ゆらぐ自然


 駅からバスで一時間、ふわりと浮いた陸の孤島。

少年とその兄と母の三人、父と離縁しそこへ移り住んだ。その地方でも随一である都市から来た三人にとって、孤島での暮らしは大変なじみづらいものだった。

 

 しかし少年には、そこでの暮らしは幻想に誘われたようだった。

家のアパートには放置された雑林が広がり、通学路にはザリガニの住まう小川が脇に流れ、小学校の三階からは家家よりも畑と森がよく見えた。人よりも自然に触れあえた。だから初めのうちは方言も強いクラスメイトよりも、一人で林には入って遊んでいた。

 だがある日、クラスメイトたちが森に入るという話を聞いてから一気に少年はクラスに溶け込んだ。自然を介して、少年は人と関わり始めた。

 友人と校庭でセミの抜け殻を見つけてはつつき、飽きてはジャリジャリと踏みつけた。帰り道では当たりの林を見つけてはよって、人の背より長い草木を踏み分けてはそこに秘密基地を作った。そこで友人と明日の宿題を片付け、夕暮れまでたあいない雑談に興じた。自然はいつでも子供を受け入れ、四季が移ろうたびに姿を変えた。


 ……少年はいつまでも自然に逃げ込めるわけではなかった。

周囲の大人が幸か不幸か、少年のことを忘れずに見ていたのもあるが、一番は少年自身がある日を境に自然の幻想から覚めてしまったのだ。

その日はクラスでのトランプ大会をきっかけに友好を持ったクラスメイトの家に数人の友達と乗り込んだ日だった。


 友人とはその日、家でゲームをする予定だった。しかし少年は其の友人の家を見るやいなやその気はどこかへいってしまった。今までのどの家よりも大きな邸宅に少年は度肝を抜かれた。しかしその日に何よりも輝いて映ったのは、豪邸の裏にある大きな竹林だった。

 自然に心を奪われがちな少年は、早々にゲームを放り出し、友人たちに裏の竹林へ行こうと言い出した。友人たちは快諾し、薄暗い竹林へ歩を進めた。


 

 竹林へ入ると真夏にもかかわらず、氷に包まれたような肌寒さが少年たちをむかえた。二の腕をさすりながら、少年はどこに基地をつくろうかと一人嬉々として歩いた。そんな期待とは裏腹に、竹林はよく整備されていて遠のいた友人の家も視界に入れる事ができた。子供六人で横歩きをしていると寒さも少しは和らいだ。

 数十分ほどで竹林を歩き終えた少年は、ふと林の端、友人の家から最も遠く離れたところに大きな崖を見つけた。


 思わず少年はその崖を登ろうと言って、一人崖に手をかけ始めた。

友人は笑いながら少年の蛮行を後ろから見ていた。しかし全く手を止める気のない少年を見て、彼らも後を追うように登った。ごつごつとした石が多く、自然になじみある少年はするすると一番に崖の上に上がった。




 しかし見わたせた自然は、今までの自然のそれとは全く別のものだった。視界の端から奥の方へ山がつらなり、鬱蒼とおいしげる、ながいながい草木がどこまでも続いていた。太陽はそれらを照らしているのに、さっきの竹林よりずっと寒々しい空気が満ちていた。どこかで獣の遠吠えがした。ざあ、がさざあと草木が不規則なリズムに揺れている。背中をたらりと嫌な汗がつたう。

 少年は初めて体で感じた恐怖を、「こわい」という言葉を知らなかったゆえに心を正しく持つことができなかった。少年は草木を踏み分けもせず、背の二つ分もある草の中へ入った。あっという間に少年は一人になった。


 もう友人も、山すらも見えない。顔をぐっと上げてみても、草が全てを覆い隠してどろりとにごった空が見えるだけだ。草をへだてた向こうから、何かがこっちを見つめている気がする。

 その時はじめて、少年は下校時から今まで歩きづくめだったのを思い出した。急に足がもつれてその場にへたり込む。


 胸の奥が寒さできしむ。ろくにいうことを聞かない足を抱えて、体育座りをする。ながいながい草がずっと上から見下ろしている。ぶるぶると震える体をおさえるように、かすれた声で歌う。


「かごめ かごめ

かごのなかのとりは

いーつ いーつ でやる……」


 バチンと遠くで大きな音がした。一気に足から頭のてっぺんまで鳥肌が伝った。声にならない悲鳴をあげた。少年はそれきり、気を失ってその場で倒れた。



 目が覚めると先刻いた友人宅の和室にいた。

友人たちが少年の顔色をのぞき込んでいる。血の気がもどり、ニコリと少年が微笑むとひどく友人たちは安心して、部屋の緊張がぐっとほどけた。

 もう日も暮れてしまい、子供達はそれぞれの親に手を引かれ友人の家を後にした。少年も遅れてやってきた母の車に乗った。母は友人の家族と何かを話して紙袋をわたし、車へ戻ってくると小さく息を吐いた。


「もう森には入るな」


母は怒っているとも困っているともわからない声で少年に言った。後部座席に座る少年は、ハンドルを握る母の顔は窺い知れなかった。ルームミラーは夜の闇にかくれてしまっていた。


 それからの少年は、アパートの近くから出ることなく同居人と話して暮らした。アパート一階にある集会場で同年代との遊びは尽きることがなかった。しかし皆が森へ行った時は、アパートに残って本を読んだ。

半年もすると少年の家族はまた遠くへ引っ越し、それから数年して中学で上京した。


 青年となった彼の周りには温かな友人がいつもいて、もう冷たい自然はどこにもない。

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