徘徊
深夜の東京を自転車で駆け抜けた。
荻窪から都庁前までの一本道、眠る住宅街を走り抜けながら皇居周辺へと向かう。昼間は車でごった返すこの道も、真夜中には幽霊が行進しているのかと錯覚するくらいに人の気配がない。
炎天下の昼間に比べれば、半袖が少し肌寒いくらいの涼しい風が吹く。
そして、深夜の東京は「匂い」が変わるのだ。人気がなくなるからか、どこか郊外の空気を漂わせ、若干透き通った空気を感じる。それは意識しないと判らないほど若干の違いだが、それが深夜徘徊をする自分には住む世界が変わって見える。そこでしか吐けない
新宿駅の大ガート前を通ると繁華街に入る。すると不思議なことに、さっきの心地よい匂いと風が止んで、どこか人の匂いを漂わせ、道路の端には目もあてられない汚い何かが転がる様になる。どこかでパトカーのランプが光っている。そんな景色を見ながら走るのも
四谷三丁目を抜けると、人の気配はまたかなり減って、車道の端には仮眠をとるタクシーを見る事ができる。片側三車線の広い道路に車がほとんど通らない静かな様子はいささか奇妙にも感じるし、都会が眠っている様にも感じる。
四ツ谷駅の下を流れ、隅田川に接続する江戸城外堀を越えると都市の景観はガラリと変わり、丁寧に舗装されたコンクリートとビジネス街が姿を見せる。両端をビルのガラスが覆い、ずっと上まで伸びている。
びゅうびゅうと都市風が吹くこの場所は他と比べると若干寒い。最初こそ都市の景観を代弁している様なこの通りも、何度も通ると黒い塊がずっと立ち並ぶだけで窮屈に感じる。ビジネス街だからだろうか、深夜になっても少し張り詰めた空気が流れている。
信号を待つ間、そのビルたちをぼんやり眺める。闇が差し掛かるビルの中には、光を失った高級車が座っていたり、綺麗なエントランスが真っ暗闇に包まれて非常口のランプだけが妖しく光っていたりする。
皇居周辺はまた空気が変わる。風通しが非常に良くなり、内堀を流れる水で気温がグッと下がる。内堀に沿って桜田門の方へ下っていくと、銀座の方面に取り巻く三つ星ホテルの灯りが
二重橋の近くに進むと、一日の役目を終えた街灯がゆらゆらと立ち並ぶ。その明かりに吸い寄せられる様に東京駅の赤煉瓦へ向かって、手頃なベンチに自転車を停めて座る。
長く細く息を吐く。
一日を活動し終えた後でもこうして自転車を走るのは、体力以上に自分がしたいことが満足にやれなかった日に精神が腐るのを避けるためだ。さしずめそれは長い散歩の様なもので、考えなくていいことは段々と考えなくなる。
そういう日は決まってベッドで眠れなくなると予期して、家に荷物を乱暴に投げ捨ててこの様な愚行に走るのだ。とはいえ自転車で走るのも自らの時間をしたい事そのものに使っているわけではない。ただ現実逃避を面白くしているだけに過ぎないが、それはそれで自分の心を落ち着かせる。
しばらく座っていると、社会人が
これまでも何度か深夜徘徊はしており、東京駅を抜けて秋葉原を通り、浅草へ向かうのは定番中の定番だった。しかしここからが本番である。秋葉原から台東区浅草へ向かう道は京都の通りに特徴される碁盤の目のような作りになっており、どんなに道を曲がっても進んでいる方向さえ見失わなければほとんど迷う事がない。つまり毎度毎度違うコースを進み、違う景色を見る事ができるのだ。
深夜の秋葉原の大通りは車通りもほとんどない。それでもメイド喫茶の店員が外で客引きをしている。こんな夜中にも営業をしている居酒屋もある。ちらりと中を見ると、十組ほど客がいるのが
昭和通りを横切ると繁華街も抜けて、静かな台東区の住宅街になる。
ここは都内を色々走った中でも一番落ち着く通りで、浅草寺に着くまでの間は気分で道と走るスピードを変える。時には自転車を降りて、歩く時もある。この街が深夜に見せる姿は独特で、マンションや街頭の灯りが左右を
今日はその道を自転車で限りなくゆっくりと通る。
ここまで走ると体も疲れてきている上に、空いているとはいえ住宅街なのでそうそうスピードも出せない。ここには外観の綺麗なマンションがいくつもあり、それを通るたびにこんな部屋に住めたら良いのに、と理想の暮らしに思いを馳せる。
田原町駅を過ぎると浅草の繁華街が見えてくる。
人気のない繁華街に
そして浅草寺へ入る。
深夜でも鳥居を過ぎる前に自転車を降り、ひらけた境内をゆっくりと一望する。
全く人がいないという時はあまりなく、いつも数人の若者が歩いている。実は深夜でもおみくじを引くことができるこの浅草寺だが、大吉が当たることは少ないことで有名だ。しかし今日はなぜだかおみくじの戸棚が光って見えて、吸い寄せられるようにくじを引いた。
番号を見て、戸棚に手をかけると当たるという実感がどこからともなく湧いた。おみくじは大吉であった。こんなところで運を使ってどうするんだ、という叱責と、数年ぶりに大吉を引き当てた嬉しさが心をめぐった。輝く大吉のおみくじには不幸や悩みが消え去り、良いことや望みが叶うと途方も無い幸運が書かれていた。
願望、病気、待ち人、縁談。全て良い結果となるでしょう。
嬉しくもありつつ、心のどこかでそんな多くの願いが一度に叶うはずがないと思っていた。自転車を戻し、少し外れてベンチへと向かう。古い蛍光灯の光が境内を照らしていた。流石に体も疲れているので、自転車を立てかけて自分も座る。
時間に捕われない深夜は、いつまでもこのベンチに座っていれば永遠の時間を過ごせるような錯覚を感じる。ぼんやり浅草寺を見ながら、見知らぬ人を眺めていたり、スマートフォンで好きな音楽をかけたりして暫く過ごす。今だけは、自分だけの時間。静かな東京の街に馳せる。
しかし自分の意思とは裏腹に体は時間を刻み、眠気と空腹が襲う。今日はここまでかと思うと、自宅に戻る。
来た道を戻るのは退屈だ。まるで今までの空気が丸ごと透明になって自分の体から抜け落ちてしまうように感じる。それでも心は透明なままでいたいから、きた時よりもスピードをうんと落として走る。そうすると、来た時には見なかった景色や店を見る事ができる。旅の終わりの寂しさが胸をからっぽにさせる。
だが、もう一度来ればいいのだ。どうせ明日も明後日も、変わらない都会の光が街を照らしている。朝になれば、途方も無い人の数にまた辟易するだろう。それが積もりに積もった時に、いや、そうなる前にまた来よう。
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