第5話 木の精霊に癒されて

 ソルの腕に括られていた一筋の銀糸は、ふわりとリアンの手の中に収まる。しかし、触れた瞬間、それは冷気の結晶となって砕け散った。

 リアンは自分が今、どんな顔をしているか、わからなかった。ただ、ソルが、最たる友がいなくなったという事実が身を苛み、うまく、ダートを操れない。失ったのは、自分のせいだ。

 ソルに庇われた。ソルを救えなかった。自分は何度も救われたのに、それを返しきれないまま、ソルは死んでしまった。

 魔王四天王とダートの使い手。本来なら敵対すべきなのに、ソルはそんなこと気にする必要ない、と言って、笑ってリアンと契りを交わした。

 リアンが首から下げる小瓶がからん、と揺れる。土の欠片が入ったそれはソルの体の一部だったものだ。土の民にとって、肉体である土とは、己を司る全てであり、己の体が崩れゆくのは土に宿る神の力が降す裁きなのだという。正しくない行いをした者は土に還る。ただそれだけ。

 土に還るということは死ぬということではなく、元に戻るということだ、とソルは語っていた。元々このセカイに土の民など存在せず、神が気紛れに作った粘土細工のようなものが存在するだけ、と。土に還れば、凝り固まった正しさも、苦しみだけの切望も、全てセカイと一つになって、まっさらな心でまた生まれることができる。だから土の民は死を恐れないのだ。また生まれられることを知っているから。

 だから……ソルは笑っていた。

 ゆらり立ち上がると、ソルが消えた向こうには双つの剣を携えた炎の勇者の姿があった。土の巨人が消えゆく様に呆然としていたが、リアンと目が合うと彼は再び目に焔を宿した。

「次はお前だ、リアン!」

 ゆらゆらと刃のない剣を構えたリアンにそう宣告し、リヴァルは疾走する。リアンは無表情でそれを見、無言で柄をかちゃりと持ち上げる。

 リヴァルはリアンに迫りながら、違和感を覚えていた。──何故リアンはダートを使わない?

 柄は先程のような太刀にも、先日のような細身の剣にもならなかった。冷気での妨害もない。身体強化に回している様子もないため、リアンに戦う意志がないのか? と疑ったが、構えたのだからそれはないだろうと思い、リヴァルは双剣を振るう。

 ガチィッ

 片方は鍔の部分で受け止められた。まずい、と思ったリヴァルだが、何故このとき「まずい」などと思ったのか、リヴァルにはわからなかった。因縁の宿敵を遂に倒せる絶好の機会が到来したというのに。

 そんな思考がちらとよぎった次の瞬間、リアンに感じた違和感が確信となり、慄然とする。


 ザシュ──


 もう片方、下から斬り上げた刃は捌かれることなく、リアンの脇腹を抉った。

 何故? ──リヴァルはまず疑問を抱いた。これまで、リアンとは幾度も刃を交えてきた。それこそ数えきれないほどに。だから、こうも簡単にやられる相手ではないと嫌というほど思い知っていた。自分はいつも負けてばかりなのだから。

 リアンに勝ちたいと思いながら、リアンが負けることなど、一切想像できないまま、リヴァルは目の前をゆっくりと流れていく現実を凝視していた。

 とさり。

 信じられなかった。地面に倒れ伏すリアンの姿が。

 おかしい。何を思っているんだ? 自分は。ずっと倒したかった相手じゃないか。何を戸惑っているんだ。やっとリアンに勝てた。それでいいじゃないか。

 リヴァルは自分を呑み込もうとする疑問を無理矢理保留にして、倒れたリアンに止めを刺そうと今一度剣を振りかざす。

 そのとき、リアンを覆うように氷の壁が生まれ、リヴァルは弾かれる。状況がわからない。リアンにまだ意識があるのか?

 考えながらも再度近づき、氷壁を見てぞっとした。間違いなくリアンのダートを感じられるその氷壁は向こう側が紅く透けて見えたのだ。

 リアンのダートは氷を生み出すわけではない。空気中の水分に冷気を当てることによって靄にしたり、氷にしたりするのである。空気には塵も混じっていて、純粋な水というのは存在しない。だから靄が白かったり、氷壁が透明でも、壁と目で認識できたりする。

 それが今は紅い。つまり、ただの水ではないものを冷気で固めたということになる。

 紅い、液体。

 その正体に気づくのは、あまりにも容易だった。

「な、んで」

 リヴァルはもう一度、今度はゆっくりとリアンに近づく。

「なんでお前はそこまでして」

 ぴしっ。不意に氷壁にひびが入る。リヴァルが一度歩みを止めるが、それはほんの一時で、構わず進んだ。

「そこまでして、守るんだよ!?」

 やるせない思いを叫び、リヴァルが駆け出す。

 すると、氷壁は更にひび割れ、ぱりん、と砕ける。しかし、砕けた氷片は地に落ちることはなく、まるでそれ自体が意志を持つかのように、リアンに迫るリヴァルに向かって飛んだ。

 矢弾のごとく飛びくる氷片を双剣でさばきながら、リヴァルはじりじりと後方に退けられているのを感じた。一つ一つは小さい氷片だが、威力は易しくない。

「くっ」

 見るにリアンの意識は確実にない。つまりはダートはリアンの意思とは無関係にダートが発動しているのだ。自らの主たる宿主を守りたいがために。

 力が持ち主を守る──それがどれだけ異様な事態か。けれどそれはリアンが自らのダートにそれだけ愛されているということ、ダートの使い手として、祝福されているということ。

 セカイを滅ぼさんとする魔物と戦う道を──「セカイを救う」道を選ばなかったはずのリアンが何故──?

 理不尽だ。こんなことってないだろう。何故いつもいつもお前ばかり優遇されるんだ。リヴァルは氷の欠片を剣で弾きながら、ぎり、と歯軋りをした。

 リアンは正しくないはずなのに、リアンばかり、才能にも環境にも恵まれて。魔物なんかと心を通わせて、リヴァルと仲間たちを上回るような絆を持って。

「っつ」

 考えているうちに、氷片の一つがリヴァルの頬を掠めた。頬にできた紅い筋からたらりと液体が流れ落ちる。けれどリヴァルを守るために、リヴァルのダートが自動発動することはない

 リヴァルは苦汁を飲み、撤退を決断した。

 圧倒的な力量だけではない差から目を背けるためのものでもあった。


 リヴァルが立ち去り、そこには力なく倒れ伏すリアンだけが残された。

 ほどなくして、リアンの後方にある大樹の陰から少女が一人、現れた。淡い桜色の髪に緑色の花を咲かせ、手足は人のそれではなく、枝が絡み合って形を成している。

 そんな姿の人外の少女はリアンに歩み寄り、その側にそっと膝をつく。夜空を映したような瞳が悲しげにひそめられる。

「リアン──」

 そう言った少女──フェイはリアンの脇腹の紅い傷口にそっと手を当てる。すると、絡み合って手の形を成していた枝が消え、中から人間の、白い肌の人間の手が現れる。

 白い手は柔らかな光を放ち、傷口をどんどん消していく。やがて、ぱっくりと割れていた傷は嘘のように消え、紅い血の跡だけが残った。それを確認すると、フェイの肘の辺りから枝がにょきにょきと伸びてきて、白い手を覆い尽くす。

 詠唱した様子はない。──ダートということか。

「わがままを、ごめんなさい。主様」

 フェイは大樹に振り向き、眉を八の字にひそめ、謝る。大樹は答えない。ただ風の吹くままにその葉をさざめかせるだけだ。

 フェイはリアンに向き直り、リアンを濡らす血溜まりにちょん、と枝の指先で触れた。

 血溜まりはみるみるうちに収縮し、地面にぽつんと紅い点を残す。その点から、紅い芽が生え、するすると伸び、蕾をつけ、紅い花が咲いた。茎も、葉も、花も、全てが紅い植物がそこに生まれた。

「ごめんなさい」

 フェイが花を見て呟く。その言葉は、誰に向かって放たれたのだろうか。

 フェイはリアンを抱き起こす。目を覚ましてしまわないようにそっと起こして、自分に引き寄せる。ぐったりとしているが、華奢なリアンは人外とはいえ少女であるフェイでも楽々と抱き抱えられるほど、軽かった。

 重みのない体に、消えてしまうのではないかと不安を抱いたフェイはその体をきゅ、と少し強く抱きしめた。彼の体はいつものとおり、少し冷たかった。冷気の影響を受けた体とはいえ、その冷たさは生気を感じさせず、フェイの不安を更に煽る。口から零れる静かな呼吸だけが、リアンが生きているとわかる唯一の証だった。

 いつの間にか瞑っていた目を開け、フェイはリアンを背負い、大樹の側に運んだ。本当は大樹のうろの中で休ませたいけれど、うろの中では自分は動けない。

 フェイは大樹にリアンを寄りかけると、ほっ、と一息吐く。隣に腰掛け、眠る横顔を見た。──リアンは、寝顔まで無表情だ。

 なんだか、徹底しているように思えて、くすりと笑みをこぼそうとしたが、やめた。無表情な頬を一筋、水滴が伝っていたのだ。

 フェイはなんとなく、それを見なかったことにしたくて、立ち上がる。近くに小川が流れていたはずだ。

 フェイは森の緑をくぐり、さらさらという水音を探る。小川に近づくとより空気が澄んで感じられ、フェイは好きだった。本当は、リアンを連れてきたいけれど、できない。彼のダートは、川を凍らせてしまう。

 彼はいつも、森を守ろうと懸命だから、ダートを張り巡らせているのだ。それは誓いの固さを示すように氷を生み出す冷気で、けれど流れていく川の息吹きを止めてしまうことに、彼はいつも悲しそうにしていた。水と相性のいいはずなのに、彼は川や湖には寄らなくなった。

 心を研ぎ澄まして、静かに──

 冷気を操る訓練の際に、リアンが時折口にする言葉だ。そうして、彼は流麗な氷の太刀を生み出す。研ぎ澄まされた刃で、森を守るために駆けるのだ。

 全ては、森を守るために……リアンはそのためにどのくらい心を、と思うと枝の絡み合った腕が軋むほどにフェイは手を固く握りしめた。

 フェイは小川のほとりにかがみ、水面を見つめる。

 リアンは、いつも心を研ぎ澄ましている。森を守るために。けれどフェイにはその[心を研ぎ澄ます]という行為が彼の心を削っているように見える。本当はぼろぼろに傷ついているのに、傷口を凍らせて、誤魔化してしまっている。

 いくら誤魔化したって、傷ついた事実は消えないのだ。繰り返し続ければ、いつか、倒れてしまうときが来る。フェイはずっと、それを恐れていた。それが今日、現実になってしまった。だから、あんなに傷ついてしまった。

「草木よ、繁り、形を成せ」

 フェイは地面に手をつけて、そっと言の葉を紡ぐ。すると、手の側から蔦が生え、ぐるぐるとひとりでに編まれていき、籠となる。できた籠を手に取り、フェイは小川の水を掬って入れた。隙間なく蔦で編まれた籠から水が零れることはない。

 籠を抱えて元来た道を戻る。

 フェイはリアンのことを思った。森を守りたい、という彼の気持ちは痛いほどわかる。恩返しのために、というのも。

 フェイもかつてはそうだったから。この森に来る前、人間だった頃は。自分は大樹の使徒という形を取っているから、簡単に死んだりはしないのだけれど。

 リアンは人間だ。その心を壊してほしくない。……死んでほしくない。

 そう考えていると、ゆら、と籠の中の水面が揺らぐ。ぴし、と少し水面が凍った。地面も先程より冷たい。フェイははっとして顔を上げた。

 冷たい風が頬をなぜる。大樹に寄りかかる少年が湖の瞳を開いていた。

「リアン!」

 フェイは名を呼び、駆け寄る。リアンはその声に顔を上げた。

「フェイ、リヴァルは?」

 第一声はそれだった。自分が傷ついたというのに、まだ彼は戦うつもりのようだった。

 フェイは首を横に振り、答える。

「逃げていったわ。それより、あまり動かないでね。傷は塞いだけど」

「う、ん」

 リアンはぎこちなく頷いた。

「草木よ、温もりをもたらせ」

 フェイが唱えると、凍っていた籠の中が溶け、水に戻る。

 フェイは隣に掛け、リアンの顔を拭く。リアンはされるがままだった。

「ねぇ、フェイ」

 唐突にリアンが口を開く。なぁに? と静かに応じると、リアンは覇気のない声で訊ねた。

「ソルは、死んでしまったの?」

 放たれた問いにフェイはリアンの顔を拭く手を下ろし、顔を俯けて、小さく頷く。

「アミドソルは、土に還りました。……またいずれ、新たな土の民として生まれてくるでしょう」

 土に還り、土より出る。それが土の民という一族の仕組み。故に土の民は死んでも、年月こそかかるが、生き返ることができる。

 ──こんなことを言っても、リアンには何の慰めにもならないだろう、と思いながら、フェイはそう答えた。

「そっ、か」

 リアンをちらりと見やると、彼は透明な瞳で虚空を見つめていた。

 泣けばいいのに、とフェイは思うが、彼が泣けない理由を知っているため、口には出さない。

 リアンはダートで涙すら凍らせてしまうのだ。故に泣けない。

 これは魔力にも言えることだが、ダートという力は殊更感情と深い繋がりがあり、感情を昂らせれば、よりその能力が強く発揮されるのだ。だから泣こうと思えば思うほど、リアンは泣けなくなる。

 こんな不器用で簡単に泣けない少年が、傷だらけで自分たちを守ってくれているのに、彼のことは一体、誰が守るのだろうか。

「フェイ、僕、ダートの使い方がちょっと、わからなくなった。だから、極端に冷たかったり、熱かったりするかもしれない。しばらくは。──心を、研ぎ澄ませば、いいんだろうけど」

「いいの」

 フェイはリアンにそっと触れる。枝の指先に白く霜が降りる。

「フェイ、だめだよ」

「いいの」

 フェイの手を払おうとして、リアンがひゅっと息を飲む。

「少し、昔話を聞いてもらえるかな?」

 そう言ったフェイの手は、枝が消え、白い人の手になっていた。

 見れば、足も裸足の白い肌になっている。

 リアンの知らない、完全に人間の姿をしたフェイがそこにいた。

 おそらく、その昔話に関係があるのだろう──リアンがこくりと静かに頷くと、フェイは語り出した。

「私が人間だった頃の話よ」




「もう、何百年も前のことだけれど、私はこの森の向こう側にある都市ティファレトで生まれた」

 ティファレト。リアンは知識を辿る。現在は魔王ノワールの支配下にある都市の一つで、自然豊かな美しい土地だと聞く。リアンの故郷ケセドと一二を争う田舎都市で、住民が少なかったため、魔王侵攻の際もほぼ無血で開かれたと聞いた。

 故にノワールに占拠された今も他の魔王軍の占拠地に比べ、元の美しい姿を保っているらしい。

 リアンは行ったことはないが、いつか行ってみたいと思う場所だった。セフィロートの宝箱と言われるほどの場所だ。花色を纏うフェイによく似合う場所なのだろう。

「ええ。ティファレトはとても美しい場所だった。それは今も昔も変わらない。自然もそうだけれど、人の心も、美しかった。私を育ててくれた人々も、皆」

 フェイは懐かしむように夜色の目を細め、遠くを見つめる。森の緑がちらちらと星のように瞬く瞳が神秘的に見えた。

「私はその人たちに感謝している、今もずっと。だから守りたかったのだけれど……その人たちは死んでしまったわ」

「なんで?」

 暗く翳った瞳を覗き込み、リアンは問う。すると、フェイは白い手を土の地面につけた。白い手を通じてその土に温かい色の光が注がれる。しばらくして、フェイが手を離すと、そこにはひょっこりと、鮮やかな新緑色の芽が顔を出していた。

「これが私のダート」

 フェイが紡いだ言葉にリアンがはっとする。

「私は植物を操るダートを持つ者として、ティファレトに生を受けた。けど、今のようにセフィロートを滅ぼそうとする者もいなかったし、本当に平和だった世界に生まれたから、ティファレトの人たちは私のダートを隠しつつ、普通の子として育ててくれた」

 リアンは意外そうに目を丸くする。

 彼はダートがあると知れるなり、ケセドから大都市ゲブラーへと送られた。ダート使いの英雄を多く輩出している場所で、一人前のダートの使い手になって、セフィロートを救ってほしい、と送り出された。

 生まれてからダートの使い手として育てられたリアンにはダートに関わらない[普通]の生活というのが想像もつかなかった。

「私は生活であまりダートを使うことはなかった。時々、なかなか芽生えない農作物を育てる手助けをしたり、気まぐれに花を咲かせてみたり。ダートを使うのは、楽しかった。多分きっと、私があの頃咲かせた花の子孫たちが今もティファレトで咲き誇っているでしょう」

 きっと幸せだったのだろう。懐かしげに語るフェイの顔は優しく綻んでいた。

「今に比べたら、随分と幸せな時代だったと思うわ。でもね、そう長くも、続かなかったの」

 陽光の笑みは消え、フェイの表情が曇る。きゅ、と先程リアンを拭いていた布が握りしめられる。

「私が齢、十を越えた頃だったかしら。セフィロートの各都市で日照りが続いて──かつてない大飢饉が訪れた」

「飢饉?」

 耳慣れない言葉にリアンが首を傾げる。

「食べる作物がなくなって、たくさんの人が飢えてしまうことを言うの。今はもう、馴染みのない言葉だろうけど」

 フェイが説明しながら、先程生やした芽に手を翳す。芽はするするとリアンの目ほどの高さまで伸び、白い花を咲かせた。

「この力は、この飢饉を乗り切るためのものなのだと、ティファレトの人たちは気づいた。優しいあの人たちは私の力を独占しようとはせず、すぐ他の都市に明かした。私も、それでいいと思った。苦しんでいる誰かの助けになれるのなら、それ以上のことはないわ」

「うん……」

 リアンは静かに頷いた。彼はできることなら今でも、人々のために戦いたいと思っている。森を守りたいという気持ちの方が強いだけであって、人のことだって守りたい。

 そんなリアンは、なんとなく、話の行き先に想像がついた。

「でも、私の存在を明かしたとき、ティファレトの人たちに浴びせられたのは、問答無用の罵詈雑言の数々だった」


 思い出すと胸が痛む。……と、フェイはきゅ、と胸元で手を握りしめた。

 今でも一言一句違えずに思い出せる、ティファレトの人々や自分に向けられた、罵詈雑言の数々。


 ある者が言った。

「お前たちはダートの子供を隠し、自分たちだけ恩恵を得ようとしていたんだな!」

 ある者が言った。

「そんなお前たちの浅ましさに神がお怒りになってこのような飢饉を起こしたのだ」

 ある者が言った。

「お前たちのせいだ!!」

 ある者が言った。

「お前たちのせいだ!!」

 ある者が言った。

「お前たちのせいで我々の父や母や子どもたちが飢えに喘ぎ、死んだのだ!!」

 ある者は言った。

「お前たちのせいだ!!」


 浴びせられた言葉を忘れることができない。あのときはただただ辛かった。ティファレトの人たちは何も悪くないのに、自分のことで責められている。それが辛くて仕方なかった。

「私の力を独占しようとする人が現れないように私の存在を隠していたのに。これじゃだめだ、と手を差し伸べたら、責められる……やりきれなかった。きっと、私以上にあの人たちがやりきれなかったはずです。でも、その後のことはどうすることもできなかった。私たちは弱かったから」

 植物を操るダートの存在を隠していたティファレトの住民に対し、怒り狂った他都市は一斉に攻撃した。統括された部隊を持つ王国都市マルクト、人間魔物問わず猛者たちが集う英雄都市ゲブラー。剣の栄えるネツァクと魔法の栄えるホド。大都市たちが手を組んでティファレトの地を焼いた。ティファレトの人々を虐殺した。

 ティファレトは元々農耕を営む都市。作物を紡いで長閑に暮らしていただけのティファレトの住民に、他都市の武力に対抗する力などあるはずもない。

「私はティファレトの人たちに守られながら、彼らが殺されていくのを見ていることしかできませんでした。やめてと叫んでも、草木の壁で阻んでも、他都市の人々はティファレトを焼き払い、そこに住む人を殺しました」

 凄惨な光景は目を閉じれば今でもありありと思い出せる。逃げろ、君だけでも生き延びろ、と叫ぶ人、フェイに襲いかかろうとしていた者を羽交い締めして止めていたが、何事でもないかのように、投げられ、飛ばされ、ぐちゃりと頭が潰れた人。フェイを狙って放たれた矢を庇って胸が射られた人。フェイは瞼の裏に浮かぶ人たちに、いつも懺悔する。ダートを持っていたのに、貴方たちを救えなかった、と。貴方たちは私を守ってくれたのに、私は貴方たちを守れなくて、ごめんなさい、と。

「挙げ句、ティファレトで虐殺の限りを尽くした人々は私に言いました。[自害しろ]と」

「……え?」

 リアンは話が飲み込めず、訊き返す。フェイの夜空色の瞳はどこを見ているのかわからなかった。ただ、繰り返す。

「私に[自害しろ]と。[ダートを持つお前が死ねば、神はそれを贄として、許してくださるだろう][神の力なのだ。正しく振るわれなかった力はその御許に還るのが道理だ]と」

「そんな!」

 なんて、残酷なことを──リアンは言葉を失った。フェイは変わらずどこを見つめているのかわからない視線で夜色は森の緑もリアンの湖も映さず、虚空を見据えている。

 リアンは思わずフェイの手を掴んだ。枝ではない、白い肌の人間の手。でないと、フェイがここではないどこかに行ってしまうような気がして。

 フェイ自身の手は、リアンがはっとするほどの温もりを持っていた。

 リアンの手を包むようにもう一方の手を重ね、フェイは微笑む。リアンは光の灯ったその夜空を見つめ、問う。

「それから君は、どうしたの?」

 フェイは夜空の瞼を閉じ、ほろ苦く笑う。

「逃げました」

 やけにあっさりと告げられた事実に思わず目を白黒させるリアン。フェイは苦笑を深めながら、続ける。

「逃げました。私一人では戦うことなどできなかった。守りたかったティファレトの住民もほとんどが死に絶え、私の心の支えはなくなった。だから、何も考えず、ただ逃げて──ここに着きました」

 フェイは大樹を見上げた。リアンもつられ、見上げる。茶色く力強い幹の向こうには緑が覆い繁り、天まで昇らんとしているかのような雄々しい大樹がそこにあった。

「森に逃げれば、誰も追ってこないと思ったんです。この森は人間がただ通るにはあまりにも深い。昔から迷いの森と呼ばれるほどなのですよ」

 フェイは案の定、迷ったらしい。ここがどこかもわからないまま、惹かれるように、大樹の前に辿り着いた。

「主様は傷ついた私を見、[生きたいか]と問いました。私は頷きました。生きて、守りたかった。誰に知られなくてもいい。悲しい世界を止めたかった。だから私は主様に頼みました」

 そっとリアンから手を離し、幹に触れて呟く。

「もうこの先、人々が飢えることのないよう、守ってください、と」


 フェイの言葉にリアンは目を見開いた。

 守るために手を差し伸べた人々に[死ね]と言われたフェイ。そんな彼女が大樹に捧げた祈りが、自分を突き放した者たちが苦しまないように、というものだなんて。

 リアンの視線にフェイは悲しげに眉をひそめる。白い手が再び、リアンのそれと重ねられた。

「リアン、貴方が思っている以上に、ダートは無力なの。私は守るための力がある貴方が羨ましい」

「でも、僕は!」

 リアンは切なげなフェイの瞳から視線を外し、喘ぐように告げた。

「僕は、守りきれてないっ……リヴァルを何度も追い返してはいるけれど、そのたびに木々は燃えてる。ダートで火の熱が消えても燃えてしまったことまで消せない。ケテル付近の森だって、後手に回った。ソルだって、死なせてしまった。あのとき冷気のダートをすぐに使えていれば、間に合ったかもしれないのに。……僕は、僕はいつも、守りきれてないんだ!」

 吐き出した思いにリアンは肩を震わせる。涙は流さない。顔も無表情だけれど、本当は泣きたいのだと、フェイにはわかった。

「いいの」

 フェイは再び言い、握る手にきゅ、と力を込める。

 ぱきぱき、と硬い音がした。

 リアンがはっとし、フェイと繋がれた手を見る。霜の降りたフェイの手は赤くなっていた。

「フェイ、放し」

「いいの」

 リアンの言葉を遮り、繰り返すフェイは、唐突に手を引き、リアンを自分に引き寄せた。

 リアンが感じたのは、久方ぶりの、人の温もり。

「フェ、イ?」

「いいの、リアン」

 仄かに冷たい体を抱く。空いている手をリアンの頬に優しく当てる。

「私だって、悔しかった。本当は守れたんじゃないかって、もっと別な手立てがあったんじゃないかって、色々考えて、それでも、考えても、戻ってくるわけじゃなくて、それが悔しくて、虚しくて──主様の中で、たくさん泣いたわ」

 フェイも人間だったのだ。リアンと同じくらいの年の少女だったのだ。[死ね]と言ってきた人々に、大切な人たちを殺した人々に、憎しみがなかったわけではない。人々を救うための決断に迷いがなかったわけではない。

 その抱えきれない思いたちをただ涙で流しただけで。

 けれど、それだけで幾分か、フェイは救われた気がした。

「だから、リアンも泣いて、いいの。いいんだよ……」

 柔らかく放たれた声、と身を包む温もりにリアンの中の何かが次第にほどけていく。

「ぼ、くは、守れ、なかった、のに」

 掠れる声がフェイに問う。

「いいの、かな? 守れなかった、僕なんか、泣い、て」

「いいの。いいんだから」

 フェイが頬に置いていた手をリアンの背中に回す。リアンはその肩に顔を埋めて、静かに嗚咽を漏らした。

「……ああ、あああ……」

 ぽたぽたと大樹に温かい雨が降り注ぐ。

 フェイはリアンの背を撫でながら、ほっと肩を撫で下ろした。

 樹木を操るフェイのダートは陽の光に通じる、温もりの力を持つ。

 リアンの冷気を打ち消して、そっと泣かせてあげられる。

 このダートはそのための力だったのかもしれない、と思えるほどに、フェイの心は満たされ、無力と称したダートに感謝した。


 今一度、リアンに囁く。




「貴方は、無力なんかじゃないよ」






 と──


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