第13話その②「家」

 城下町の北には、丘と山裾を拓いて作られた住宅街がある。湘北台と呼ばれるその場所に初瀬の家はあった。付近には小学校や商店が多くある影響で、核家族が多く住んでいる印象だ。そんな街であるからか、今は不気味なほどに静まり返っている。家の横を通り過ぎても、火との声はしない。そんな寂しさを覚える帰路を初瀬は黙々と歩く。


 この坂を越えればすぐ家に辿り着く。その一心で足を動かした。


 小さな一軒家の門を潜り抜け、初瀬は目を丸くした。


(まだ電気ついてる)


 何かあったのだろうか、そう思った初瀬は足早に玄関へ入った。案の定パステルカラーのスニーカーが一つある。それを目にした初瀬は急いで靴を脱いでリビングへ向かった。


「こんな時間まですみません、内田さん……!」


 そう言いながら廊下から顔を出せば、しわくちゃの顔と目が合った。彼女は初瀬と目が合った途端にその顔を顰める。今日は一段と機嫌が悪いらしい。初瀬は老女を支える女性にアイコンタクトを送って、自室へ逃げ込んだ。


 ため息をつきそうになりながら、ジャケットを脱いでハンガーにかける。そのままの勢いに乗せて初瀬は手早く部屋着に着替えた。冷えた空気が肌を刺す。自室の暖房を入れ、少ししてからリビングへ顔を出す。


「あ、渚ちゃん。さっきはごめんなさいね」


 そんな初瀬に気が付いたらしく、女性は申し訳なさそうに眉を下げた。


「いえ、そんな……内田さんが気にすることじゃないですよ。いつものですか?」


「そうね。いつものだわ。だから心配しないで」


 そう言って内田は声を和らげた。


 彼女は初瀬の母を介護してくれるヘルパーである。いつもであれば二十時ごろには帰っているのだが、こうして時折、初瀬の母に合わせて動くことがある。それについては以前から取り決めていたから仕事面では全く問題が無いのだが、今月に入ってからその回数が一気に増えた。さすがに申し訳なくなってきてしまう。そんな初瀬に対し、内田は目尻の皺を深くして初瀬を労った。


「渚ちゃんこそ、こんな時間までお勤めご苦労様」


「いえいえ。すみません、もう少し早く帰れたらよかったんですけど」


「って言っても警察のお仕事なんだから、そう簡単にはいかないでしょう? 人の都合に合わせて動くお仕事同士、お互い様よ。気にしないで」


 ふふ、と上品に笑いながら内田はそう言ってくれた。そんな彼女の笑みを受けた初瀬も思わず表情を和らげる。


「そうだ、渚ちゃんご飯食べた?」


「あ、まだですね」


「それなら……筑前煮、作りすぎて余っちゃったから。差し入れだと思って受け取ってちょうだいな」


 そう言って内田は小さなタッパーを差し出す。


「いいんですか? ありがとうございます……!」


「いいのよ。前においしいって言ってくれたから嬉しくなっちゃった」


 こうしてたまに食べることのできる内田の手料理を、初瀬は密かな楽しみにしていた。いつの間にかそれが彼女にも伝わっていたのか、定期的に差し入れと称して一食分のおかず類を持って来てくれるようになった。半ば習慣と化したそのやり取りを済ませ、初瀬は早速皿を取り出して、煮物を電子レンジに入れる。


「内田さんはご飯食べましたか?」


「ええ。お弁当で持って来ていたのでいただきましたよ」


「それはよかったです」


 てきぱきと食事の用意をし、食卓に着く。いつもは一人だが、今日は客人がいる。確実に内田の仕事の範疇ではないし、給料だって発生しない。初瀬自身、彼女に甘えていることを自覚していた。


「いただきます」


 食物と目の前の人物の優しさに感謝しながら初瀬は箸を取った。少しして、書き物をしていた内田が顔を上げる。


「あぁ、そうだ。今日、言われた通りに病院へ行ってきたんだけど……先生も、ある程度覚悟はしておいた方がいい、って」


「……そうですよね」


 初瀬は表情一つ変えずに廊下の方を見た。その奥にあるのは母の寝室である。彼女は数年前に認知症を患って以降、身体の弱りが激しい。元々頑丈な質ではなかったらしく、初瀬出産時にも苦労したらしい。


 しかも認知症であるせいで、父と兄と別居していることを忘れている。初瀬のことは覚えているらしいが、天敵として認知されており機嫌がいい日でなければ会話すら許されない。その心当たりはあるが、まさかここまで引きずるとは初瀬は思いもしなかった。


「年越しはできるといいわね」

「……休み、とれるといいんですけど」


 思いもしないことを口にする。その嘘は彼女には通じない。経験値の桁が違い過ぎるのだ。どうしても内田に嘘が通用しないことを初瀬は分かり切っていた。


「思い出してくれたらいいのだけど……そうもいかないわよねぇ」


 そう言って内田は肩を落とした。


「仮に思い出したとしても、嫌われる心当たりは他にもあるので、何とも言えないですね」


「難しいわね。せめて攻撃しにいかないようになればいいのだけど」


 母の話題はそこで終わる。それ以降は内田の孫の話で盛り上がった。初瀬は特別子供が好きではない。むしろ苦手な部類に入るのだが、内田の話を聞く限りでは「可愛らしい」とか「愛らしい」と思ってしまう。彼女がどれだけ孫たちを愛しているのかが、その話し方から伝わってくるのだ。初瀬はそれをどこか寂しく思いながらも、食事と共に話は終わっていく。


「それじゃ、またね」


「はい。よろしくおねがいします」


 そんなやり取りをして小さな女子会は解散となる。


 時刻は零時を少し過ぎた頃。早く寝なければ明日に響いてしまうだろう。


(明日も大変だろうな)


 自室へ向かう途中で母の部屋の横を通った。豆電球のついた部屋の奥で、彼女は眠っていた。廊下からそれを見ていると、生きているのかどうか心配になってくる。それくらいに呼吸は弱々しい。


(……いつまで続くのかな)


 そう思ってしまう自分がいた。頭を振ってその考えを忘れようとする。


 母は兄が行方不明になったことを覚えていない。父と別居をしていることは覚えているのに。兄──初瀬幸嗣は八年前の十月事件の後に行方不明となった。あれだけの事件があった後なのだ。それらに巻き込まれたとして警察も調べてくれたが、結局今に至るまでその消息は不明なまま。あっという間に時間は過ぎていった。


 正直初瀬も失踪宣告をするかどうかは迷っていた。遺体が無いのに死んだことにしたところで、意味が無いように思えるからだ。初瀬が独自に調べた結果を見てみても、彼が生きている可能性は高くないと思ってしまう。初瀬が黙って申請をしたところで母に気づかれることはないだろうと考えた。


 だから母に代わって、失踪宣告の申請を出した。


 それが彼女の逆鱗に触れて以来、この絶妙な距離感が続いている。

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