ゆびわ
六時間目の図工を控えた休憩時間のことだった。
このごろ制作に夢中になっていた自分は、やっと作品を完成させられる今日のこの時間を楽しみにしながら授業を受けてきた。教室の後ろにめいめいの作品が置かれている中、自分の作品が一際輝いている様に見えた。
それが今日、この手で完成させたら、その輝きはどれほどになるだろうと心を躍らせながら引き出しに眠る教科書をランドセルに詰めていた。
じめじめと雨の降る外をふと見ると、母が傘も刺さずこちらへ向かってきていた。母のいつにない表情と、廊下のガラスを叩いて自分の注意を引く仕草で、ただごとではない事を子供ながらに察知した。母は自分を見るや否や、
「荷物全部まとめて。引き出しも。学校にある荷物全部。帰るよ」
とはやしたてる様に言った。まるで怒られているように感じて、そして何が何だか分からずにその場に立っていると、母は「早く」と急かした。何か言えばそれ以上の強い言葉で怒られそうな気がして、うんと
教室にいたクラスメイトが次第にこちらを見始めた。臆病な自分は衆人環視の中で一人荷物をまとめていて、顔が真っ赤になる程恥ずかしかった。一体どうしたのだろう、次の授業は受けられないのかな、まっさらな子供が抱いていた感情はそれだけだった。
誰かが先生を呼びにいったのか、大慌てで担任が職員室から戻ってきた。もう授業も始まると言うのに一人荷物をまとめる自分と、雨の中化粧もせず廊下でそれを見る母を見て、担任は困惑していたに違いない。担任は母に、雨も降っているからまず中に入ったらどうですか、と言うと、母はそれを向いの自分の教室にまで聞こえる声で
「結構です。この子今日で転校するんで」
さわさわと異様な様子を感じ取っていた静かな教室にその声はいやに響いた。一気にどよめきが教室に起こり、中には立ち上がって奇声を上げる子もいた。隣に座っていた子や班を中心として自分は質問攻めにされた。自分でさえ全く聞いていない事と、クラス全員から目を向けられる恥ずかしさで半ばパニックになっていた。
担任はそれから二言三言母と話すと、ある程度事情を察したのか長引く自分の荷物まとめを手伝ってくれた。クラスメイトには六時間目の準備をしなさいと言って、同班の数人に自分の荷物まとめを手伝うように言った。
そこからはあっという間に荷物まとめが終わり、廊下や教室後ろのロッカーなど置いてある荷物は全て自分の机の上にまとまっていた。オレンジの落書きまみれの引き出しに、あんなに多く感じた荷物はこじんまりと座っていた。同班のクラスメイトに、ひどく心配げな表情で
「転校するの?」
と聞かれたが、ことの状況を把握していない自分は無感情に
「わからない」
と答えるほかなかった。クラスメイトと話したのはそれきりだった。
引き出しごと全ての荷物を抱えた自分は外靴に履き替えて、脱いだ上靴も手に持った山の様な荷物の上に置いて、母に言われるがまま校門のそばまで走った。
母も自分も傘を刺さず、なだれ込む様に校門近くで待機していたタクシーに乗り込んだ。母が運転手に自宅の位置を教え、一息つくのを待ってから、一体どうして帰ることになったのかを聞いたが、母は
「家に着いたら話す」
と言ったきり、話してはくれなさそうだった。鈍感な自分でもようやく事の深刻さにうすうすと気がつき、心臓が嫌な跳ね方をして気持ち悪かった。しかしいまだに何が起きているのか分からない不安が、いっそう胸をぐちゃぐちゃにした。
ひどく長く感じた車内から降りると、自宅の前で中学に上がって間もない兄が待っていた。本来兄も学校でいないはずの時間に、ドアを開けて母と自分を急かしていた。自宅に飛び込み、玄関の脇に荷物を置くと、リビングへ向かう扉が乱暴に開けっぱなしになっていた。母と兄はそこで早口に話をしていたが、何を話していたのかはよく分からなかった。
のろのろとリビングに入ると、母に言われカーペットの真ん中に、ランドセルを置いて母と向かい合う形で座った。あぐらをかいて座ると「大事な話だから」と言って自分に正座するように言って、母も正座をした。大きなちゃぶ台の上には、緑の線組みが目立つ紙が一枚置かれていた。
「じゃあ、今から大事な話するから、よく聞いてね」
と言って母は自分を射抜くように目をまっすぐ合わせた。そこで初めて、あの厳しく一度も泣いた姿を見た事がない母の目元に泣きぼくろがついていることに気がついた。
「ママはね、今日でこの家を出るの」
「えっ。どうして」
「パパとすごく仲が悪かったの、知ってるでしょ?」
「うん」
「だからママはパパと離婚して、この家をでるの」
そう言って母は左手の薬指につけた指輪を外し、緑の紙の上に置いた。その動作の全てがゆっくりに見えて、目を母の手の動きに合わせて動かすたびに心臓がどくんどくんと跳ねた。机の上に置いた手まで目を向けると、そこではっきりとその紙に「離婚届」と書かれていることに気がついて、心臓がばくんと跳ねた。
「パパはそのこと、知ってるの?」
「知る訳ないじゃん、だから急いで学校に呼びにいったんだよ」
母の語気が強まって、最後には優しく言い聞かせるように弱まって、その途端に母はぐすんと鼻をすすった。母は上を向いて、目をぎゅっとつむった。
母が一度深呼吸をする間、脳は一切考えてはくれなかった。
「それで、お前はパパとママ、どっちについていく?」
母は自分の手を取って言った。あたたかい母の手からは想像もつかない悲壮に満ちた表情がとても悲しくて、いつも母がそうしてくれたように、母の肩をポンポンと叩いた。母はそれで貯めに貯めた涙がこぼれ、大きく泣いて、膝下で顔を隠した。
「ごめんね、辛い思いをさせて、ごめんね」
母が握る反対の空いた手に、自分の心臓がとん、と置かれたような気がした。全く現実のこととは思えなくて、心臓は自分の右手でひとりでに鼓動をしている。気持ちが悪くて、悲しくて、どうしようもなくて自分も泣いた。なぜ涙が出るのかも分からなかった。
「お前はパパに好かれていたからさ、もっとよしよしとか、ハグとか、いっぱいしてあげられたら良かったのに、いつも厳しくしてごめんね」
「そんなことないよ、だから泣かないで、泣かないで」
言った側から自分も泣いていた。泣きたくないのに、泣くしかなかった。喧嘩していても、二人は変わることなくこれからも自分の両親だと思っていた。しかしこうして今自分の膝下で泣く母を見ると、これはどうしようもないことなのだと気付かされた。離婚届の上で結婚指輪は鈍く光っていた。
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