第10話「影」

 一つだけ後悔していることがある。


「またか」


 魔術師であることを辞めなかったことだ。


 父の表情が和らいだところを冬吾は見たことが無かった。天才である姉の前だろうとその顔が崩れることは無い。いつしかそういう人なのだろう、と思うようになっていた。だからどんなに失意を向けられようが、もう響かないと思っていた。


「……」

「もう一回」という言葉はいつしか口にしなくなった。



 ※



「保有魔力の上限が伸びないな、どうしても」


 俯いて己の手を見る。体質なんだからしょうがないじゃないか、と文句が口を突いて出そうになる。それを飲み込んで顔は上げた。



 ※



「回復魔術も難しいか」


 最初に教わった回復魔術ですら使いこなせなかった。即席で魔術式を組むのが、特別苦手らしい。元々高度な分類の魔術であるが、ここまで基礎ができないとなれば習得すら困難だ。


 開いてまじまじと見つめた己の手のひらはいやに醜く見えた。傷が目立つ。



 ※



「身体強化は……無理そうだな」


 次の次くらいから父は諦めていたように思う。もちろん実際にそう言われたのではない。ただ、声のトーンからしてそうだと直感的に思った。回復魔術ができなくても、という気概はもう無かった。顔を上げる気すら起きない。



 ※



「お父さん。私、学校の先生になるから。今日で魔術師辞めるね」


 姉の言葉を聞いた父は、ただ一言「そうか」とだけ返した。


(僕も辞めてしまおうか)


 そんな気持ちが生まれた。


(もし辞めると言ったら父は引き止めるのだろうか)


 好奇心は騒ぎ立てる。しかしそれよりも、冬吾にとっては引き止められなかった場合の方が何となく怖かった。もしかすれば、引き止める時に怒鳴られるかもしれない。


 結局のところ、姉が家を出るのを許されたのは長男ではなかったからだろう。三笠家には未だにそういう習慣が残っている。──使う魔術の関係上、身体が頑丈で体力のある方が残らなければならないため、必然的に男が残ることが多いだけらしいが。


「お前はどうするんだ」


 そんなことを悶々と考えていた冬吾に、父が問いかける。思わぬ方向転換に冬吾はぎょっとした。そもそもの話、こうして父から何かしら尋ねられることが少なかったからだ。


「えぇと……僕は、辞めないです」


 少しつっかえながらも冬吾はそう答えた。姉は不思議そうな顔をして冬吾の方を見ていた。日ごろ泣くほど──それこそ吐くほど苦しみながら練習しているのを姉は知っていたからだろう。


(僕から魔術を取ったら、何も残らないじゃないか)


 高校一年生、あの事件が起きる直前の話だ。あの事件が起きてからは祖父母が亡くなっためにいよいよ、辞めるなんて言葉を口にすることはできなくなった。この選択を「後悔していない」と言い切れるほど、選んだ道は楽ではなかった。


 それでも冬吾は己の身に着けた魔術を、その知識と技術を捨て去って新しい道へ踏み出すことはその後一度たりとも無い。



 魔力が月の光を帯びて美しく舞う。


 息も絶え絶えな自分を助けたのは、魔術師を辞める、と言ったはずの姉だった。たなびく星色の髪は月光を反射する。庇うようにして前に出たその背は強く、凛としていて──何よりも頼もしかった。


 諦めそうになった時に過るのはこの光景だ。いつでも、いつだって、そんな存在に自分もなりたいと思っていた。



 憧れに何度も何度も追い立てられる夢をみる。追い詰められるほどに足は地を離れて空を漂う。そのはずなのにいつだって月は遠く、手の届かない場所にある。


 ──もっともっと、遠くに手が届けば。


 月は白々しく、空を照らしていた。



 ※※※



 ずきずきと全身で訴える痛みで目が覚める。視界は霞み、身体は重く思うように動かない。目を開いて入ってきたのは真っ白な世界だった。霧だ。それを認知した途端、ひやりとした空気が頬を撫でた。地面に横向きに倒れていることに気が付く。


(何があった?)


 視界と同じように白く靄がかかる頭を必死に働かせる。寝起きの悪い日の朝のように倒れたまま状況を理解しようとする。状況を理解し切るその前に一つ、声が投げかけられた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 目の前に誰かが立ったのが分かった。が、身体が動かないせいでその全貌を見ることができない。ぼんやりとする三笠のことが心配になったのか、その人はしゃがみこんだ。三笠は三笠でふわふわとする感覚に負け、指一本動かす気が起きなくなっていた。


(……? 変だ)


 そんな状態でも三笠は違和感に気が付く。正確にどのくらいの時間が経ったのか分からないが、恐らく側に立っているであろう男の動きを感じられない。どうかしたのだろうか、と感じ始めたその時だった。


「大丈夫です。わたしが連れて行きますので」


 聞き覚えのある声がはっきりとそう言った。それに対し、男の声が答える。


「それはよかったです。お手伝いできることはありますか?」

「すぐに手伝いの者が来るので大丈夫です。それよりも、道に戻った方がいいと思いますよ。こんな天気ですし」


 そんなやり取りが聞こえる。


 そして、男が立ち去ったのかため息が聞こえた。


「生きてる?」

「うぅん……」


 初瀬の質問に答えようとするが三笠は唸り声で返してしまう。


「駄目だこりゃ」


 そう言って初瀬は三笠を抱え上げた。突然の浮遊感に三笠は一瞬の気持ち悪さを覚える。違和感を覚えながらもされるがままに三笠は身をゆだねた。それからいつの間にか気絶していたらしく、記憶が無い。

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