第3話
月は空の天辺に昇った。
「ねぇ、またあなたの姿を見たいの。いいかしら」
「今夜はまた随分と大胆なお嬢さんのようだ」
「からかってもかまわないわ。けれど長いこと会えていなかったのだから、我儘だって聞いてほしいの」
「そうでなくたって、僕が君の言うことを聞くとわかっているのだろう?何がよくて、何がいけないか、君はよおくわかっているんだ」
「ふふ、ただあなたの優しさに甘えているだけよ」
「そういうところも、僕は大好きだよ」
「私は、少し心配しているけれどね」
少年はそっと少女から体を離すとおもむろに服を脱ぎ捨て、その身を隠すのはマント一枚となった。少年はゆっくりと空を見上げた。少女はそうするのが当たり前のように、赤の瞳をそっと閉じていた。
金の瞳に、金の月が映りこむ。風が丘に生えた草木を踊らせ、辺りの空気も少しばかり張り詰めたものになったように思えた。少年の年相応なたくましい体はその様相を変えていく。全身が灰色の毛に覆われ、とがった耳が現れ、ふさふさとした尾が生えた。関節の位置も人間のそれとは明らかに違っている。その時ばかりは普段優しい月光が、少年の体を突き刺し貫くように見えるのだった。
「グルル……」
地の底から響くような、低くも優しいうなり声に答えるように少女は目を開け、そしてほほ笑んだ。
「今夜の変身も完璧。相変わらず素晴らしい毛並みよ。どこに出しても恥ずかしくない狼だわ」
「カフッ」
狼は「どこに出す予定があるというのか」と言いたげに笑い声のような音を発した。
狼はしばらく少女に撫でまわされていたが、そっと身を引いてそばに落ちていた布切れを咥えると少女に差し出した。
「あら、もうおしまい?……でもそうね、もういい時間だもの。行かなくてはね」
そう言って少女は狼の咥えていたマントをかけてやった。するするとその輪郭が小さくなり二足歩行をする人間となった。
「そうだよ。これから遠くへ行くんだ。時間はあればあるだけ良いんだから、もう行かなくてはいけない。でも残念がることはないよ。これからはもう時間など気にする必要はなくなる」
少年は服を着ながらそう告げると少女の元へ戻りその手をとった。少女は空いているもう一方の手で少年の首筋に触れた。そこには非常に薄いものではあるが小さな傷跡が見て取れる。何かに噛まれたような、蛇か?
少女は愛おしげに傷跡を撫でる。少年は少しくすぐったそうに肩をすくめ、
「僕にこれほど長く残っている傷は、これくらいのものだろうね。君のような愛情深いお方に愛されて、僕はとても光栄だよ」
と言った。
「嫉妬深いとか、執着心が強いと、素直におっしゃっていいのよ?」
「まさか。これはあなたの愛に他なりませんよ。お嬢さん」
「時々、あなたが本気かどうか自信がなくなるわ」
「僕はいつだって大真面目だよ。さあ、おぶっていこう。君は狼の速度の方がお気に召すだろうけど、目立ってはいけないしたまには月夜の散歩と言うのも悪くないよ」
「私、そんなにひ弱ではないのよ。自分で歩いて行けるわ」
「君のそのやわらかな足をこれ以上傷つけたくはないんだよ。わかっておくれ」
一秒でも早く丘にたどり着こうとした少女の足は、既に草の先や花の棘に傷つけられ、痛々しい姿をさらしていた。
「靴を用意し忘れてしまったのはよくなかったけれど……甘えられるのならよかったのかもしれないわね」
「僕はなんでも受け止めるよ」
そうして二人は微笑みあって、闇に消えていった。二人がお互いの愛をゆっくりと伝えあえるようになるまでは、月や星々も雲の後ろに身を隠しておくことを選んだ。
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