斬るに斬れない時代の渦 それぞれの明治維新

武内ゆり

斬るに斬れない時代の渦 それぞれの明治維新

「加藤先生、いよいよ今日ですね」

朝、起床し、冷水で顔を洗う三郎。そこに声をかけてきたのは藩士の喜多八だった。三郎はいつもの習慣で鬢を整えながら、問うた。


「何が」

「まさか忘れたわけではありませんよね。今日は行幸があるそうで。行列で、公方様もここも通るんで、近くで見れますよ」

と語る喜多八は、好奇心で目を輝かせていた。公方様とは将軍のことである。お上に対して無遠慮な、とは思うものの、三郎もその気持ちはわかるので、おいそれとは叱れない。だからこそ喜多八は、三郎の前ではこうした感情をむき出しにするのだろう。天皇が公卿百官を引き連れ、その後に連なって将軍が諸大名を率いて大路を練るのだから、壮観だろう。


 それにしても今日だったか。三郎は少し、狐につままれた気分になった。仕事に忙しすぎて、あっという間に来てしまったらしい。まだ数ヶ月先のことだと思っていたのに。顔を洗っても、まだ頭はぼんやりとしているのかもしれなかった。

「そうだったか」

「そうですよ」

喜多八は誇らしげに頷いた。今日は秋晴れで、空気もカラリと心地よい。良い日柄になったものだと思っていると、ふとある人物の顔が浮かんだ。

「そういえば、木下はどこにいる」


木下はここの邸宅に匿っている浪人で、大名や将軍などお上のことを快く思っていない節がある。何か一悶着あって脱藩したのだろうが、それだけの短気と行動力を兼ね備えた男だ。まさかとは思うが、念の為、釘を刺しに行こうと決意した。

 喜多八は木下を好いていない。微妙そうに視線を逸らし、

「多分、部屋にいると思います。寝ているんじゃないですかねえ」

と答えた。


「わかった。ありがとう」

三郎が礼をいい、早速会いに行こうとすると、

「たまには藩士の方も気にかけてやってくださいよ」

浪人だけじゃなくて、と言外に付け加える。彼らからすれば、危険分子でしかない浪人をなぜ匿うのか、腑に落ちていないのだろう。たいして働きもしないくせに飯だけ食ってるやつと、軽蔑と嫉妬が働くのも無理はない。


 だが、彼らにはこの国がどうなっているのか、わかっていないのだ。徳川幕府が発足し、三百年間鎖国している間に、危機は増してきている。近隣の清国や印度、雲南は軒並み欧米に占領されたと聞く。英吉利や亜米利加、仏蘭西、和蘭、独逸、露西亜。こうした国が全部黒船を持って海という海を渡っているというのに、この国では大型船の造船すら許されていない時代が長かった。


 この遅れを取り戻す為には規制を取っ払い、全力で研究せないかん、と三郎は思っていた。しかし同時に、このまま行っても駄目だという思いも強かった。旧態依然とした藩や幕府が改善を尽くすと言っても限界がある。外では威張っていても内部ではほとんどどこも借金まみれだ。


 三郎の目には、残念ながら幕府の未来は悲観的に映っていた。国内では攘夷の声も多いのに、外国と通称貿易を結んでいる。これでは他の国の二の舞になるだけではないのか。反対に、希望の種子に見えたのは、浪人達だった。彼らは裸一貫で出てきた以上、やると腹に決めたことはやる意思を示している。それであってこそ本来の武士だ。もちろん浪人にも玉石混交ではあるが、三郎は見栄や世間体を気にして安寧と暮らしている藩士達よりも、いつまでも今のままではいけないと考えて行動を起こす浪人達——本人達は「志士」と名乗っている浪人達を愛していた。その愛情の差を外に出さないように努めていたつもりではあったが、やはり伝わってしまうものであるらしい。


「それもそうだな」

三郎は相槌を打ちながら、それでも……と考えるのだった。名だけの武士が何するものぞ? 家柄がいいから生まれつき偉いかといえば、全てがそうとも言えまい。身分が賤しくても面構えが立派な男は、それなりの尊敬を受ける。人間、どんな環境に身を置こうとも、確固とした自己を見失わず、志を失わず努力している者は偉い。浪人は明日、命があると思っていない。覚悟がある。生き永らえることを考えている者より、覚悟のある人間の方が信頼をおける。それだけのことだ。この国を変えるのは、国を捨てた浪人の力だ。


 将軍の行列のことは、木下ならもう知っているだろう。不貞腐れて寝坊しているのだろうか。それならまだマシなのだが、と思いながら、

「おーい、入るぞ」

と声をかけて、襖を開けた。木下は既に起きていた。部屋には木下の一人だけだったが、三郎は木下の膝に乗せられた生身の日本刀を見て、ギョッとした。

「あ、加藤先生」

木下は日本刀を丁重に床に置き直すと、一礼を持って挨拶する。

「どなたかお探しですか」

「それは……」

三郎は木下の膝前にある、鈍く光る切れ物を見て言った。


「自分の刀はいつ何時であっても、使えるよう手入れするのが日課ですから」

と澄ました返答が返ってくる。そう答える以上、信じるしかないが、三郎には将軍を斬る為に刀を研いでいるようにも見えた。木下には秘めた激情がいつ爆発するかわからない危うさがある。これがただの杞憂であれば嬉しいのだが。

「今日はどうする」

それとなく、その意思があるのかと探りを入れる。

「今日は邸内でのんびりと過ごそうかと思っております。行列にも参列したい気持ちはありますが、浪人の身、拝観の列に加わるのは許されないでしょうから」

木下の目は、挑発的に三郎を見返しているように思えた。いつにも増して落ち着き払った彼の様子に、三郎は違和感を覚えた。だが木下は正論しか言っていない。身をわきまえた発言だ。


「わかった、ゆっくりするといい」

三郎は漠然とした不安を拭いきれないまま、部屋を後にした。

 将軍が京都まではるばる来て、天皇の行幸に参列するとは時代も変わったものだ。行幸の次には石清水八幡宮に参詣し、将軍は神と天皇と天下に対して攘夷を誓うらしい。


 藩士は正装し、門前に出て平伏した。将軍の乗っている籠を見たいと思っても、頭を上げることは不敬だと見なされる。

 天皇は輿に乗り、それ以下の公卿は馬に乗った。天皇の行列の後には、葵の形に染められた旗がなびき、煌びやかな衣装を凝らした騎馬、弓や槍を持った足軽、礼装の道具持ちと、先頭から順に列が続いていく中、三郎は他のことを考えていた。支那ではアヘンを巡って戦争が起きている。日本でも直に起こるに違いない。夷狄を追い払うのはもちろんのことだが、底の知れぬ敵をいたずらに拒絶するだけで、果たして本当にいいのだろうか? 攘夷攘夷と騒ぐが、本当に追い出すべきは……。忠の思想から見て、邪であると感じれば感じるほど、三郎の血は熱くなり、頭はかえって醒めていくように思えた。


 ふと、三郎は気になったことがあった。何の根拠もない。しかし……疑念をうやむやにはしておけず、

「しばし失礼」

「どうされた」

「至極大事なものを取りに忘れた」

と横と上司に断ってから、藩邸に入る。人気はなかった。三郎は迷わず歩いていくと、近くで何かが宙を切る音が聞こえた。中庭に木下が、白刃を鞘にしまっているところを見た。


 木下は人が来るのに気がついていたらしい。その人というのが三郎だとわかると、安堵したような微笑をたたえて、

「なんだ、加藤先生ですか」

と言った。三郎は木下の瞳から、目のそこに尋常ならざる覚悟が光っているのを見てとった。


「木下」

重々しく名前を呼ぶと、さすがの木下も微笑を引っ込めた。

「将軍を斬るつもりがあるなら、やめろ」

「……」

誤解だという訂正も弁解もしないあたり、図星なのだろう。


「今やったらお前が殺されるだけだ。犬死だ」

「……」

「尊王攘夷はわかるが、世の中には時期というものがある。たとえ考えが正しくても、時期が合わなければ、その行動が、志が無駄死になるんだ」


木下の強張った顔に、迷いの色が写った。しかしそれも一瞬のことだった。

「先生に、私の何がわかるというのですか」

再び暗い闘志を、眼光に宿らせて言った。敵意すら感じた。木下がスタスタと中庭を超えて往こうとするのを、三郎は立ち塞がって止めようとした。遠くから行列の砂を蹴る足音が聞こえてくる。


「木下」

三郎は木下の肩を掴み、グラグラ揺らした。

「思い直してくれ、お願いだ」

木下は思い詰めた顔で答える。

「先生、今やらなくては、いつその時が来るというのですか。待っているだけでは、いつまで経っても時節は開けません。先生は敵が攻めて来ても、時節ではないからと言って逃げるような、卑怯者ではありますまい。事を起こさなければその意志さえ伝わらないのです。それでも駄目だというのですか」

「駄目だ」


木下が掴まれた手を振り払おうとするのを拒むと、三郎は半ば叫ぶように声を振り絞った。

「今は駄目だ。時期が来るのを耐えられれば、お前はもっと活躍できたんだ。犬死はよせ。お願いだ」

「止めないでください。もう堪えられない」

意志と意志のぶつかり合いだった。

「木下、お願いだ、お願いだ……」

先生としての威厳など、どこにも残っていない。三郎の懇願は、近くで行列があるのも忘れてしまうほど、ほとんど絶叫に近かった。


 突然、三郎の視界が、殴られたように揺れた。

「あ……?」

気がつくと、木下が目の前から消え失せ、自身はなぜか中庭に座り込んでいた。地面が近くなっていた。木下の代わりに、大小の刀が乱雑に置かれている。三郎は予感めいて、咄嗟に自分の腰に手を当てた。何度も手を当てたが、そこにあるはずのものが、なかった。


「あ……ああ……」

自分は何と話していたのか。自分の命とも言える刀が、意識のないところで外されていることに、三郎は衝撃を隠せなかった。


 三郎の夢はそこで醒めた。心臓がドクドクと早鳴っていた。

 久しぶりに悪夢を見た。


 日はまだ昇っていない。だが、三郎は再び眠る気になれず、布団から這い出した。厠に立とうと外に出ると、空が白ばんできているのが見えた。


「木下、か……」

惜しいものを思い出すかのように、三郎は呟いた。三郎の髪にも、白いものが混じり始めている。

 木下は倒幕計画を仲間内で企てていたところを、刺客に襲われ、帰らぬ人となった。頭がきれ、愛嬌のある人物であった。惜しい人材を亡くした。


 あと三年待ってくれれば、あるいは違う人生があったかも知れない。時代の変換点においては、人間の運命というのは渦潮に巻き込まれるように捻じ曲がっていく。昨日までは元気だった人が……順調に見えていた人が……過去になってから初めて、運命というもっともらしい軌跡が引ける。


 三年もすれば倒幕運動がますます盛んになり、やがて薩摩藩と長州藩が手を組み、幕府を倒した。御一新が行われた。木下もその人柄を活かして、もっと活躍できただろう。木下のことはしばらく考えておらず、忘れていたつもりだったが、頭の片隅には残っていたらしい。夢の中で木下の言葉を否定してしまったが、彼の言葉は三郎自身の本心であったのかもしれない。


 明治維新で士農工商の身分が撤廃され、四民平等が実現された。そのこと自体は民主主義の精神に照らし合わせて、また後の世からも称賛されるべき事柄なのだろうが、武士の身分を剥奪された三郎からすれば、

——裏切られた。

という思いが強かった。政界は薩長土肥が役職のほとんどを牛耳った。三郎も倒幕は賛成だったが、三郎の頭には、今ある徳川政権を潰して、新しい大名が幕府を開くくらいにしか考えていなかった。それが、攘夷から一転して開国し、近代国家に早変わりしてしまったのである。


 だが裏切られ、自分の目指していたものが果たして何であったのかという思いはあれど、恨みはしなかった。ただ、あの時期に木下と共に死んでいた方が、あるいは幸せだったかもしれない——そう思う時はある。幕末という渦は乗り切ったが、明治政府の建てた新しい日本国家の渦には、乗れなかった。両者は同じもののように見えながら、三郎の目から見れば別物であった。


 しかし明治国家という朝日は、もう既にのぼってしまったのだ。三郎にできることは、この太陽の下で残りの人生を生きていくこと以外にはなかった。

「老いたな……」

三郎は自嘲する。昔の方がよく思えるのなら、今の時代に埋まっているはずの輝きを見つけられていないということだろう。自身も昔の人となってしまったという自覚はあった。


 山奥から赤い朝日が顔をだす。この太陽が偽物でないことを願いながら、三郎は今日も生きるのだった。

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