言葉の星々

暮葉紅葉

遠くまで、やがて

 高二の冬、初めて一人で旅をした。


 特別観光がしたいわけではなく、ただ全く知らない海岸を歩きたくて、雑誌もネットもろくに見ないで持っていたお金のほとんどを交通カードにチャージした。母親の注意を小耳に挟んで別れ、最寄駅から千葉の東端とうたんに向かう各駅停車に一人で乗りこんだ。スマホを見ると、課題を知らせるリマインダーが来ており、いやになって電源から消してポケットにしまい込んだ。旅の途中はもう見ないと決めて、車窓しゃそうからの風景に目を預けていた。家族と初詣を終えて、まだ日も昇っていない夜の出来事だ。


 あらかじめ書いておくと、この一人旅は呑気のんき物見遊山ものみゆさんでもないし、まして「逃避行」などと言えるようなものでもなかった。それはまるで線路を胡乱うろんな目で見る疲れ切った社会人のように、いじめに耐えきれず屋上へ向かう学生のように、キッチンの包丁をふと胸元へ向ける女性のように、突拍子もなく、それでいて激しく自分を内側から嫌な空気で満たすような思いで始めたことだった。今思えば、あれほど思い詰めることが出来たこと自体、稀有けうで幸せな体験もないと思う。


 そんな思いを抱えつつ終点までぼんやりと電車に乗っていた。タタン、タタン、揺れる電車が自分をどこに連れていくのか、それだけを考えていると聞き慣れていた単調なアナウンスが子守唄のように思えた。絶え間ない「寒さ」は、足元にあたるヒーターの温もりがじんわりとほぐしていった。

 登り始めた朝日の光がまだこの時には眩しくて、目をつむりながらその温もりだけをまぶたの裏で感じていた。都心から離れていくにつれ乗客も目に見えて減っていった。成田なりた線に乗り換えると乗客はついにいなくなり、ボックスシートを独り占めにできた。


 暫くすると都市どころか住宅街の様子も無くなり、あたり一面は黄金こがね色とまではいかない、色褪いろあせた畑が広がるようになった。あんなに線路の外を埋めていた住宅は、遠く地平線の方まで遠のいた。全身が知らない景色、音、匂いに浸かっていた。それまで考えていたことも、肺を満たしていたあの空気も、呼吸と共に抜けていくようだった。そのままずっと電車に揺られていたいとさえ思った。


 しかし終点はやってくる。

千葉東端の銚子ちょうし駅に着いた。本来であれば、その街並みや食事を楽しむのだろう。しかしそんなことには目もくれず、銚子電鉄の先、君ヶ浜きみがはま駅を目指した。君ヶ浜ーそれは日本百景の一つー事前に調べた情報はそれだけだった。それで十分だった。

 だから自分はあまりにその街について無知であった。だから電車に乗った時、「切符を切る」ということも明らかに不慣れで気恥ずかしさを抱いた。パチンと切符に穴を開けられ、渡された切符をぎこちなく受け取った。隣に座った老人がにやにやとこちらを見ていた。目をらそうとさっきの車掌をよく見ていると、何度も利用する乗客の顔は覚えているらしく、テキパキと業務をこなしつつも小さく世間話を交わしていた。自分が生きている場所とは違うのだと、この時明瞭に教えられたような気分になった。


 数分すると目的の駅に着いた。一人で改札機のない駅を降りたのもこれが初めてのことだった。人の雑踏ざっとう喧騒けんそうとは無縁の、ただ林が騒めく音と波がさざめく音がする静かな場所だった。ここで地図を見るのも興醒きょうざめするだろうと思われて、遠くに聞こえる波の音を頼りに歩いた。車一台通るのもやっとな細い道、広い畑を左右に分かつ一本道、フェンス一枚で区切られた林道をぬけると、海岸線が見えた。太陽はすでに真上を過ぎていて、雲の切れ目からまぶしい光が波に反射していた。


 海はただ豪快に笑っていた。

一面の砂浜にえくぼを残すように、ざあざあと笑っていた。まるで自分のことなんて見向きもしていなかった。けれど人間をあざけっているようには聞こえず、それは祭囃子まつりばやしのように、妙な居心地の良さを感じさせた。雲の切れ目から天のきざはしが差し込んで、太陽は海を微笑ましく見つめていた。潮風が頬を撫で、太陽が体を包むその海岸線は、なるほど、これは日本百景の一つに選ばれるわけだ、と思った。


 波打ち際でそぞろ歩いて、二時間ほどそうしていただろうか。

立ったり座ったり、時には笑う海に石を投げて肩を叩いたりした。心に思うことをメモ帳に書いたが、言葉がまとまらず二重線で消した。ふと息を吐くと、朝から何時間も電車に乗っていて、海に二時間もいることに気がついてどっと疲れが押し寄せた。

 その時、遂に自分の旅は終わってしまった様に感じられた。それと同時に強烈な空腹感に襲われた。もうこれまで、と嘆いていてもやはり道は続いていくのだ。どうあっても世界は自分の思う通りになどならない、なるはずもない。ほら、海は今も笑っているじゃないか。

そう感じられた時、帰路に着く決心が湧いてきた。


 もしこの時空腹を感じなければ、旅は今も続いていたかもしれない。

それでも元ある道に戻ると決めた。ふと気になってスマホの電源を入れると、知り合いからの通知が何件も来ていて、スケジュールアプリは来週の予定を数件知らせていた。一瞬、決心が揺らぎそうになるくらい気分が滅入ったが、溜息を吐く代わりに笑う海にもう一度力一杯に小石を投げ入れた。

変わらず海はざあざあと笑って、憂鬱ゆううつのつぶてはどこかへ行った。

海に背を向け、駅へと向かう。


耳に響く波の音が、自分のあらゆる言葉をのみこんで、砂浜に一つ貝を置いていくように、「もう一度」と残して消えた。

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