第29話「変化」

 十二月三十日。早朝。


「……ん。よし。とりあえず体は元通りって感じだな」


 診察を終えた潮田は頷きながらそう言った。どこか不満げなのは彼が魔術による速度重視の治療が好きではないからだろう。


「すみません……ありがとうございます」


 あまりの申し訳なさに三笠は小さく頭を下げた。


「フン。なんでお前が謝るんだか。俺は選り好みなんてしない。その時その時の最善を取るだけだ。お前らに無理をさせるのは気にいらんが、関係ないヤツらが傷つくのはもっと気に入らんからな。さァ、解ったならとっと出ろ。次が待ってんだからよ」


 潮田は口早にそう言うと、しっしと追い払うようにして右手を振った。


「わ、すみません。ありがとうございました!」


 三笠はそれに追い立てられるように急いで立ち上がった。慌てて部屋から出ようとする三笠の背を眺めていた潮田は、ふと思い出したことを口にする。


「お、そうだ。これは単なる雑談なんだが……三笠お前、あの女に何言ったんだ」


「は、はい? あの女って、初瀬のことですか?」


「おうよ。昨日の夜遅くだったか、急に治療魔術を教えてくれって俺に言ってきてな? そんで訳を訊いたら、お前と話をして決心しただの言っててな? 大概黙ってるお前が何を言ったのか気になったんだよ」


「え……いや、なんですかそれ……」


 思いもよらぬ出来事に三笠は困惑する。潮田からすれば不思議で仕方がないのだろう。


「……? だってお前、そうそう人様の領域に突っ込まんだろう。そのせいで彼女とも長く続かなかったお前がだぞ?」


「んなっ、い、いつの話をしているんですか! 別に何も言ってないと思いますけど……も…………」


 言い返しながら三笠は戸を開けた人物に気が付く。そしてその人と目が合い、硬直してしまった。


「潮田先生……早速ばらしたんですか……?」


 仮診察室の入り口で初瀬は腕を組みながらそう言った。どうやら内密に、という約束だったらしい。硬直する三笠を放って初瀬は潮田の方をじっと見つめた。


「やー……そりゃ気になるだろ」


 潮田はというと、そっぽを向きながらそう言う。


「は、初瀬。魔術習うの? あんなに微妙な顔してたのに!?」


「お前もうるさいな。別にいいだろわたしが何しようが。必要だと思ったから勉強するだけ。別に変でもなんでもないだろ……何その顔」


「え、いやだってさぁ……」


 混乱のあまり、三笠は変な顔をして初瀬の方を見てしまう。それを煩わしく感じたのだろう。初瀬は目を細めた。


「……わたしだって意地を張っているわけにはいかないんだよ。付け焼刃の技術でどのくらい使えるかは分からないけど。潮田先生、お願いします」


「はいよ。三笠ァ、お前も一緒にやっていくか?」


「いえ……遠慮しときます。ていうか先生は、僕が回復系苦手なの知ってるじゃないですか!」


「ハイハイ」


 三笠は今度こそ診察室の外に出る。



 ※※※



「……え、内田さん、それ本当ですか?」


 昨晩、二十三時頃だった。明日に備えて寝る支度をしていた初瀬に一本の電話があった。発信者は初瀬のよく知る人だった。電話の向こうの内田は沈んだ声で小さく『そうよ』と言った。


「わ、かりました。すみません、わざわざすぐに伝えていただいて」


『いいのよ。こちらこそお仕事大変だろうに、こんな時間に伝えることになっちゃって。もっと早く伝えられたらよかったんだけど……夕方ごろは、電話がどうしても繋がらなかったから』


 内田がわざわざ初瀬に電話を掛けたのは、初瀬の母の死を伝えるためだった。夕方に臨終したらしいが、その頃初瀬はちょうど八雲山に入っていた。それ故に電話が繋がらず、かといって初瀬の職場に先に伝えるわけにもいかないだろうと考えた内田は、一か八かこの時間に掛けてみることにしたらしい。


『お仕事の方はまだまだかかりそうなの?』


「はい。少し面倒なことになっていて……年明けにはそちらに顔を出せたらいいのですが、すみません。今のところどんな感じになるか読めなくて」


『そう。無理はしないでね。こっちでできることはやっておくから。そのために色々決めておいたしね。それじゃあ、おやすみなさい。遅くにごめんなさいね』


「いえ……こちらこそ、ありがとうございました」


 そう言って初瀬は電話を切った。


 通話が切れた後の携帯をしばらく虚ろな目で見つめていた。正直なところ、全く実感がない。人の死に触れるのは初めてではない。それでもここまで実感が湧かないのは初瀬にとって初めてであった。


 何より実母の死だ。そんな自分に違和感を覚えるまである。


「…………」


 携帯を閉じて部屋から出る。上着を掴んで肩に掛けながら、玄関を抜けて外へ出た。外はすでに真っ白だった。街灯の灯りを雪が反射するせいで夜はほんのりと明るい。もう一歩踏み出そうと下を見てみれば、積雪は二十センチを超えている。この中をスニーカーで歩くわけにはいかない。初瀬は諦めてその場でライターの火をともした。


 ──死因は老衰らしい。


 それを聞いた初瀬はとりあえずほっとした。誰かに殺されたのではないか、という考えが一瞬過ったからだった。


 冷えた空気を吸い込めば肺が、鼻が凍てつくような痛みを生む。それに一瞬だけ咽そうになりながら、初瀬は煙草を咥えた。


(にしても、年越しはすると思ってたけどな)


 すでに消えた灯を思いながら息を吐く。


 突然の訃報に困惑する一方で、初瀬は心のどこかでホッとしている己に気が付いた。


 もう、仕事のことで文句を言われることは無いだろう。


 もう、煙草のにおいのことでねちねちと文句を言われることも無いだろう。


 ──もう早く嫁に行けと言われることも、魔術に関わってヒステリックに叫ばれることも無いだろう。


(嫌になるわ)


 自分がどういう感情を抱いていたのか、それが明らかになった今。複雑でならない心境を誤魔化すかのように初瀬は煙草の火をもみ消した。そして一直線にとある部屋へと向かう。


 ノックを三回すれば、中にいた人物は「いるぞー」と返事をした。


「すみません、あの潮田先生、お願いがあるのですが」


 初瀬は引かれる後ろ髪を無視する。


 潮田は意外な訪問者に驚いているのか、不審げな目を初瀬に向けた。


「──わたしに」


 『やめて』と、ヒステリックな声がする。


「わたしに魔術を教えてください。潮田先生が扱うような回復を助ける魔術を」


 『やめて止めて! どうしてそんなことをするの!?』声は続けた。頭皮をかきむしる、あの姿が脳裏に割り込む。


 潮田は疑るように目を細めた。


「お前……」


「教えて欲しいんです。お願いします」


 初瀬は頭を下げる。電灯を反射する床に、母の顔が映りこんだような気がした。それから目を逸らすことなく初瀬は頭を下げ続ける。


「……分かった。別に教えるのは構わんが、俺はそこまで巧くないぞ。それにそんなすぐ身に着くもんでもないからな」


「承知の上です」


 初瀬は強く頷いて返す。その瞬間、まとわりついていた影がふっと消えた。

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