第9話 トラブル初体験(5)
「あれっ、リーチン。休みまで会社の近くに来てるんだ。働き足りないのなら、仕事もっと増やそうか」
「吉岡さん、それ冗談ね、もう仕事は一杯よ。でも、なんで、ここに来るね?」
「そりゃあ、この近くに住んでるんだから、来たっておかしくなだろう。それに、この店、へリーチンのこと連れてきたの、俺だぜ」
「そ、そうね。そうだった。あっ、彼女友達、名前は表建華」
私は、動揺したのか、ただでさえつたない日本語が、余計におかしな言い回しとなった。
「あっ、李さんの友達ですか? 初めまして、同じ会社の吉岡です」
吉岡さんが珍しく『李さん』と改まって言ってるので、吹き出しそうになる。
「初めまして。表建華です。上海外国語大学の一年生です。宜しくお願いします」
「おっ、リーチンの友達なのに日本語うまいし、敬語もできるね。さすが、大学生。卒業したら、表さんをうちの会社にスカウトしたいね」
建華は、あいさつも堂々としていた。やはり建華にはかなわない。
「吉岡さん、私だって、日本語うまくなったでしょ。敬語だってわかりました」
「知ってるよ。『わかりました』と『ありがとうございます』は、単語そのまま丸暗記してるからだろ」
吉岡さんは、よく覚えている。その通りだ。
「表さん、ちょっと聞いてもいい? リーチンは昔から生まじめで、場の空気を読めなかったの?」
「そうなんです、吉岡さん。静は昔から、場の空気を読めない子でした」
「二人とも、何言ってる。空気は読まないよ。吸うよ。私はいつも吸ってるね」
二人とも、腹を抱えて大笑いしている。私は、なぜかひとり取り残された気がして、寂しくなった。
「すごいね。表さん。よく知ってるね」
「いえいえ、大学の日本文化の授業で〈あ・うんの呼吸〉と〈空気を読む〉は、世界でも日本人だけのものだからと、最初に習いました。単一民族ならではですよね。中国には、五十以上の民族がいるから、初めて聞いた時は驚きでした」
「そうだよね。高校では学ばないよね。でも大学生ともなると、学ぶことが深いね。リーチンも見習わないと」
「でも、中国人の中でも、静は特に空気読めないかも」
吉岡さんは、建華に対して、しきりに感心している。
それに輪をかけるように、建華は吉岡さんの喜びそうなことを返す。
「吉岡さん、私だって会社に入って〈ザグリ〉や〈バリ取り〉と、辞書にもない専門用語覚えたでしょ」
私は、必死になって自己アピールした。
親友ばかりほめられて自分を下に見られたことが悔しかったのか、それとも他の理由があるのかはわからない。
「そんなにムキになるなよ。リーチンが日本語上達したのは知ってるよ。さっきのは、ちょっとした冗談だからさ」
私が、吉岡さんに抗議しているのを、建華は黙って見ていた。
そんなやりとりをした後、吉岡さんは、二人の邪魔をするのは悪いからと、コーヒーを買って出て行った。
「建華、ごめんね」
「ううん、でも驚いた。静の日本語、すごくうまくなってる」
「〈ザグリ〉や〈バリ取り〉のこと? あれは、専門用語だから普通使わないし、日常は必要ないんだよね」
「違うよ。日本語でのレスポンスがすごく早くて、感情も込めながらポンポン返してたよね。私は、考えながら話すから、まだたどたどしいよ。多少の単語や文法の間違いなんかより、コミュニケーションを図る上では大事なことだよ」
「そ、そかな」
建華にほめられすぎたせいか、中国語までおかしくなった。
「でも、それ以上に、静はちゃんと仕事してるんだなって、感じた。すごく頼りにされているのもわかったよ。吉岡さんとのやり取りから感じたもん」
「そうかな。そんな風に感じさせるやり取りあったかな」
「うん、感じた。あと静の気持ちも少し見えちゃった」
「私の気持ち? 何それ」
「さあ、静も女の子なんだなってことかな」
「何言ってるの? 私が女の子って当たり前でしょう。」
建華の言ってる意味がわからなかった。
私は、さっきから続く鼓動の高鳴りのせいか、体が熱くほてった。
目の前の建華は、観音様のようなやさしい笑顔で、まるで私を見守っているかのようだった。
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