第10話 難しい来訪者(1)
肌に突き刺さる冬の寒さも消え失せた。
ポカポカした陽気の中を歩くのが心地よい。
ここ最近、協力会社への訪問は、独りで行くことが増えた。
以前のように、常に吉岡さんと一緒ではない。
その日は、電車とバスを乗り継いで、田舎町にある小さな工場へ向かうところであった。
来週、日本からお客さんが来るので、工場がキレイにされてないと困るため、確認に行くのである。
遠いため、いつもより早く部屋をでた。
朝早いせいか、地下鉄の駅は人であふれている。
蛇のように曲がりくねった長蛇の列の末、ようやく改札を抜けて、ホームに行きついた。
ちょうど、電車が来たため、乗ろうとすると、水鉄砲から吐き出された水のように、すごい勢いで人が吹き出てくる。
降りてくる人の切れ目に合わせるように、なんとか電車の中に入ることができた。
しばらくすると、耳をつんざくような声が聞こえてきた。
目の前に立っているのは二十代の女性だろうか、イヤフォンをつけており、曲に合わせてハミングしている。
自分の声の大きさに気づいてないのだろう、電車中に響いてうるさい。
まわりの人たちもイヤそうな顔をしている。
それに反して、ハミングしている本人は、ご機嫌な表情だ。
逆に憎めなくなる。
駅に着いて電車のドアが開くと、ハミングしていた女性が動いた。
ここで電車を降りるようだ。私はほっとした。
刹那、開いたドアの反対側にいた私は、まわりの人を押しのけ、ハミング女性を追いかけた。
無情にも、あと一歩のところで、電車のドアは勢いよく閉まった。
女性は、電車を降りる少し前から、新しい曲にハミングを変えていた。
新たに口ずさんだ曲は、小さい頃から私の記憶に刻まれていた、あの曲だった。
長い間、もやもやしていたが、自分の記憶が生み出した架空の曲ではなかった。
一体、なんと言う曲なのだろう、と思いつつも動き出す電車の中から、女性が降りた一点をじっと見つめた。
翌週朝八時、吉岡さんと一緒にお客さんを迎えに行った。
宿泊しているホテルは、蘇州の中では、最も日本人客の多いホテルである。
この日、協力会社を四社訪問予定であるため、早めにホテルを出発しなければならない。
お客さんが出てくるのをホテルのロビーでじりじりとしながら待っていると、向こうから、スーツを来た二人組が見えた。
「あっ、正木課長ですか? お待ちしておりました。私、天達の吉岡と言います。彼女は、通訳を務める李です」
「初めまして、李です。よろしくお願いします」
「おはようございます。加賀美電器 品質管理課の正木です。彼は、同じ課の梶です。本日は、お忙しい中、ご案内いただけるそうでありがとうございます」
正木さんは、五十歳前後だろうか、穏やかな顔つきにふっくらメタボ気味の体は、まるで
きっと、人柄もいいのだろう。
梶さんは、細面の顔に太いべっこうの黒ぶちメガネが、エリートっぽいまじめさを印象づける。
おまけに表情が固い。
まだ若いため、緊張しているのだろうか。初めての海外出張らしいので、恐らくそうなのだろう。
四人挨拶を済ませると、王さんの運転で協力会社を目指した。車の中で、自己紹介を兼ねた話は終始盛り上がった。
「正木課長は、中国に来られたのは何度目ですか?」
「うーん、五回目くらいかな。どちらかと言うと、南の地域が多いですね。東莞や広州です。上海は二度目ですが、蘇州は初めてなので、上海とは違った街並みが楽しみですね」
「あ、それじゃあ、土曜日、蘇州、無錫をご案内しましょうか。日本へ戻られるのは、日曜日ですよね?」
吉岡さんは、お客様とのコミュニケーションの機会を増やそうと、積極的に問いかける。
「すみません、土曜日は他の予定が入っています。今回の出張は、帰るまで仕事でびっしりなんですよ。時間があれば、無錫も行ってみたいですけどね。次回は、ぜひ、ご案内お願いしますね、ははは」
「ぼくは、海外出張自体、初めてなので見るもの全てが新鮮です」
黒ぶちメガネの梶さんは、車窓から外の喧噪を眺め、うれしそうである。
今度は、本当の笑顔だ。
「李さんは、蘇州出身ですか?」
「いえ、私は吉林省の延吉市出身です。朝鮮民族なんです」
正木課長の問いに、一瞬躊躇しつつも答えた。
上海出身でも漢民族でもない自分に引け目を感じたからだ。
「へえー、李さん、朝鮮族なの。すごいね、中国語、韓国語、日本語と三か国語も話せるわけだ。いやー、中国は、李さんみたいに若くて優秀な人がたくさんいるんだ。日本は勝てないねえ」
正木課長のほめ言葉に私の心は軽くなった。
蘇州に来てから、吉林省出身の上に朝鮮民族と言うだけで、差別されることはあってもほめられたことはなかった。
中国語と朝鮮語を話すのは当たり前だし、日本語もだいぶうまくなったとはいえ、まだまだのレベルである。
それなのに、正木課長は優秀だ、と言ってくれる。自分の出身地と民族に誇りを感じたのは久しぶりだ。
「ありがとうございます、正木課長。私、頑張るね」
「あはは、中国人は、日本人に比べてバイタリティあるよね。頑張って良い品質・低コストに協力してくださいね」
「もちろんです。もう品質問題でご迷惑はかけませんので、任せてください」
吉岡さんは、先日、加賀美電器向けに重大な不良を出したのが頭にあるようで、必死に言葉を継いだ。
今回の加賀美電器さん二人の出張も、製造現場での品質とつくり方の確認が一番の理由らしい。
「吉岡さん、きちんと改善してくれたんですよね。品質問題に対して、再び起こらないように、しっかり対策したかを確認させていただきますよ。李さんは、どんな小さなことでも、きちんと通訳してください」
黒ぶちメガネの梶さんは、おとなしいけど仕事の話になると、急に厳しい顔と言葉つきに変わる。
まだ入社数年なので、上司の正木課長にいいところを見せたいのであろう。
私も吉岡さんにいいところを見せたい、とはやる気持ちはあるので、黒ぶちメガネの言動もよく理解できる。
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