどを倒したからって」
子どもが声を上げる。しかしリヴァルは揺るがない。
「だからこそだ、ジェルム。俺はこいつを倒さなきゃ、前に進めない」
「でも、その人、元々ダートの使い手なんでしょ? 今からでも一緒に戦うように説得しようよ」
ジェルムと呼ばれた人物の言葉に、リヴァルは苦虫を噛み潰したような表情になる。リアンも内心、苦笑していた。
説得や話し合いができるようなら、こう毎回毎回斬り合いなんてしないのだ。リヴァルは敗北を重ね続けない。
二人の道は五年前、既に分かたれている。リアンがフロンティエール大森林に足を踏み入れたそのときから、もう戻れないほどに、炎と氷は交わらないことが定められてしまったのだ。
そのことを仲間には詳しく話していなかったのか、とリアンは意外に思う。リヴァルなら信じた人間には腹の内をさらけ出しそうなものだが、と考えかけて、否定する。リヴァルはそんな王道的な勇者じゃない。
「そんなこと、知ってるよ。できてたら俺はここにいないし、こいつもこんなところにいない。もうどうしようもないんだ」
そう告げて、リヴァルは真っ直ぐ、リアンの方へ突き進む。
「無駄よ、ジェルム。ああなったリヴァルが私たちの言うこと、聞くわけないでしょう」
リュゼがジェルムを宥める。少し苦笑が滲んでいた。彼女は以前リアンと戦い、リヴァルから話を聞いて、ある程度わかっているのだろう。この戦い自体がそもそも意味のないものだとすら察しているのかもしれない。彼女とて、不安がないわけではないだろうが、それでもこの戦いは見守ることにしたらしい。
それも仕方ないことではある。救援しようにも、あの氷壁の中では、魔力は打ち消されるのだ。何故なら、あの氷壁にはリーヴルの力が反映されているから。魔力を行使できなければ、魔法は使えない。いくら人間として魔力を潤沢に持つリュゼでも、魔力が打ち消されてしまえば、魔法も使えず無力となる。闇の女神のやったように物理攻撃が効かないわけではないが、見たところ、あの三人には元々強固なのを更に魔力で補強された壁を打ち砕くほどの武力はないようだ。青年の属性矢も、属性が消えればただの矢と変わらない。ジェルムの持つ棍も丈の長い細身のものであまり威力はなさそうだ。
「むう」
「まあ、そういうことだ」
むくれるジェルムと呼ばれた子どもの頭をぽんぽんと叩き、青年はリヴァルを見た。
「リヴァル、負けるなよ」
「当たり前だ」
青年にぶっきらぼうに応じると同時に、リヴァルは地を蹴り、リアンに肉迫する。剣閃は既に焔を纏っていた。
「らあっ」
焔を纏った剣は袈裟懸けに振り下ろされる。リアンはその一撃を避け、二撃目に斬り上げられた剣を、腰から抜き放った太刀で受け止める。剣に凝縮された冷気は、迫り来る焔のあぎとを凝固させた。
「昔から、君はそうだ」
リアンが太刀で氷と化した炎をを砕きながら、リヴァルに言い放つ。砕かれた氷が細かな結晶となり、きらきらと舞う中、今度はリアンが迫った。
「届かない間合いを埋めるために、ダートで間合いを伸ばそうとする」
ひゅん。氷の刀身が翻る。
「間合いに頼りすぎるのも、よくないんだよ」
斬り下ろし、斬り上げの単調な動作を繰り返しながらも流麗に、リアンはリヴァルに迫る。炎は凍らされ、リアンを捉えるに至らない。剣を動かそうにも、凍ったせいで自由に振り回せない。正に間合いに拘ったが故の自業自得。リアンの氷刃が無慈悲なまでにリヴァルを切り裂く──と思われたが。
瞬間、リアンの太刀から刃が消え、リヴァルは意表を突かれる。その隙を突き、リアンは柄のみとなった刀を手の中でくるりと返し、無防備なリヴァルの手から剣を叩き落した。
地に落ち行く半分凍った剣に、リアンは逆手に持ったままの柄を振り下ろす。その意図を飲み込み切れなかったリヴァルは、瞬間ほとばしった冷気が一刹那で氷の刃を──大剣の刃を生み出すのを見た。
リアンは両手で柄を握りしめ、ずどん、とリヴァルの剣にそれを突き立てる。一見して脆そうな氷の刃は、あっさりとリヴァルの双剣の片割れを砕いた。
一同が唖然とする。リアンの強さに信頼を抱いているフェイですら息を飲んだ。
「嘘だろ……」
氷壁に囚われた青年が、思わずといった体で声を漏らす。他二人も目を瞠っていた。
仮にもリヴァルは勇者だ。仲間たちと力を合わせてとはいえ、魔王四天王のうち二人を仕留めた実力を持つ。その手にはいつもその剣があった。こんなにもあっさりとリヴァルの剣が砕かれるなんて──そんな思いが氷壁の中の三人にはあった。
リヴァルは少し違う感情を抱いていた。一つは畏怖。自らの剣をやすやすと砕いたこともそうだが、リアンのダートが作り出した大剣の形、それを地面に突き立てたリアンの威風堂々とした構えが、かつて師であった鬼人フラムを彷彿とさせたからである。
そしてその姿に対して、もう一つ沸き上がる感情があった。
「リ、アン……リアン、リアン、リアアアアアアアアアアアアンッ!!」
それは底知れぬ怒り、憎悪とも呼べそうなほどの憤怒だった。
片手の剣に炎を纏わせ、揺るがぬ氷色の少年に向かい振り下ろす。
リアンは瞬時に大剣を引き抜き、焔の剣を受け止めた。いつもより重量のある剣であるため、リアンの速度は僅かながらに遅く、その分反応も遅れ、燃え滾る炎が大剣を飲み込む。シュバリエのものを模した大剣に対し、脆弱に見えるリヴァルの片割れの剣。双剣はその立ち回り上、通常の剣よりも軽く、短く作られているのだ。だが、そんな見目の大きさの差異など物ともしないように剣からは炎が噴き上がり、大剣ともども、リアンは炎に呑まれ、フェイが悲鳴を上げる。
「リアン!」
派手に燃え上がる炎。
しかし。
「昔、フラムが言ってたよね」
炎の中から、静かな声が。
「剣は雄弁に、心は寡黙にって」
ぱんっ、と炎が割れ、中からは氷の剣を携えたリアンが現れる。服はところどころ焼け焦げているが、火傷一つない。大剣からいつもの太刀へと姿を変えた刃をかちゃりと持ち直し、リヴァルに対峙する。
刃をすべる水滴が、ぴん、と弾けた。
「それが、なんだ!?」
フラムの名を出されたからか、渾身の炎を軽くいなされたからか、応答する程度にはリヴァルの頭は冷やされていた。
「言葉に乗せずに思いを伝えるのって難しいと思うんだけど、フラムはね、剣士なら剣で語れるはずだって言ってた」
リアンはほろ苦い笑みを浮かべて言い放つ。
「僕は、リヴァルが剣士だって信じてるから」
君になら届くと、信じているから──心のうちでそう付け足しながら走り出す。
リヴァルは薙ぎ払うように振るわれた太刀を片手の剣を立てて受け止める。立て続けに、二閃、三閃、剣戟が走り、リヴァルはじりじりと圧されていく。一刀一刀の重みがこれまでと段違いだ。森を守る氷壁に余分なダートを割かず、氷の剣も扱い慣れた太刀の形に収束、余剰分のダートを身体能力の向上に回すことで効率よくダートを運用している。そのため、リアンの剣は鋭さを増している。
体の使い方、気の配り方。部分部分への力の送り方。緻密な配分を寸分違うことなく行うことで、剣術、体術共にリアンは極地へと達していた。剣術の師フラムと体術の師ソルの教えを遵守したからこそ成せる業。奇しくもその師二人は魔王四天王であるが、森を守るという使命の前に陣営など関係ない。
心を研ぎ澄まして、静かに──不意に、リアンがそう唱えたような気がしたが、がきんがきんと刃がぶつかり合う音で、声など聞こえるはずはない。
リアンの顔はいつも通りの無表情──いや、いつもより心持ち、穏やかに見えた。静かな風の吹き抜ける湖を思わせるような、心地よい穏やかさを漂わせて、リアンが氷の太刀を振るう。
その表情がリヴァルのささくれだった心にじくじくと突き刺さる。
「何故……」
知れず、リヴァルの口から呟きが零れる。
「何故、お前は、いつもいつも!」
リヴァルが斬り上げる刃をリアンが横薙ぎで弾く。けれどリヴァルは間を置かず、リアンに剣を振り下ろす。
「いつも、俺の一歩先に立つ!? 一歩先にいるんだあああっ!?」
リヴァルの叫びとリアンが流れるような動作で斬り上げ、リヴァルの剣と切り結ぶのは、ほぼ同時だった。
剣から溢れ出すように炎が噴き出し、リアンの太刀を舐める。しかし、炎の熱はリアンのダートによって奪われ、その刀身を溶かすには至らない。同様に、リアン自身にも傷を与えることはない。
変わらずのリアンの無表情が、リヴァルの神経を逆撫でする。その変化の乏しさが、余裕の表れのように感じられるのだ。
リアンは表情が乏しく、感情が希薄に思われるが、違うのだ。リアンの本質にリヴァルは歯噛みする。
剣は雄弁に、心は寡黙に──これは師であったシュバリエ・ド・フラムに教わった剣士の戦いの心得である。修行の中、幾度となく繰り返されたその言葉を、リヴァルもよく覚えていた。けれど、常に心に留めていたわけではない。
リヴァルにとって、その言葉は枷としか思えなかったのだ。剣に思いを乗せる──激情のままに振るうことは容易い。けれどその中で心を鎮めることなど、リヴァルにはできない。リヴァルを戦いへと突き動かすのは、身を焦がすような怒りと憎しみなのだ。それが宿敵を倒す力となるのなら、封じる必要がどこにある? ──だからリヴァルは叫ぶのだ。
憤怒を、憎悪を、ありのままの感情を焔の剣で叩きつける。それがリヴァルの在り方だった。
対するリアンはどうだろうか。幼い頃、同門の徒であった頃から、袂を分かち、今に至るまで。幾度も剣を交えてきた彼は。ともにゲブラーで研鑽を積んでいた時代、心を殺しすぎだ、剣に何も宿っていない、と師に言われていたリアン。ゲブラーにいる間、彼の剣はただ強く、しかしそこにあるべき信念が欠落していた。
それが今はどうだ? この森に来てからのリアンは、リヴァルの知る限り、負けを知らない。ゲブラーでは互角だったはずのリアンはいつも、リヴァルの傷を最小限に、そして森の犠牲も少なく留め、彼は誰にも手を下さずに戦う。
氷で研ぎ澄まされた太刀は、圧倒的な力で、森に害なすものを追い払うだけなのだ。決して命を奪うことはしない。
僕は、この森に恩があるから──魔物の存在をも守ろうとする彼がいつも口にする答えだ。本来なら味方であるはずのリヴァルにそう答えたリアンの剣は、鋭さを増し、効率的に、しかし誰も傷つけない、ある意味無敵の刃となっていくような気がした。殺さずに無力化するというのは相当な力量差がないとできないことだ。
身をもってリアンの増していく強さを体感するリヴァルは、そこに壁を感じた。
透明で、分厚くて、とても壊せそうにない、乗り越えられない壁が、二人の間には存在した。壁ではなく、溝だったかもしれない。いずれにせよ、遠く、届かない存在。
無表情の中に、決して折れない信念がある。剣を交えるたび、その志は強固になり、彼の太刀となっているのなら……
剣に思いを乗せて戦い、心を鎮めて、平静に技を放つリアンは、師の言葉を一言一句たがわず覚えている。そしてそれを実行している。
それがリヴァルとの決定的な差。
それでも──ぎり、と両手に持ち替えた刃をリアンに押し込み、リヴァルは思う。
それでも、俺はこいつに負けたくない!!
こいつが正しいなんて、認めるものか!!
「負ける、もんかっ」
リヴァルは唸り、剣を更に押し込むが、リアンも負けじと押し返し、湖水色の瞳で決然と炎の刃を押振り払う。
「僕も、負けない」
リアンの瞳には、強い意志があった。その確固たる意志に氷色の焔が、双眸に宿る。
がきん、とまた剣がかち合う。迸る炎を冷気が無効化していく。
土の民、木の民、アルブル、ソル、フェイ……リアンは、たくさんの守るべきものと守りたいものを、この森で見つけたのだ。
だから、譬──
命を賭したとしても。
建前などではないその思いが乗せられた剣が、リヴァルの刃を押し返す。
純粋なその思いにリヴァルの剣は払われ、リヴァル自身も弾かれる。たたらを踏んで数歩退き、リヴァルは目の前に佇む剣士を見据えた。
リアンはそう、紛れもなく、剣士だった。
リアンはリヴァルを追い、一歩踏み込み太刀を突き出す。リヴァルの喉めがけて。
リヴァルの体は自身の危機に反射的に動き、また一歩、さがる。リアンはさらにそれを追い、突きを繰り出す。その繰り返し。
幾度か繰り返しが続き、リヴァルはやがて、大樹の幹にぶつかった。
突きが来るなら、横に避ければ大丈夫。リヴァルはそう判断し、横に一つ跳ぶが、直後、腹部に衝撃が起こる。リヴァルの跳んだ方向から太刀が向かってきたのだ。
リアンの剣、目。どちらにも確信の光が宿っていた。動きを読まれた、とリヴァルは腹部を押さえ、咳き込みながら思う。だが違う。突きの攻撃を繰り返すことで、突きしか来ないと脳内の選択肢を狭めさせたのだ。つまり誘導である。それに、リアンの信念を理解していたなら、避けられた攻撃だった。森を守るリアンが大樹に穴を穿つわけがない。それが読みきれなかったリヴァルが反射神経と単調な繰り返しにより脳を支配されて受けてしまった攻撃だ。幸い峰打ちだったため、目立って傷はない。だが、峰打ちということは、この期に及んでリアンはまだ手加減をしているということだ。
剣と剣で立ち合うということは、殺し合いだろう、とリヴァルの中に怒りが渦巻く。「これで終わらせよう」などと宣いながら、リヴァルを殺さずに終わらせる気でいるのか。殺さないで終われる気でいるのか、とリヴァルは焔色の目でリアンを睨み付ける。侮られている。そう感じたリヴァルの中で屈辱が憤然と燃え立った。
リヴァルは剣を構え直し、リアンと相対する。相変わらず、リアンの眼差しは静かだ。
リヴァルは剣に炎を纏わせ、リアンに斬りかかる。袈裟懸けの一刀をリアンは紙一重でひらりと躱し、リヴァルを太刀の峰で薙ぐ。リヴァルはその衝撃を腕でいくらか緩和し、飛び退く。
リアンはそこから斬り上げ、一歩踏み込む。リヴァルの服が裂け、傷口から血が流れだすが、浅い。リヴァルはそのまま後退するが、またしても幹に背がぶつかる。すでにリアンが突きを繰り出していた。剣を振り上げて弾くしか、その凶刃を防ぐ術はない。
リヴァルがほぼ反射で剣を振り上げ対応したが、剣のぶつかり合う音が、手に来るはずの衝撃が、ない。否、想定していたものとは別の感触があった。
リヴァルがその違和感に気づいた時にはもう、終幕は完成していた。
「リアン!」
涙混じりの少女の声が谺する。その声でリヴァルと、氷壁に囚われていた三人が現状に気づく。
柄のみの剣を大樹に当て、焔色の剣に貫かれている剣士が、そこにいた。
「終わりだよ、リヴァル」
剣士が柔らかな声音で紡ぐ。その声にリヴァルは信じられない思いで相対する少年の顔を見た。
穏やかな湖水色の瞳と焔色の乾いた眼差しが交錯した瞬間、剣士が振り下ろした柄が、勇者の剣を握る手に叩きつけられる。
リヴァルは思わず手を放してしまい、その隙をついて、リアンがとん、と肩を押して距離を取った。リアンが後方にたたらを踏む。
「お、い……」
信じられない光景にリヴァルは上手く声が出ない。ただ戸惑いの表情を向けるだけ。
こんな終わりは想定していない。するはずがない。リアンを倒すとしたら、それはリヴァルの実力であらねばならないはずだ。まさか、リアンが自ら刺されに来るなんて、誰が想像し得るだろう。
リアンはそれに少し微笑んで言った。
「リヴァル、これ以上、誰も殺さないで。命を、殺さないで──どうか、僕で終わりにして」
ぴきぴきと音を立てて、リアンに刺さったリヴァルの剣が凍りついていく。いつの間にか柄のみだった太刀にも氷の刀身ができ、リアンはそれを地面に突き刺した。
りぃん、と音を立ててリアンの周囲を白い靄のような冷気が漂う。リヴァルがこれまで幾度となく見てきた冷気だったが、何か様子が違った。
ぴきぴきぴきっ。
「リアン?」
人の奏でるはずのない音に、フェイが不審げな声を上げ、駆け寄ろうとするが、リアンはそれを手で制する。上げられた手を見て、一同がはっとする。──その手は凍り始めていたのだ。
ぴきぴきと氷が広がっていく中、可視できるほどの光の魔力が漂い、リアンに集う。集った魔力は氷の太刀へと収束していき、土へと浸透していった。
「アミ・ド・ソル」
凛とした声が響く。
その足を見れば、温かみのある土色の上で白く凍っていた。
「フェー・ド・アルブル」
胸を貫く剣に切り裂かれた布の合間から、小瓶と赤い花が覗く。リアンの全身は徐々に凍りついていくが、小瓶と花だけはそのままの姿であった。
「ギャーシュ、レスポンサービリティ・アン・タン・クー・アミ・ド・エテルネル」
事態を呆然と見ていたリュゼがはっと息を飲む。
その変化に気づいたジェルムが不思議そうに彼女を見上げた。
「どうしたの? リュゼ」
「……これは、詠唱よ」
「え? どういうこと? あの子はダート使いなんでしょ? なんで魔法の詠唱なんて」
「わからないわ」
ダートの使い手はダートを得る代わりに普通の人間よりも持って生まれる魔力が少ない。魔法の一つも使えないほどに。使えたとして、詠唱も必要ないダートの方が利便性が高いため、ダートを持つ者は不便を感じない。だからダートの使い手は魔法を使わないとされている。
だが、桁外れの魔力を得たなら? その魔力を使いこなす知識と技量を持っていたなら? 可視化できるほどの魔力量、神しか扱えないとされる原語での詠唱方法。リアンはそれらを持っている状態であった。
リュゼは眉をひそめ、胸元できゅ、と手を握りしめた。
「けれど、彼のはただの魔法じゃない。原語魔法──セフィロートの神が人に最初にもたらした原初の言葉による詠唱よ」
「原語魔法? じゃあ、この壁と同じ──」
ジェルムが氷壁に触れようとしたその時、氷がびきびきとひび割れ、粉々になる。
リアンを見やれば、刺さっていたリヴァルの剣も同様に砕け、リアン自身も足の先からひび割れ、砕け散り、消え始めていた。
「リアン・ド・エペイスト」
そう紡ぐと、リアンはその場に崩れ落ちる。足がなくなり、立つこともできず、腕も片腕が半ばから氷の結晶となり消えていた。フェイが名を叫びながら、地につく前にその体を抱きとめた。
その様子を静かに見やり、青年がリュゼに問う。
「それで、彼はなんて詠唱していたんだ? 原語ってかなり旧い言葉だからわからないんだけど」
リュゼは砕けた氷が霧へと変わっていくのを見つめながら答えた。
「土の友よ、木の精霊よ。誓おう、永劫の友として、剣士の絆としての盟約を」
ふわりと風がそよぎ、霧をはらんで吹き抜ける。白く優しいそれらは森の彼方へと広がっていくようだった。
氷壁が解けたにも拘らず、リュゼの魔力は打ち消されたままだ。戯れに「風よ」と紡いでみても、霧を広げていく静かな風はただ風であるだけで、リュゼの詠唱に従うことはない。青年の属性矢も属性が消えたままだ。もう何もできることがない。
大樹の側で立ち尽くす少年に三人の仲間が歩み寄る。呆然としたままのリヴァルは、髪色も目も元の通りに戻っていた。どうやらダートも発動できないらしい。行きましょう、と苦しげにリュゼが手を取って、四人は去っていった。
四つの人影が霧の向こうに消えるころには、リアンの体はほとんど消えかかっていた。両腕は肩口まで、足は腰のあたりまで霧へと変わっていた。
「フェイ、ごめんね」
湖水色の瞳がフェイの夜空を見上げると、彼女が顔を歪める。もう、そこに浮かぶ涙を拭うこともできない。それがとてももどかしくて、痛かったけれど、リアンは微笑んだ。
「でも、僕はずっとここにいる。ここで森を、君を──永遠に、守るから……」
「うん」
その言葉に、フェイも笑った。
腕の中からすり抜けていく温もりを感じながらも、懸命に笑った。
「うん……」
もう一度頷くと、腕の中から完全に彼は消えた。まるで最初からそうであったかのように、冷たい霧の中に溶けて。
ぽとり、と何か固いものが落ちたのに気づき、フェイは滲む視界の中、それを拾う。
土塊が一欠入った小瓶と、それを首から下げるための麻紐にくくられた赤い花。
フェイはそれを拾い上げ、抱きしめた。
「君たちをずっと想い続けるよ」
消えたはずの優しい声が柔く耳朶を打った気がして、フェイは応える。
「ありがとう、リアン──」
彼女の頬を伝う一筋の雨滴を、柔らかい涼風が凪いでいった。
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