第24話「神域を冒すもの」

 視界を飲む白い霧。その中を手探りで前に進む富士は、全くよくならない、むしろ悪化している状況に唇を噛んだ。時刻は午前十時半を少し過ぎた頃だ。太陽は完全に空に昇っているはずだが、厚い雲と霧のせいでその恩恵は感じられない。冷え込む空気を、深く深く吸って目を凝らす。


 時計を見てみれば、五合目の石碑を超えてから十五分が経とうとしていた。


(報告と推測通りならそろそろなんだけどな……)


 文字盤を睨みながら舌打ちをした。


 先行した調査隊が──一応安否は不明なものの、ほぼ確定的に──全滅した、その原因を探るためにわざわざこうして富士一人で行動することになった。


 待ちぼうけてさらに十分たった頃、不意に周囲の様子が変わる。


(……来たか?)


 きょろきょろと辺りを見回してみれば、がさりとちょうど背後で音がした。落ち葉を踏む足音が一つ。


 その姿を見てやろうと振り返った先には、黒い何かがいた。その姿は霧のせいではっきりと見えない。それでも高さが中型犬ほどであることは読み取れる。お互いがお互いの出方を伺っているのか、しばしの間静寂がなだれ込んだ。そしてそれは不意に崩される。


「ん!?」


 たった一瞬だ。少し目を離した。退路の確認をするためにほんの一瞬目を離しただけだった。


 黒い何かがすぐそば、目の前まで迫っていた。


「ッ! 三十六計!」


 反射的に短く詠唱するとすぐさま魔力が活性化し、銀の風が起こる。踏み出した一歩は強く地を掴み、突き放した。


 木立を跳びぬけて、着地すると同時に麓を目指してリスタートする。


「『逃げるに如かず』!」


 魔術で強化された動体視力は、追従する何者かの姿を捉える。赤く血走った眼と眼が合う。一陣の風となって駆ける富士の後ろを『間隔を保ちながら』それは走っていた。


(なんで追いつけんだ!?)


 視線を前に戻し、目の前の木を横に避ける。魔力も加速もどんどんと傾斜に沿ってアップしていく。それなのに、だ。背後の追跡者は少しもその感覚を広げさせてはくれない。風雪の間をすり抜けて、倒木の下を潜り抜ける。それでもなお、富士のスピードが落ちることは無い。


 ぱっと視界が拓ける。


 霧の世界から飛び出した富士はすぐさま減速する。そうしてようやく、山道の始まりの辺りで止まることができた。止まった途端に反動が押し寄せ、富士はそのまま雪の積もる地面に寝るようにして勢いよく転がった。警備をしていたであろう魔術師が目を丸くしている。


「……逃げ切れたか」


 彼が臨戦態勢ではないのを見て、富士はそう判断する。正直顔を動かす気力すら今は残っていない。


「富士! ってなんてところで寝てるんですか!」

「八束か」


 富士は声のした方を見るべくぬるりと首を動かした。体中がそれに合わせて軋むように痛み、顔をしかめる。


「それで、どうでした? やっぱり難しそうですかね……?」

「お前、もうちょっとおれの心配してもよくないか」

「そういうこと言えるんなら大丈夫だと思うんですけど」


 抗議の声に八束は眉を下げながらそう返した。


「まぁいいや……そうだな。予想通り三十分くらい五合目から上にいると出てくるっぽいな。おれは動き回ったから、立ち止まっていた場合は知らんが……」

「そう、ですか……向こうはどんなでした?」

「あー、黒い何か」

「なるほど……?」


 黒い何かに心当たりはないらしく、八束は首を捻った。


「どうしましょうね。結界を張りながら移動するなんてできませんし」

「他に方法を考えるか、純粋に護衛部隊を増員するかだな。山を下りれば追いかけてこないっていうのもあるし、何かしら向こうにも縛りはありそうなんだが」


 二人してため息をつきながらそそり立つ八雲山を見上げる。


 本来は禁足地、神聖なる神域だ。しかも歴史ある出雲大社の、だ。


(そこで死人が出るたぁ、縁起が悪いにもほどがあるだろう)


 短く息を吐いてから富士はその身を起こす。


「なぁ、いづみ。そういや初瀬家の話はどうなった」


 神妙な顔をしている富士が面白いのか、八束は二、三度瞬きをした。


「あらあら。そんなに気になるんですか?」

「もったいぶるなって」

「そうですねぇ……お父上との縁は完全に切れていました」

「なるほどな」


 八束の言葉に富士は頷いて次を促した。彼女言い方からして本題があるはずだ。


「……家族構成も分かったのですが。とある人物から一方的な強い感情を向けられていることは確かですね」

「ふーん……そりゃ、この件に関係あることか?」

「私は大ありだと思いますけどね。とはいえ、向こうさんの方から見てみないことには何も言えません。その感情が何なのかも捉えきれませんし。月ちゃんにはとりあえず白と見ていいんじゃないですか、って言っておきましたけど」


 そう言って八束は息をついた。


 彼女が話しているのは、先日囮スペクターの痕跡を探しに行った時のことだ。囮との縁の他に、初瀬の縁も覗き見たのである。八束は松島から初瀬の身の潔白を確定させたいのだと相談されていた。彼女には父親の失踪に関係しているのではないかという疑いがかかっていたからだ。それ故に表立った捜査に参加させることができなかったのだが。


 警察内ですでに魔術師として認知されている八束の助言であれば、ある程度信用される。ここまでの信用を築くのに八束がかなり苦労をしたことを富士は知っていた。


「……そうか。じゃあ、あとはなるようになるか」

「馬鹿言わないでください。今回はあまり油断ならないですよ」


 ぺし、と八束が富士の腕を叩いた。彼女がどこまで見たのか、訊きたい富士であったがそれを八束が許さないのは目に見えている。


「…………気をつけないとな」


 富士は口を噤んで、静かに霧に飲まれた八雲山を見上げた。

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