第18話 デジャブ(2)

 二月になり、冬の寒さも多少落ち着き出した。

 半年ぶりに訪れた延吉の寒さは、別格だ。

 気温はマイナス十度を越えるので、蘇州と同じ服装ではいられない。

 蘇州の冬も寒いが、気温はマイナスになる方がめずらしく、延吉のように寒さで顔が痛くなるまでにはならない。

 寒い延吉でも、雪は少ししか降らない。

 今年はめずらしく大雪のため、街の中は皆、雪かきをしている人ばかりである。

 降り積もった雪を道路のはじによけたり、トラックに乗せて捨てに行ったりしている。

 ほとんど雪の降らない蘇州では、見れない光景である。


 私は、歩道の真ん中をすべらぬように、一歩一歩慎重に踏みしめて歩いた。

 きゅっきゅっと鳴るその音は、故郷が「おかえり」と迎えている気がした。


「ただいま、帰ったよ」

 ドアを開けて声をかけると、賢友が走ってやってきた。


「お姉ちゃんだあ。あっ、髪が短くなってるよ。ねえ、静おねえちゃん、どうして髪切ったの? かわいいね」


 賢友は以前と変わらず、なついてくれる。

 少しほっとしたものを感じた。

 奥に行くと、父さんもいる。


「帰ったのか。帰るなら、あらかじめ連絡ほしかったな」

 相変わらず、たんたんとした引き離す言い方だ。


 やはり家には居づらさを感じる。


「うん、ごめんなさい。母さんはどこ?」


「母さんは、喝さんのところだ。ボッサムキムチを作りすぎたので、分けてくる、と言って出ていった。もうすぐ帰るだろ」


「わかった。じゃあ、部屋にいるね」

 私が出ていく時、父さんが何か言おうとしたのが気になったが、これ以上口を聞くのも疲れるため、その場を去った。


 自分の部屋のドアを開けて中を見たとたん、私はあ然とした。


「何、これ。父さん、ちょっとどうなってるの?」

 ゴルフバッグや仕事の書類など、父さんの荷物や皆の衣類が、ところ狭しと置いてある。


 私の部屋は、あたかも荷物置き場のようになっていた。


「だから、帰るなら連絡して、と言ったんだ。物が増えて置き場がないので、置かせてもらってるよ。適当に隅によけといてくれ」

 私は、それ以上反論する意欲も失せていた。

 久しぶりの我が家は、なぜか自分の家ではないように感じた。


 ベッドの上で横たわってうとうとしてると、そのまま寝てしまった。

 陽が落ちて外が暗くなりだしたころ、向こうの方からかすかに母の声が聞こえる。

 ぼうっとした頭で、壁に掛けてある絵を見た。

 子供の頃に描いたものだ。

 家族三人で山に行った話を母さんから聞き描いた。

 山へ行ったことは覚えていないが、一生懸命想像しながら描いたことを思い出す。


 あの頃の母は、今に比べてやさしかった。

 今の父さんと再婚して、弟が出来た頃から、少しずつ感情の変化を感じるようになった。

 最初は、父さんに遠慮していると思っていた。 

 賢友が生まれて、小さな弟の方に愛情が向かうのも仕方ないとも思った。

 もっと愛情を注いで欲しい、と言いたかったけど、何も言えない日々が続いた。

 そのうち、私の居場所は、この家にないことを悟った。


「入るわよ」

 母さんだ。私は頭をぶるんぶるんと振りつつ、現実世界に引き戻ってきた。


「久しぶり。父さんは相変わらずだね。『連絡しろ』って怒られちゃった」


「そうだよ。私も今、『静にちゃんと伝えておけ』って言われたよ。ん、どうした?」


「これ見てたんだ。山に行った時の絵。死んだ父さんと私たち一緒に行ったんだよね。覚えてないけど、子供の頃にそれを思って描いた、三人で行った山の絵だよ。父さんのことを思い出そうとしても、何も思い出せないけど、赤ん坊だった私のことをかわいがってくれたんでしょう?」

 懐かしのあまり、小さい頃のように話しかけた。


「ああ、そうだよ。小さい頃から何度も行ってるだろ」


「そうだよね。何度も聞いたよね……」

 母さんはそう言うが、昔と違い、気まずい雰囲気になる。


「ところで、あの話だけどさ、私たち上海へは行ったことなかったよね? 貧しかったから行けなかったって、前に話してたもんね」

 少し間を開けると、静寂となる。再び続ける。


「そっかあ、だから絵のようにして、三人で山へ行ったんだよね?」

 母さんは困ったような顔をして見ていたが、私は、構わず話し続けた。


「この頃は、貧乏だったけど楽しかったなあ。母さんとよく冷麺食べに行ったよね。市内にある有名な冷麺専門店〈銀小来〉。あそこの値段は高いからって、その向かいにある〈長白山〉の冷麺、よく食べに行ったよね。いつも店がガラとして空いてたし、安い上においしかったね。今でも時々、食べたくなるよ」


「そういえば、そんなこともあったねぇ」

 子供の頃の思い出話をしているうちに、母さんも思い出したのか、しかめっつらが次第に緩む。


 昔を思い出しているのか、目を閉じている。

 しばらくすると、感極まったのだろう、必死にをこらえた顔で、ほおを震わせている。


「どうしたの母さん?」

 しばらく無言の状態でいたが、母さんはたった一言、絞り出すように言った。


「ごめん……なさい」

 そう言って、むせび泣いた。


 ずっと泣き続けているために、何度か声をかけたが、母は泣き止まなかった。

 私は母の部屋に、手を取って連れて行き、そのまま寝かせた。



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