最終章(始まりの物語) 日下部圭一の傲慢

 私の名前は、日下部圭一。世の中に天才と呼ばれる凡人が数多くいるが、私は彼らとは違い本物の天才であった。私は、物心ついた頃から溢れ出る知的好奇心を満たすためにあらゆる本を読み漁った。小学3年生の時点で、両親や教師を含めて私より賢い人間はいなくなり、私は身の回りの誰かにものを教わるということがなくなった。

 それからの私は、無敵の存在だった。小中高と進学校に通った私は、同級生や教師から神のように崇められ、私は神のように自分勝手に振る舞った。「日下部圭一は特別だ。」それが、私の生きる世界での常識であった。そんな日常は、ある日突然崩れ去った。

 私は有名大学の医学部を受験したのだが、私よりも良い点をとり、私から主席合格を奪った女がいたのだ。

 彼女の名前は豊川零(れい)。私に初めて負けの悔しさと屈辱を味合わせた人間だった。

 零は、私とは違い、お洒落やファッションに全く興味がないような陰気な女だった。初めて零を見た時は、こんなダサい女に負けたのかとさらに落ち込んだほどだ。

 しかし、それ以上に私をイライラさせたのは零の人間性であった。零は、有名大学の医学部主席合格とは思えないほど腰が低く、天才のくせに一般人のフリをしようとしていた。

 私は零の全てが気に入らなかった。

 私はある日、大学の廊下を一人で歩いている零に話しかけ、学部内のテストで勝負をしようと持ちかけた。零は少し驚いた顔をした後に、私と目を合わさずに「いいえ、勝負したくありません」と言った。

 私は零の返答を無視して「負けた方が何でも言うことを聞くってことで」と言ってその場を去った。私は勝負に勝って、零を奴隷にして、屈辱を晴らそうとしたのだ。

 私は履修した全ての科目の講義を熱心に聞き、過去問や関連書籍を読み漁り、試験に挑んだ。しかし、結果は僅差で零が勝った。私は何でも言うことを聞くという約束通りに零に何をして欲しいか尋ねた。何も望まないという零を説得し続けたところ、零は「それなら私を許してもらえませんか。あなたの気分を害したことは謝りますから。」と答えた。私は心底頭にきて、零の提案を却下した。

 その後も、ことあるごとに私は零に挑み続け、負け続けた。

 次第に私と零は日常会話もするようになった。私と同じレベルで考えて返答が返ってくる。私が人との会話を楽しいと感じたのはいつぶりだろう。

 いつしか零とは、一緒に勉強する仲になった。そして、零との時間が、私にとって至福の時間になっていた。零が普通の人のように振る舞うので、零より劣っている私が神を演じる必要はなくなった。

 いかに傲慢な私でも零への好意を認めざるを得なかった。私は零に勝負で勝った時に想いを告げる決心をした。

 ついに私の思いを零に伝える日がきた。私が僅かに試験の点数が上回ったのだ。私はすぐに零と待ち合わせた。

「君に好意を抱いている。だから…。」

 いつもは雄弁な私が、言葉に詰まってしまった。

 零は驚いた様子で言葉に詰まる私を見たが、やがて目に涙を浮かべて答えた。

「圭一さんとの関係が終わると思ったので勝負には絶対に負けたくなかった。私も圭一さんのことが好きです。」

 私たちの交際が始まった。

 私はただ成績が良いからと言う理由で医学部を受験したが、零には精神科医となり人の心を癒したいという夢があった。私には、零の気持ちは理解できなかったが、特に他にやりたいこともなかったので、彼女と同じく精神科医の道に進んだ。

 私たちは順調にキャリアを積み、お互いの親に援助してもらい二人で精神科病院を開業した。私たちの病院は評判が良く、患者たちの信頼を得ていた。

 プライベートも順調で、私たちは結婚し、間には一人の男の子が生まれた。長男であったが、名前には零の「0」と圭一の「1」に続く数字の「2」を入れて、修二と名付けた。絵に描いたような幸せな日々であった。

 しかし、突然終わりはやってきた。ある日、零は診察中に錯乱した患者の男に刺されて命を落とした。

「なぜ私ではなく零が殺されなければならなかったのだ」

 零を殺した男は、零に処方された薬を飲んでいなかったのにも関わらず、精神障害で責任能力がないとして無罪となった。

 私はこの状況を受け入れることができず、息子や患者に対して冷たく接するようになった。見兼ねた私の両親が、息子を引き取った。

 私は生きる目標を完全に失っていたが、あるときバーで一人で飲んでいる時に、高校の同級生にたまたまでくわした。彼から「お前は何でもできるだろう。世界が嫌なら世界を変えろよ。」と励まされ、私は世界を変えることにした。

 私が望む世界は、「精神を病んだ人が、一人もいない世界」であった。その世界を実現させる方法は、誰もが明るくなる向精神薬と同じ作用をもたらすウイルスを開発し、世界にばら撒くことであった。

 私は精神科医として働きながらも、脳科学や微生物学を独学で学び、人類に希望をもたらすウイルスの開発に励んだ。何年もの時が過ぎ、研究室となった病院の一室では何千匹ものマウスが犠牲となった。そして、開発を始めて8年が過ぎた時、とうとう理想のウイルスが完成した。

 このウイルスは脳内のドーパミン量を劇的に増やす作用があり、鬱状態のマウスを正常に戻し、それ以外のマウスは感染前より活動的になった。そして、このウイルスは感染力が強く、飛沫感染により同じゲージ内のマウスに瞬く間に感染した。さらに一度ウイルスに感染すると、ウイルスが体内からなくなっても脳への効果は残り続けた。マウスの脳を改変するウイルスの開発に成功した私は、次に人間で試すことにした。

 さっそく私は、病院の敷地内に、人体実験用の建物を建設した。表向きは特別な措置が必要な患者のための病棟というとこにした。

 許されないことをしているという自覚はあったので、万が一のために、病棟に隣接した危険物倉庫に細工を施し、いつでも火事に見せかけて焼却することができるようにした。そして、そうなったときでもウイルスの開発を進められるように、ウイルスの作り方を暗号化したノートを自宅の書斎に置いた。

 私は重度の精神疾患により入院していた患者の一人を実験棟に移した。それから、看護師の一人に、その患者の世話をさせた。その看護師は山田という真面目で大人しい女性であった。山田には、患者は重度の感染症を患っているとして、感染対策を徹底させた。

 ウイルスの効果は目覚ましく、その患者の症状は瞬く間に改善した。ほとんど何も言葉を発しなかった患者が、ウイルスに感染して数時間で「こんなに頭がクリアな日は初めてです。今までで一番幸福を感じています。」と言うほどであった。副作用で喉が渇くのか、患者は水を何度も欲しがった。

 予想を超える効果に私は歓喜した。しかし、その晩に事件は起こった。

 実験棟の様子を見に行った私が目にしたのは、山田がベッドの患者に馬乗りになり、首を絞めている光景であった。

 私は慌てて山田を引き剥がそうとしたが、山田は私の手に噛みついてきた。私は暴れる山田の襟を締め上げて気絶させた。それから椅子に座らせてビニール紐で縛り上げ固定した。

 その後、すぐに患者の状態を確認したが既に手遅れであった。

 目を覚ました山田に、なぜこんなことをしたのかと聞いたところ篠原は虚空を見つめたまま答えた。

「彼女が何度も水を欲しがるので大変でした。でもぐっすり眠ってくれたみたいで良かったです。」

 どうやら山田は、先ほど自分がしたことを理解していないらしい。

 私は項垂れた。真面目な山田が、なぜこんなことをしたのか。最も有力な要因は、ウイルスの影響であろう。マウスでは問題がなかったウイルスが、人間の脳には悪い影響があったのかもしれない。この仮説はすぐに証明された。

「あなたは本当に傲慢ね」

 死んだはずの零の声が聞こえて、顔を上げると山田が座っていた位置に零が座っていた。なるほど、ウイルスの影響で、幻聴と幻覚が見えるのか。私はさっき山田に噛まれた腕を見ながら思考を巡らせた。

 私にも既に正常な世界が見えなくなっているらしい。どうするべきか明白であった。有害だと分かったウイルスを世に放つわけにはいかない。私は自分を守るために準備していた細工を発動した。これで私を含めて、実験棟ごと感染源は全て焼却される。

 炎に囲まれながら、私は零の幻覚をじっと見つめた。零の幻覚は何も言わずに微笑んでいた。

 やはり私は神ではなかった。ウイルスで人々を幸せにするという私の野望は叶わなかったが、そんなことはどうでも良かった。

 最後に、最も私が見たい世界を見られたのだから。


 ~完結~

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