第6話 闇への誘い

 リアンはひとしきり泣くと、ふっと力の抜けたようにフェイに倒れかかる。フェイは慌ててそれを受け止めた。

「……ごめん」

「いいえ」

 謝るリアンにフェイは柔らかく答える。

 リアンはフェイから少し離れ、大樹の幹にもたれかかる。涙はもう乾いていて、纏う空気にも微かな心地よい冷たさが戻っていた。

「ねぇ、フェイ」

「なぁに?」

 リアンは足元の木の根に視線を落として問う。

「ソルはいつか、また土から生まれると言っていたけど、この近くから……ケセド近くのこの森から、生まれるのかな?」

 リアンの問いにフェイは木の根の間に降り立ち、目を閉じ、そっと白い手で土に触れる。

 さわり、と涼やかな風が花色の髪を揺らした。

 フェイはリアンに微笑みかける。

「きっと、この地に生まれるでしょう。ここはフロンティエール大森林の大樹、アルブル様がおわす土地です。それと何より──リアン、貴方と契りを交わした地です。土の民は絆を重んじる民。きっと貴方の元に戻ってきますよ」

「そう……」

 リアンは目を細め、静かに笑った。涼風に、白髪が揺れる。

 土の民は土から生まれ、土に還る種族。この森で生まれて、この森で育ち、この森に還る。土が肥沃であるためには木を養わなければならない。木は土に依って育つものである。そんな相互関係が作用し、土の民は力なき木の民を守り、木の民はこの森を豊かに保つ。そんな絆で結びついている。

 ソルから聞いて、リアンはそのことを知っていた。けれど改めて実感する。自分もその輪の中の一員として存在するのだと。

 だからソルの死が悲しいのだ、と。

 フェイに向けられた水面のような両の目には並々ならぬ覚悟の色が湛えられていた。

「フェイ、僕は、この森を守るよ」

 リアンのその言葉にフェイは不安を感じる。自棄になっているのではないか、と。

 けれどフェイを見つめる湖からは、今までのような脆さは立ち消えていて、代わり、確固たる決意が宿っていた。

「俺は、この森を守るよ。ソルが帰ってくる場所を。僕が帰ってくる場所を」

 リアンはフェイの白い手を取る。しなやかな指先はほんのり人肌のように温かく、それでいて柔らかな冷気でフェイの手を包んだ。

「フェイの居る場所を、守る」

 紡がれた決意の言の葉はじわりとフェイの人の手を通じて胸に染み込んだ。

 フェイは花の咲くように微笑んだ。

「ありがとう、リアン」

 その言葉にリアンも微笑みを返した。


 リアンは立ち上がり、大樹のがさがさとした幹に触れた。

「アルブル様」

 幹にそっと額をつけ、目を閉じ、その温もりを感じる。

「僕は誓います。この森を守りきると」

 空いているもう片方の手でぎゅ、と懐にある小瓶を握りしめる。ソルの欠片が入った小瓶を。

「ここにきっとソルが帰ってくるのなら、ここはソルの居場所で、交わした契りは永劫に消えない。僕はソルのアミだから」

 リアンはふとフェイに振り向くと、胸元で握っていた手を彼女に差し伸べる。

「フェイ、来て」

「リアン?」

 フェイは疑問符を浮かべたものの、その手を取る。フェイのきょとんとした夜空色の瞳がリアンの湖色のそれと交わる。

「ずっと、考えていたことなんだけど」

 リアンは珍しく迷いを滲ませながら、けれど覚悟を決め、真っ直ぐ言った。

「君とも、契りを結びたい。アミの契りを」

「えっ」

 リアンの意外な言葉にフェイは思わず驚きの声を上げたが、次にはやんわり、頬を緩めた。

「私も、貴方と契りを交わしたいと思っていました。ただ」

 フェイはリアンから視線を外す。その向こうには紅い花が──茎も葉も全て紅い花が一輪、咲いていた。

 今度はリアンが疑問符を浮かべ、フェイを見つめる中、フェイは続けた。

「アミの契りは土の民の契り。アルブル様に身を捧げた私はどちらかというと木の民のような存在なので──少し、別のやり方をしましょう」

 フェイはこちらへ、とリアンの手を引き、紅い花の元へ向かう。リアンはフェイの意図こそわからないものの、彼女を信頼し、ついていく。

 フェイは紅い花の前で立ち止まった。

 リアンは紅い花を見る。茎も葉も全て紅い花は近くで見ると棘を持っていた。リアンは危ないな、と眉をひそめる。

「これから始めるのは木の民たちの[ギャーシュ]という儀式です。まあ、木の民流のアミの契りですが」

 そんなリアンをよそに、軽く説明をし、フェイは紅い花に触れる。リアンが危ない、と声を発するより速く、フェイは棘に触れた。苦鳴をこらえ、息を飲むのが聞こえる。

 ぽたぽた、とフェイの白い指から花と同じ紅が零れる。

「っフェイ!」

「大丈夫」

 思わず声を上げたリアンをフェイは笑みで制する。そのままフェイは花を手折った。

 ぽたり、ぽたり……フェイの手から流れる紅が地面に染みて行く。紅いしみがぽつりと地面にできた。フェイはその上にもう片方の手をかざす。すると、紅いしみから紅い芽が出て、見る間に先程手折った花の半分ほどの丈まで伸びて、紅い花を咲かせた。フェイのダートだ。植物をただ成長させるだけではなく、普通なら芽生えないところから、異形の植物を生み出すこともできるらしい。

 真っ赤な血からできた真っ赤な植物は何故だかおぞましくは感じられなかった。むしろ血の温みを感じる。フェイの温かい思いがそこにあるからだろうか。

 フェイは小さなその花も手折り、手折ったばかりのその花をリアンに差し出す。

 リアンは戸惑いながらも、その花弁が散らぬように受け取った。

「これは血の花」

 フェイが微笑みを絶やさず説明した。

「ギャーシュは本来、木の枝や草花を手折り、それに自分の血を滲ませて交換するというものだけど、これは、私と貴方の契りだから特別」

「でも、その花は?」

 リアンの問いにフェイは悪戯っぽく微笑む。

「倒れていたときの貴方の血で作りました。勝手をしてごめんなさい。でも」

 フェイは答えると自らの髪にリアンの血の花をさした。

「私も一緒に背負うから。いえ、違うね……背負わせて」

 リアンを労る、いつもの笑顔。

「うん」

 リアンは頷き、懐の小瓶を提げる紐にフェイの血の花を結んだ。


 紅い小さな花を首飾りの紐に結わえつけ、リアンがフェイに微笑みかける。フェイもリアンに微笑みを返し、ギャーシュが結ばれたことを告げようと口を開きかけ、その表情が強張る。

「どうしたの? フェイ」

 フェイの表情が凍りついたことに気づき、リアンがいつもの無表情に戻り、怪訝そうな声で問う。フェイは強張った表情のまま、西の彼方を指し示した。

「あちらから、何かが来ます。恐ろしく強大な何かが」

 リアンもフェイの示す方へと目を向け、遅ればせながらその強大な力──魔力を察知する。

 ダート持ちは元来、魔力が少ない。ダートがあるため、魔法を使えない。そのようにセカイの仕組みの一つとして決まっている。元はダート持ちのフェイが魔法を使えるのは樹木の神たるアルブルの化身として、アルブルの持つ魔力を行使できるからだ。

 魔力の量、魔法を使う頻度によって、他の個体に対する魔力察知能力は変わる。故に、魔力が少なく、魔法を使わないダートの使い手は魔力察知能力には疎い。無論、リアンもこの例には漏れない。

 かつてダートの使い手であったフェイは現在もその力を行使できるものの、今は森の神たる大樹と一体化した存在だ。魔力察知、特に森に近づく者に関しては聡い。見れば、白かった人としての手足は元の枝がまきついて形を成すそれに戻っている。ダートの使い手だった頃の姿では魔力察知も鈍いのだろう。化身の姿に戻っていた。

 リアンは少し、それを寂しく思ったが、すぐ迫り来る強大な存在に気を引き締め、冷気の白い靄を纏い、腰に帯びた刃のない剣に触れる。

 魔力察知に疎いリアンですら感じ取れたほどの魔力だ。魔法使いであるならば、先日戦ったリュゼ並みかそれ以上──いや、それ以前に。

 リアンが感知した魔力に混じったそれに、彼は一瞬ぞくりとする。

 その魔力の桁外れな膨大さ、そしてその中に感じずにはいられない畏れという感情。力強い輝きとも取れるそれは、リアンが初めて森の大樹アルブルと対面したときにも感じたものだ。

 まさか、と思いつつ、リアンは警戒心を高める。その力が近づくにつれて、リアンの予測は確信へと変わる。

「闇の魔力の中に、神性……」

 リアンのこぼした呟きにフェイの表情が絶望に染まる。

 先も言ったとおり、フェイはアルブルの力で森に近づく魔力の存在こそわかるが、その魔力の種類までは判別できない。そのため、迫る魔力を[闇]と断じたリアンにも驚いたが、リアンにそれができたのはおそらく、本来は闇に集うものたちと戦う宿命を持って生まれたからだろう。彼は以前から魔物の気配察知に関してもフェイより速かったから。

 それよりも刮目すべきは闇の後に続いた[神性]という言葉。それは文字通り、神の持つ威厳、人智を超えた力、神々しさを表す。アルブルに神性があるのはアルブルが樹木の神だからだ。生命の神より序列は低いがフロンティエール大森林という広大な土地を任されたセフィロートにとって重要な神である。

 このセカイに闇の魔力を持ち、神性を放つものなど、一人、否、一柱しか存在しない。

 フェイはそれを察し絶句、リアンは魔王を討ち、かの神の復活を阻止せんとしていたはずの勇者の顔を思い浮かべ、歯噛みする。──リヴァル、君は間に合わなかったのか? ──心中で呟き、それでも森を守るため、瞳を揺るがすことなく、迫り来る闇を真っ直ぐ見据える。

 ほどなくして、一柱の神が大樹の前に来臨した。眉目秀麗な人の形をとった、人ならざるもの。絶対的な闇の存在。

 ふわり、とその白い足を地につけ、黒と紫に彩られた簡素ながらもその美しさを際立てる服。スカートの部分がひらり、風にたなびく。

 疑うべくもない。

 彼女こそ、闇の女神ディーヴァであった。


 闇の女神ディーヴァ。言わずと知れた魔王ノワールが崇める破壊の女神である。

 その力を示すように、リアンが木々を守るため咄嗟に張った氷の壁を硝子のように容易く砕いて見せた。

「ふふ、会いたかったぞ、人に属さぬ氷のダートの使い手よ」

 リアンに言葉を紡いだ唇は藤紫の妖艶な笑みを象る。見つめる双眸は深淵をおもわせる黒紫色。同色の足首まで伸びた長髪は彼女が一歩一歩地を踏みしめるたび、さらりさらりと揺れ動く。

 真っ直ぐこちらへ歩み寄る女神にリアンもゆっくり歩を進める。心を研ぎ澄まして、静かに──鍛練のとき、常に唱えているそれを、心の水面に落とし、リアンは油断なく、再度森に氷壁を張った。ディーヴァはそれに気づいているのだろうが、意に介した様子はない。威嚇するげっ歯類でも見るかのように愉しげだ。

 リアンは剣先のない柄にも変わらず、手を添えている。しかし、柄にかけているのは柄をかけている側の手、つまり利き手ではない方だ。けれどそれも考えがないわけではない。

 リアンは氷の太刀での抜刀を得意とする。抜刀が決まれば神とてひとたまりもないだろう。されど相手は神。普通に抜刀の構えを取れば、即座にその歩みを止めてしまうのは予想するまでもない。だから敢えて、利き手ではない方を使う。リアンは抜刀しかできないわけではない。ダートで刃を様々な形に変えられる彼はこのまま距離を詰め、細剣か短刀にして一撃を急所に突き刺そうと考えていた。利き手でなくとも、持ち手を返して相手に突き出すくらいわけない。彼の剣の師は魔王ノワール四天王に名を連ねるシュバリエ・ド・フラムなのだから。

 まあ、そもそも、神たるディーヴァを人間の急所を討ったくらいで倒せるかが問題だが。

 しかし、自ら近寄ってくるディーヴァの意図が全くわからない。リアンを宿敵たるダートの使い手と知りながら寄ってくる意図が。

 魔王四天王の一角、アミドソルが倒れたばかりなのだ。リヴァルは進軍するはずである。あと三人いるからといって、闇の女神自らが、敵対関係にすらないダートの使い手に攻撃すらせず、歩み寄る。攻撃された方がいっそ安心できるくらいに不気味な行動だ。

 ひたひた、と裸足で地面を踏みしめる音がする。

「なあ、氷の操り手よ」

 ディーヴァがリアンの湖を見つめ、語りかけた。

「戯れに、少し話をせぬか? 妾はお主に興味がある。そしてお主も妾に疑問を抱いておる。そうだろう?」

 こちらの思惑を全て見透かしているような黒紫色に、リアンはぴたりと足を止める。ディーヴァはゆったりと歩み寄る。やがて黒紫色と白銀色の前髪が触れ合うほどの距離までやってきた。リアンは無感動に、ディーヴァは蠱惑的な笑みを浮かべ、見つめ合う。

 しばしの沈黙がその場を支配する。大樹の前に立つフェイは二人を不安げに交互に見るが、かける言葉を見つけられずにいた。

 一触即発、とも思える空気の漂う中、沈黙を破ったのはリアンだった。

「そのとおり、ですね」

 その一言を紡いだ声はいくらか固い。ディーヴァは何が面白いのか、くすりと笑う。それを気に留めることなく、リアンは言葉を次いだ。

「僕は人に、ダートに敵対する貴女が何故僕に興味を持つのか知りたい」

「ふふ、そうだろう、そうだろう」

 その言葉を待っていたとばかりにディーヴァはリアンの答えに笑みを深め、語り出す。

「お主はセカイの危機を救うための力を授けられて生まれた。ダートとはそういう力だ。今のセカイにとっての危機なる存在は妾と妾の下僕どもの魔物たちだ。しかしお主は力がありながら魔物と戦わなんだ。それどころか、共に戦うもう一人のダートの使い手と敵対しておると聞いた。敵の敵は味方、という言葉もあろう? そう思うたら、興味が湧いた」

 饒舌に語るディーヴァは、さて、今度は妾の番じゃ、と続ける。す、と突き出された人差し指が、リアンの胸をとん、と突く。

「お主は何故に人間に与せぬ? 何故に人類の敵たる魔物が棲む森を守る?」

「守りたいから」

 リアンの答えは端的だった。淀みなく、迷いもない。

「憐れだな」

 その答えにディーヴァは嘲り笑う。くつくつ、くつくつ。歪んだ口角が愉快げだ。リアンは表情を崩さない。ただじっと、ディーヴァを見据える。今なら刺せる。そんな考えがよぎるが、リアンは彼女の次の言葉を待った。この女神はまだ、ここに来た真意を語っていない。それを聞かないままなのは癪だ。

 女神はひとしきり笑うと、口端に笑みを湛えたまま語る。

「知っているか? お主と同じくダートを授かった炎の勇者とやらは今、躍起になって我が眷属たる魔物を滅ぼそうと戦っておる。ノワールの四天王どもも、アミドソルの他二人も打ち倒し、今やシュバリエ一人のみだ」

 シュバリエとアミドソルの名に、つきん、とリアンは胸を衝かれる。四天王がシュバリエのみとなった事実にも──

 土塊の赤い目を持つ巨人の優しげな面差しがよぎる──いけない、とリアンは目を瞑った。心を揺らされてはいけない。

 心を研ぎ澄まして、静かに──呪文のように心で唱える。その言の葉もまた、師であった四天王の一人に教わったものだというのが皮肉ではあるが、その言の葉はリアンの心の水面に浸透し、鎮める。

 表情の動きこそ僅かだが、そんなリアンの揺らぎをディーヴァが見逃すはずはなかった。

「憐れだなぁ。お主、シュバリエのゲブラー襲撃の折には既にこの森でアミドソルといたのだろう? そしてシュバリエの裏切りを勇者から聞き、けれどアミドソルから受けた恩を無下にもできず──難儀なものだ。それからずっと、この森を守っているのだろう? かつては友であり、同門の徒であった炎の勇者と敵対してまで」

 まくし立てるようにディーヴァは尚、言葉を募る。

「そう、勇者。お主、勇者と敵対しておるのだろう?」

 愉しげに藤紫の唇が歪む。リアンは緊張を漂わせながら、そんな女神をじっと見つめる。

 そこて女神はようやくその真意を告げた。

「氷の使い手よ、妾の傘下に降らぬか?」


「馬鹿なことを言わないでください」

 そう返したのはフェイだった。その声は震えていた。けれど、夜空色の目を真っ直ぐ女神に向ける。

 ディーヴァはちら、とフェイを見、つまらなそうな顔をして、リアンに目を戻した。

「ダートは生命の神より賜りしもの。貴女がセカイの敵である以上、ダートを持つ彼が」

「彼が、なんじゃ?」

 艶やかな黒紫の髪を揺らめかし、闇の女神ディーヴァは湖水色の瞳を伏せたリアンを見守る。

 じり、と不安と警戒を漂わせ、二人のやりとりの間に割って入っていたフェイがリアンに歩み寄ろうとするが、ディーヴァがそれを闇色の眼で射すくめる。途端にフェイの喉は凍りついたように言葉を発せられなくなる。

「そこな娘。これは妾と氷の操り手との対話。介入は許さぬ。主神の化身たるアルブルの使徒よ」

 フェイはその神威に歩みを止めざるを得なかった。ただ不安げな目線だけをリアンに送る。

 リアンは湖水色を伏せたままだった。──が。


 ザッ──


 唐突に空を切る音がし、ディーヴァの黒紫の長髪がはらり、数本地に落ちる。

 つぅ、剣閃が僅かに掠めたらしく、ディーヴァの右頬にうっすら紅い筋が入る。

「ほう、それがお主の答えか」

 気づけばしん、と先刻より冷気を増した空気の中で、ディーヴァは微かに眉根を寄せ、呟いた。

 その眼前には、短く、心持ち細身の短刀を左手に握り、女神に迷いなく突き出した氷色の少年。彼が握る氷の刃に女神の血が細く滴る。

「僕は」

 リアンが氷の短い刃を消し、くるりと手の中で柄を回して腰に戻し、今度は右手を柄に添える。抜刀の構え。

「僕がこの森を守るのは」

 冷気とともに揺らめき立つのは明らかなる敵意と殺意。氷壁の中にひとひら落ちてきた木の葉がばちん、と弾ける。

「魔物の味方を──貴女の味方をするためなんかじゃない」

 語調こそ、普段の落ち着いたものだが、リアンの放つ闘志は常にないほど高まっている。それに伴い、相対するディーヴァの魔力も膨れ上がる。

「僕がこの森を守るのは、ここが、ソルとフェイの居場所だからだ!!」

 高らかな宣告とともに、リアンは氷の剣を抜き放つ。速い、と神であるディーヴァは心中で感嘆しつつ、身を翻して避ける。しかしたなびく黒紫の髪はその長さが災いし、今度は腰元辺りまで後ろ髪をごっそり持って行かれる。

 む、とここで初めてディーヴァが不愉快そうな表情を浮かべる。

「髪は女の命、と知っているか?」

 ばらばらと地面に散らばる黒紫を見やり、ディーヴァは不敵に笑い、軽口を言ってのける。

「ええ。でも、これくらいじゃ貴女の命は刈り取れない」

 湖水の瞳を真っ直ぐ返し、リアンは剣を構え、応じる。

「よく言う」

 答えるなり疾駆し、ディーヴァに迫り太刀を振るうリアンの剣閃をかわしつつ、ディーヴァはほろ苦く笑う。

 リアンの剣はまさしく光のごとく、鋭く、速い。風よりも、時として音よりも。しかしディーヴァはそれをひらりひらりとかわす。短くなり、腰元で揺れる黒紫とともに動く軽やかな足取りは、まるで舞いを踊るように鮮やかで美しい。

 舞いながら、彼女は謳う。

「闇よ闇、我が下僕たるものどもよ、妾を囲い、力を捧げよ」

 藤紫から発せられる調べに聞き惚れそうになるリアンだが、彼の第六感が警鐘を鳴らす。──これは、詠唱!

 直後、足元の地面の土がふにゃりと不自然なまでに柔らかくなる。それに足を取られる寸前、リアンは後方に飛び退る。

「さあ、捧げよ」

 ディーヴァが鼓舞するように謳うと、リアンが足をつけた土も沈む。先程地面に散らばったディーヴァの髪も土と溶け合い、闇色の光となってディーヴァの体に取り込まれた。

 魔力の少ないリアンでも易々と感じ取れる魔力の蠢き。これが身体強化だとしたら、ダートのそれと比べ物にならない。

「フェイ、アルブル様のうろに!」

 リアンは詠唱の影響を受けていない大樹の根に飛び移りながら、守るべきものに叫ぶ。神と戦いながら彼女を守りきれる自信はない。

 そんなリアンの思いを汲み取り、フェイは瞳に戸惑いの色を宿しながらも、大樹のうろへ入っていく。

「ふふ、さすがに弁えているか」

 ディーヴァがリアンの冷静な対処に賞賛の呟きをこぼす。しかし、その妖艶で不敵な笑みは崩れない。

 彼女の歌は魔法の詠唱。彼女の周囲に黒い靄が集っていることから察するに、闇魔法の身体強化か。土の民という魔なるものを生み出す土から力を吸収し、己がものとする。先程から地面で上手く踏み込みがきかないのは土が力を失ったからだろう。……さすがは闇の女神といったところか。

 魔法の効果でいまいち踏み切りのきかないはずの地面の上にも関わらず、ディーヴァの舞いは続く。より一層、その鋭さを増していく。

 女神は鮮やかに、艶やかに、尚も謳う。

「闇よ集え、我が手の中に」

 ディーヴァの歌に応じ、彼女がすらりと伸ばした両の手の先に黒い靄が集う。ディーヴァがひゅん、と手を閃かせば、それは黒き鋼の鉄扇と化す。黒く鋭い光がリアンの湖水を映す。

 そのまま鉄扇を翻し、ひゅるひゅると回りながら、ディーヴァはリアンに接近していく。とらえどころのない舞をかわすのは愚策か、と察したリアンは暗黒を纏いて舞う女神をじっと見つめた。

 睨みはしない。澄んだ凪いだ目。ディーヴァは愛おしげに手を伸ばし、鉄扇でリアンの顎に触れる。リアンが緊張で強張るのを鉄扇から感じ取り、ディーヴァは再び愉しげに、ふふ、と笑う。

 刹那、闇色の双眸がリアンの眼前に迫った。

「良い目をしているな」

 鉄扇と己を見つめる揺るがぬ湖水にディーヴァは顔を綻ばす。

 リアンは咄嗟に柄に添えていた手を裏拳としてディーヴァの鳩尾に突き出す。感触は軽い。ディーヴァは黒い靄だけを残して消えていた。

 どこに消えたか、動揺を収めて静かな心で探る。闇の魔力の塊と気配を察知するのは容易かった。

 後ろ。

 リアンは氷の太刀を抜き放ち、ぐるりと回転しながら一閃する。がちん、と固い音とぶつかる。ぎちぎちと鳴るのはディーヴァの鉄扇だった。

 リアンはいつもリヴァルにやるように、ディーヴァの鉄扇も凍らせようとしたが、ダートはディーヴァの神性に弾かれて上手く作用しない。生命の神の力と闇の女神の力。この二つが相反するものだと明確に示された。

 リアンは逆に絡め取られる可能性も考え、後ろに飛びすさる。ディーヴァはじゃらりと鉄扇を広げた。

 黒き鉄扇は闇色の靄──ディーヴァの魔力を纏い、びん、とリアンに放たれる。

 ざらん、ざらん、と振り撒かれた斬撃は曲線を描きながらリアンに迫る。リアンは回避しようと近くの木の枝に飛ぶが、刃は意思を持っているのか、曲線の描き方を変え、リアンに迫ってくる。森の守護者として木を巻き込むわけにはいかない、とリアンは木から飛び降り、着地点を狙った黒い刃たちを氷の太刀で弾いた。

 ディーヴァの舞は止まらない。再び魔力は黒き刃となりて、真っ直ぐに淀みなく、無慈悲にリアンの首を刈ろうと迫る。しかしリアンは微動だにしない。冷めた瞳で黒刃を見つめる。

 闇の刃がいよいよ彼の首筋に届こうか、という瞬間、黒き刃は氷結し、止まる。リアンが周囲の空気を瞬時に固め、凝固させたのだ。

 さすがのディーヴァも予想外だったのか目を剥き、動きを止める。その間にリアンは氷と化したそれを太刀で横薙ぎに払い、ディーヴァへと弾き返す。

 ディーヴァはにやりと笑い、鉄扇から再び刃を飛ばし、リアンが弾いたそれにぶつける。するといとも簡単に氷は砕け散る。が、闇の魔力の余波共々、砕かれた氷片がディーヴァに牙を剥く。ディーゥァは鉄扇を広げ、それらを弾くが、一部の氷片は小さいながらも彼女に傷を与える。

 氷片はすぐ止んだものの、息を吐く間を与えず、次なる危機が彼女に迫る。先程の闇と氷の爆発に紛れ、リアンが間合いを詰めていたのだ。彼も氷片の影響を受けたらしく、顔や手足にいくつもの裂傷がある。しかし、相も変わらずの無表情。眼差しと同じ冷悧な刃が袈裟懸けに斬り上げられるのを、闇の女神は膨大な闇の魔力を纏わせた鉄扇で返り討ちにしようとする。

 鉄扇が纏う魔力に先程返したものと同じ爆発の危険を感じる。先刻はいくつかの切り傷程度で済んだが、この距離ではとても避けられない。けれどリアンはもう、刃を止められない。


 まずい。


 リアンの背を冷たい汗が滑る。


 リアンの剣とディーヴァの鉄扇が交錯しようとしたそのとき──


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