第14話「暗雲」

「おい、起きろ」


 少し不機嫌そうなあの声と共に三笠は叩き起こされた。寝ぼけまなこを擦りながら時計を見てみれば午前七時だ。三笠がいつも起きる時間だが、怪我や疲労のせいか寝起きがかなり悪い。くたっとしながら身を起こそうとごろごろとする。そんな三笠を横目で見ながら鷦鷯ささきは部屋を出て行った。それの後を追うようにして三笠も身支度を済ませ事務室へと出る。


 事務所の方では富士が机の上の資料をさばいていた。そして接客用のソファーでは初瀬と八束がくつろいでいる。二人はいつの間に仲良くなったのか、紅茶片手に優雅に話をしている。心なしかいつもの表情変化に乏しい初瀬の表情も柔らかい。


「あ、三笠君。待ってましたよー」


 八束が三笠に気が付き、振り返りながらそう言った。



 今日の天気は雪時々曇り、ところによって雨の予報だ。現在の市内は雪がちらついている。そんな中を三笠、初瀬、八束は雑賀の家へ向かった。三笠にとっては数日ぶりの帰宅となる。結局あの事件が起きてからというものの、荷物を取りに行く以外で帰宅することはなかった。


(やっぱりなんか、静かだな)


 元々そこまで騒がしい場所ではなかったが、あれから一段と人の気配が薄れたように感じる。そんな不気味な中を三笠たちは進んでいく。


「ここの二階の奥でしたっけ?」


 八束が奥の方を指しながら三笠に尋ねた。心なしかどこか楽しそうにその目は輝いている。育ちのよい八束からすればこうした安アパートは珍しいものなのだろう。相変わらず知らない物が好きなのだな、と三笠は感心した。


「はい。僕の部屋の隣ですね」

「あ、そういえばそうでしたね。富士から聞きました」

「富士先輩……」


 裏で何を言われているのか、急に不安になった三笠だったが雑賀の部屋へと一番に向かう。富士から預かっていた鍵を使い、そのドアを開ける。


 冷えた空気が淀んだ室内へと流れ込んだ。三笠がドアを開けると八束は黒い皮手袋を身に付けながらその部屋へ入っていく。その背には一切の躊躇がない。


「今更ここに来て何するの?」


 先ほどまで黙り込んでいた初瀬が廊下に身を乗り出しながら小声で三笠に尋ねた。そんな初瀬に釣られて三笠も小声で訊き返す。


「なんだ、さっき話さなかったんだ」

「しなかったよ。さっきしてたのはただの雑談だし」

「八束さんの魔術にこの部屋が必要なんだよ。あとは……僕らかなぁ」

「……? 人手が必要なんだ」

「まぁ、そうらしいよ」


 そこまで話したところで、八束が二人を手招きした。廊下の先、六畳のワンルームのその入り口で彼女は待っている。


「それじゃあ始めましょうか! お手を貸していただけますか?」


 そう言いながら八束は二人に両手を差し出した。大人しくその手の上に各々の手を乗せると八束は優しくそれを握り込んだ。皮手袋がきゅ、と鳴る。


「いきますよ。三笠君、見逃さないようにお願いします」


 そう三笠に優しく言ってから八束は目を閉じた。深く息を吸い込む音が聞こえ、辺りに春風のような、温かい澄んだ気が流れた。急な変化に初瀬は目を丸くする。三笠は以前八束の魔術を見たことがあるが、当時からより洗練されているように感じた。


(そんなに時間が経ってるワケじゃないのに……すごい)


 ふ、と虚空から赤い糸が出現する。それは三笠と初瀬の手元へと伸び、繋がる。もう片方、遊んでいるその先は玄関の方へと伸びて行った。それは二人の目にしっかりと映っている。そしてすぐに赤い糸が宙を漂いながら戻って来る。しゅるしゅると伸びていくその糸の先はベランダ外へと出て行く。カーテンが開け放たれているおかげでベランダの外の糸も見えるが、先はベランダの中で迷ったように泳いでいるだけだった。八束が目を開け、それを認める。その瞬間、ふっと赤い糸は姿を消した。


「と、いうことは……魔術師はベランダから逃げたんですね」

「これは……どういうことなんですか?」


 初瀬は純粋な疑問を八束にぶつけた。


「なんというか、魔術の逆探知、みたいな感じですかね。私のお家は縁に関する魔術が得意なんです。それでその応用で少しだけですけど、使い魔の断片から術者の最終位置を割り出したんです。効果のある範囲は狭いし、目撃者とか縁のある人がいなければ使えない結構限定的な魔術なんですけどね」


 「今回はお二人が該当しますね」と言って初瀬たちを指した。


「えぇと、じゃあ、玄関に一度行ったのはわたしたちの前に出てきたから、ですか」

「そうです。そこで二手に分かれたのかもしれませんね。それなら納得もできます。要するに囮だったんでしょう。誰かが来たことを察知して、囮用として玄関に向かわせたんでしょう。となれば……これは逃げ出したスペクターの捜査は必要ないかもしれませんね」

「あ、そうか……確かにそうですね」


 八束の言葉に二人は頷いた。囮が逃げたということはその役目が終わり、主の元へと帰った可能性が高い。魔術師と契約しているであろうスペクターであることは確定した。そうであるなら、なおさら帰っている可能性が高い。


「それでもやはり、心配ではありますけど……とにかく捜しまわるしかありませんね。私たちも見回りに戻りましょうか。こちらは手がかりがありますし、そこまで気負う必要もないと思いますけど」


 その言葉に三笠は黙って頷いた。しかし初瀬だけはどこか浮かない顔をしている。それに突っ込むべきか迷った三笠だったが、今は止めておこう、と口をつぐんだ。


「これからどうするんですか?」


 そんな三笠の横で初瀬が言う。


「そうですねぇ、とりあえず見回りに出ましょうか。そこまで遠くに行っているとも思えませんし。もしかするとモズの足がかりが掴めるかもしれません」


 そう話を締めて三人は雑賀の家を出た。気温が上がったせいか雪は冷たい雨に変わっていた。


「あらま。傘持ってきてないですね」


 暗い空を見上げながら八束は眉を下げた。


「あ、それなら僕の家に傘がありますよ。折り畳みと普通のやつがあるので……取ってきますね」

「そうですね……?」


 返事をしながら八束が首を傾げた。どうかしましたか、と三笠が問いかけようとしたその時だった。不意に八束が真面目な顔になった。


「お二人共、構えておいてください」


 その言葉で三笠ははっとして身構えた。八束の視線の先、すぐ近くの建物の角の方から人が飛び出してきた。三十代くらいの男性だ。そして、それを追いかけるようにして飛び出してくる影がもう一つ。大型犬ほどのサイズの影だ。それはものすごい速さで男性の前へ回り込む。


「させません!」


 八束が腕を振った。それと同時に赤い糸が現れて影を絡めとる。影の正体はスペクターだった。一見鼬のようにも見えるがそれにしては足が細長い。大きく見開かれた目は広く世界を写し込んでいる。


「あ、あれは?」

「雷獣とか呼ばれたりする、足の速いスペクターです! 結構狂暴ですよ!」


 困惑する初瀬に早口で八束が教える。雷獣はその間に手足をばたつかせ、その糸の間をすり抜ける。三笠たちは急いで道路へ出ていく。


「三笠君はあの人の保護を! 初瀬さん、私がサポートします。仕留めてください!」

「分かりましたっ!」


 八束の指示通り三笠は男性の元へと駆け寄った。男性は全力疾走をしていたのか、激しく肩を上下させて咳き込んでいる。三笠はその背をさすってやりながら、その身体に怪我がないかを確認した。


(怪我は無さそうだな……あとは、えっと、周囲の安全確認か)


 周囲を見回して他にスペクターがいないことを確認しようとする。確認できる範囲にスペクターはいない、そう三笠が確信して安堵したその時だった。


「上!」

「はっ?」


 鋭い声に釣られて三笠は空を見上げた。時雨が頬を打つ。雲で低くなった空を飛ぶ無数の黒い影。それは三笠がその姿を認めると同時に勢いよく降下を始めた。それに反応しようとするも三笠では間に合わない。急いで身を伏せるので精いっぱいだろう。


(っ! ダメだ、この人がいる!)


 すぐに伏せかけた顔を上げてその人を庇いに行く。魔術はきっと間に合わない。怪鳥の爪が三笠の背にかかる寸前、不意に辺りが寒くなったと思えば怪鳥はその身を吹っ飛ばされていた。近くの塀にぶつかったソレは力なく地面に横たわっている。


「こ、おり……!?」


 怪鳥を撃墜したのがなんだったのか、目を凝らした三笠は思わず唸った。小さくキラキラしたものが辺りに散らばっている。──氷だ。氷の礫が怪鳥を墜としたらしい。


「何をしている……?」


 怪訝な顔をする術者に三笠はきゅっと口を結んだ。言い返すか否か迷う暇もなく、頭上で口笛のような音がする。怪鳥の鳴き声であることはすぐ分かった。術者──鷦鷯ささきもまた天を仰ぐ。


「厄介だな……さすがにあそこまでは届かないぞ。おい、仮登録」

「な、なんですか!」

「お前の魔術は射程長めなんだろう。どうにか落とすなり振り回すなりしてくれ」

「う、上ですか!? そんな無茶な!」

「文句言うな。墜とせとは言ってないだろう」


 そんな戦果、ハナからお前には期待していない。そう言わんばかりの冷たい瞳に臆しながら三笠は天上の敵を見る。数は七、それらはまとまりを持って三人の上空を旋回している。曇っているおかげかそこまで遠い距離ではないが。


(……距離は、二十七! できるか!?)


 指と魔道具を駆使してその距離を割り出す。そうこうしているうちに一羽が降下を始めた。


 三笠は無茶だと思いつつも術式を広げ照準を上へと定める。怪鳥は最初の一羽に続いて二羽、三羽と降下を続ける。三笠と保護した男性の直上から降下している。一度も試みたことのないことだ。照準は容易に定まらない。


「当たれ!」


 数撃てば当たる、その言葉を言い聞かせるように心の内で繰り返しながら弾幕を放つ。術式にセットされた石英は弾幕となって怪鳥を絡め捕ろうと撃ちあがる。


 しかし咄嗟に慣れないことをしたせいか、その弾幕は薄く、宙で捻じれてしまう。その間を怪鳥はやすやすと潜り抜けて三笠に襲い掛かる。魔力を纏った怪鳥は上着の上から三笠に掴みかかろうと爪を突き立てる。一瞬のうちに痛みが走ってじわりと傷口が濡れる。


「肉盾のつもりか!」


 挑発するかのように鷦鷯の声が聞こえる。それと同時に怪鳥の羽が凍り付く。一瞬にして氷はその身体を蝕んで地に落とす。最初からこうしてくれればよかったのに、と三笠は心の内で文句を言った。


「文句があるのか知らんが、俺の魔術は範囲がかなり狭い。アレには届かない」


 あっけらかんと鷦鷯は言った。内心を読まれたのか、と三笠はぎくりとしたが向こうはそんな三笠を気に留める様子はない。


(とんでもない無茶だ……)


 深呼吸をして今度は降下が始まる前に仕掛ける。先ほど仕留められたのは二羽。あと五羽も残っていた。


「そもそも……術式の構造上、想定されていないんですけど!」


 二重、三重に弾幕を放つために魔力を込める。今度は威力を出すためにパチンコ玉を術式にセットする。


 魔力が収束して熱と共に弾幕が張られる。それでもやはり弾幕に派手な粗密が生まれてしまう。その粗を見せつけるようにして怪鳥が降りてきた。


「抜けてきたぞ!」

「もう無茶苦茶だッ!」


 軋む術式を魔力で抑え込んで次発を装填する。魔力の消耗がいつもより激しいことを鑑みて三笠は惜しいと思いながらも魔道具を使う。宝石を砕いて魔力を補充する。そこから生み出された光弾は粗を搔い潜って来た怪鳥を墜とさんとするが、怪鳥はそれを魔力を纏った翼で相殺した。思わぬ防御手段に三笠は唇を噛んだ。


「風雨凄凄……降り注ぐ雨は弾丸の如く」


 そこ目掛けて詠唱とともに何かが撃ち込まれる。もちろん撃ったのは鷦鷯だ。彼の周囲では圧縮された水が標的を墜とさんと待ち構えていた。三笠はその魔術の密度にぞっとする。彼がその気になればハリネズミのように全方位に向かって水の弾丸を撃てるだろう。


(雨下の八雲霖雨流は敵なしって……間違いじゃないのかもな)


 鳥肌を立てる三笠を他所に鷦鷯は声を張る。


「もっとだ! もっと隙を作れ!」

「無茶言わないでください! 僕の術式ってば上は範疇外なんですって! 見りゃわかるでしょう!?」

「言っただろ高さは要らない、墜とせとも言ってない」


 三笠が噛み付くと鷦鷯は面白くなさそうに返す。ここでようやく、三笠は鷦鷯が先ほどから言いたかったであろうことを察する。


(あ、『とりあえずアイツらの邪魔しろ、俺が仕留める』ってこと──!?)


 三笠はハッとして構えなおす。富士が度々「言葉が足りない」と突っ込んでいるところを見かけるが、まさにこのことなのだろう。若干の腹立たしさも加わって魔力が唸る。


「できてあと一回です!」

「仕方ない」


 三度目の弾幕が放たれる。調整に調整を重ねてもなお、怪鳥が潜り抜けるのに十分な間隙が生まれる。そこを潜った怪鳥を次々と鷦鷯は撃墜した。そして最後、少し高い位置にいる怪鳥目掛けて水の槍が放たれる。貫きはしなかったものの、怪鳥はバランスを崩して落下した。そこをすかさず圧縮した水の弾が襲う。──滞りなく行われた制圧に三笠は息を飲んだ。


 鷦鷯は眼鏡の位置を直しながらしかめっ面で周囲を見回した。新手が来ていないことを確認すると彼は携帯を取り出してどこかに発信する。


「おい、富士。どうなってるんだ」

『知るか! 竜脈の枯れが原因だろうが、色々なところでスペクターが暴れ始めている。このままだとカオスまっしぐらだぞ』

「他人事みたいに……」

『しょうがないだろ!』

「とりあえず情報を寄越してください。全体はどうなってます。こちらは保護した一般人が一人います。それから八束班と合流しました」

『分かった。なんとかしてみる。クソ、もっと皆報告しろ。情報が足りん』

「うるさいです」

『オペレーターとか初めてなんだよ許せよ』

「キレてないで早くしてください」


 声を荒げる富士に鷦鷯は冷たく突っ込んだ。その横で何もせずに黙っているわけにもいかない三笠は、男性の方へ寄る。


「あの、大丈夫ですか」

「あ、あぁ……大丈夫、です」


 男性は汗を拭いながら頷いた。それに少し三笠はほっとする。三笠は何度か引っかけられたが、その傷は浅い。この程度であれば今すぐ手当てをする必要はない。そう思い三笠もまた周囲を警戒する。今何が起きているのか、それが判明するまで緊張は解けない。


「へ?」


 不意に男性が三笠の肩を掴んで引いた。思わぬ行動に三笠はされるがままに後ろに引き倒される。それにデジャブを感じながら三笠を覗き込む男性の顔は、どこか虚ろだった。


「ど、どうしたんですか……」


 嫌な予感が脳裏を駆ける。ふわ、とどこからか冷たい風が吹いた。時雨は容赦なく上着の下を傷口を濡らし、冷やしていく。


「! 三笠!」


 鷦鷯の声が響く。


 それと同時に、男性の胸の内から、血しぶきと共にその肉を裂いて何かが飛び出した。黒い黒い、ぬらりとした液体。それが地面に転がる三笠をも串刺しにしようとその手を伸ばす。たった一瞬の攻防が繰り広げられた。


 ひやりとした空気が、脂汗の滲んだ三笠のこめかみを撫でる。


 内から飛び出した黒いなにかは三笠の頭の横にその根を下ろしていた。生暖かい液体が上から降って来る。目をつむることもできずに三笠は呆然とその状況を飲み込もうとした。

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