第4話 新たなる生活

 初めて、蘇州の地に立ち、私は驚いた。

太湖と長江にはさまれたこの都市は、無数の近代的な高層ビルがありながら、中国の四大名園とも言われる美しい庭園も二つ残している。


 これらの庭園は、約七百年前にできたと言われる。

とても歴史ある街だ。

いくつもの運河が広がる水の都でもあり、海外では東洋のベニスとも言われているそうだ。

多くの観光客が足を運ぶ街、それがこの蘇州である。

朝鮮文化が色濃い延吉と比べると、同じ中国とは思えない。


 どちらかといえば、こちらが本当の中国なのだろう。

私は、すっかりおのぼりさん気分だった。

入社試験は、オンライン面接であったため、蘇州まで来る必要はなかった。


 現在、中国では誰もがスマホでやりとりする。

以前は、現地に行って対面での面接が普通であったが、今はどこにいてもオンラインで面接できる。

そのため、今回初めて延吉以外の中国の地に立ったことになる。


 二十階以上あるガラスばりのビルの前に来ると、そっと上を見上げた。十七階に私の職場がある。

入社する会社は、天達(蘇州)有限公司、日本企業で、七年前に設立された二十人ほどの小さな商社である。

私は、自身の明るい未来への思いを胸に、反射した光でまぶしく輝く建物を見続けた。


 入社初日からいきなり多くの仕事を与えられた。

初めての仕事は予想以上に大変に感じた。

業務は、日本語と中国語の通訳である。

日本人スタッフについてまわり、中国人とのやりとりを訳して伝える。

今までは、中国人教師が話す日本語ばかり相手にしていたため、日本人と話す環境に緊張する。

社会人生活は、全てが初めてのことばかり。

不安もあるが楽しい。


 日本人の印象は、とても思いやりがあり、真面目な人たち。

その半面、細かいことを考え過ぎるところがあって、いつも頭を悩ませている。


「また、納期遅れるの? あれだけ言ったのに、なんで間に合わせられないんだよ。まったく!」

 課長の吉岡さんは、いつも大きい声で怒ってばかりいる。


 彼が、私の担当上司である。

年は二十九歳なのでまだまだ若い。

チャーミングな八重歯が、ビーバーのようにかわいい。もちろん、本人の前で言わないが、時々吉岡さんの顔を見ては、かわいいビーバーの映像を想い浮かべて笑ってしまう。気を付けないと。


 社長の桜木さんは、いつも無愛想で口数も少ない。

でも時々、細かい気づかいをしてくれているのがうれしい。

とてもシャイでダンディな紳士だ。

桜木社長が、私を採用する時、ひと推ししてくれたようだ。感謝である。


「李さん、久しぶりだね。オンライン面接で会って以来だね」

「あっ、あの時の面接の人ですね。社長だったの? よろしくです。あっ、すみません。変な日本語だけど、私頑張ってうまくなるから。信じてよ」

 緊張していたところに、社長にいきなり話かけられて、よりぎこちない日本語になった。


〈顔から火が出る〉と言う日本語を覚えたが、きっと、今の私は顔から火を噴くほど、真っ赤に火照っているだろう。

「まあ、そう緊張しないで。でも李さんの素直で飾らないところが、気にいってね」

 うわあ、うれしいけど、緊張する。


「李さんとは、今後、信頼できる仲間として、一緒にやっていけると思えたんだ。頑張ってよ、君の成長を楽しみにしてるからね」

 桜木社長の言葉に私は舞い上がった。


 その横で吉岡さんが首をかしげながら言った。

「他にも日本語のうまい人はたくさんいたんだけど、なんか李静のことが印象に残ったらしく、イチ押しだったんだよなあ。俺は、他の人を押したんだけどね」

 ニヤリと笑いながら、私の方を見る。


「が、がんばるので期待するといいよ。私、なんでもするね」

 その後、日本語での言い方を徹底して直された。


 吉岡さんは、新入社員にも容赦しない。口は悪いが、一生懸命に教えてくれる姿から、見た目とは違って、根はいい人であると感じた。


 先輩社員の許建国シュジエングオさんは、創業からいるのでもう七年勤めているらしい。

たいていの中国人は、より良い給与やポジションなど、待遇のいい会社を求めて、数年たつと辞めていく人が多い。

許さんのようなタイプは珍しい。


 日本人の桜木社長は、中国へ来て三年、吉岡さんに至っては、まだ一年しかたってない。

日本人は、通常三年、長くても五年で帰任し、次の人と交代する。

つまり、この事務所で一番長いのは許さんとなる。

私も許さんのように長く勤められるといいなあ、と率直に思った。


「リーチン、この後打ち合わせするけどいい?」

 吉岡さんは、ぶっきらぼうな調子で言った。

「はい、吉岡さん。大丈夫、ひまだよ」

「ひま? リーチン、暇なの?」

 私は、吉岡さんからにらまれ、一瞬おじけづいた。でも、どうして吉岡さんが怒ってるのか、わからない。


「李さん、相変わらず、元気だね。使える単語も増えたようだし、後は使い方だね」

「あっ、どうもです、桜木社長。専門用語が難しいね。まだ少しわからないです」

「おいおい、リーチン。桜木社長に向かって、『どうも』はないだろ」

 やばっ、アニメ用語だしちゃった。


「まだ日本語勉強中とはいえ、いい加減そこは覚えてくれよ。アニメ見過ぎだから、変なアニメ用語覚えて、きちんとした敬語覚えないんだよ」

「すみません、吉岡さん。気を付けるよ」

「なんか、調子狂うんだよなあ」

 私の日本語レベルはまだまだ低い。


 学校で習っていたとはいえ、第二外国語なので学んだ時間としては多くない。

とても敬語までは使いこなせてない。


 私の日本語のよりどころは、アニメである。

家でも必死に日本語の勉強をしたが、それ以上に毎日、親に隠れてアニメばかり見ていたために、アニメから覚えたことの方が多い。

日本語を話すことと聞くことは、それなりに出来ると思う。

ただアニメから学んだ言葉が多く、私の日本語は〈タメ語〉中心であり、それが問題である。


「ところで許さん、建材用部品の新規見積りどうなった?」

「はい、桜木社長。先週の金曜日に見積りを提出しているので、今週末、一度確認してみます」

「そうか、あの見積りは新規顧客からの初依頼だから、なんとかこれで実績作って広げたいところだね。結構、コストに厳しい会社らしいから、他にもっとコストを下げる方法を探しておくといいよ」

「わかりました。永広金属にもこの後、依頼します。遅くても今週中には、見積りだしてもらいます」

 私は、二人のやりとりを聞いて、許さんの日本語が、敬語でありながら流暢であることに感心した。


「わかるか、リーチン。許の話は、いつまでに何をやる、と言ってるだろ。それが大事なんだよ。仕事は、五W一Hが基本だから忘れるな」

「五W一H? 吉岡さん、何それ。英語なんか、わたし知らないよ」

「ああ、それはな、こういうことさ」

 言いながら、吉岡さんはホワイトボードに書いていった。


「WHO・WHAT・WHY・WHEN・WHERE・HOWの五つ。日本語で言うと、誰が・何を・なぜ・いつ・どこで・どのように、の五つを明確にして、わかりやすくするんだ。仕事のい・ろ・はさ。」

「わかったよ、……。ところで、い・ろ・はって何?」

「ああ、違う違う、い・ろ・はを覚える必要はない。つまり、仕事の基本だ」

 私は必死にメモをとった。


 初めて聞く言葉に新鮮さを感じる。

延吉では、聞いたことがなかった。

もしかしたら、延吉でも働いている人たちは知ってるのかもしれない、と考えたが、すぐに打ち消した。

いや、やはりそれはないだろう。

こんな大都会に来ている日本企業の人たちと、中国の中でも特に田舎の延吉が、同じであるはずない。


 そう、勝手な思い込みをしつつ、なんか、特別なことを覚えたようで、私の気分は高揚こうようした。

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