父の時計屋

Tohna

父の時計屋

 大学に合格し長野県から上京してきた僕は、六畳一間の今時風呂なしのアパートで新しい生活を始めた。

 

 新宿まで西武新宿線で十分ほどの、野方という庶民的な街だ。

 昔ながらの商店街もあって、少し猥雑なところが気に入っている。


 風呂なしの安アパートに住むことになったのは、単に予算の都合だった。

 近くには「たから湯」という銭湯があって、それほど不便は感じないのだが。

 

 僕の実家は長野の小さな町で時計販売や修理をしている店だ。

 昔ならば、どの町にもあっただろう小さくてSEIKOやCITIZENの時計を中心に品揃えした何の変哲もない時計屋だ。

 きっと、僕はこの店を継ぐんだろう。

 男兄弟がいない僕は幼いころからそう決めつけていた。


 しかし父は、「俺みたいになるな」と立派に手に職があるにも関わらず僕に進学を勧め、


「家業はお前には継がせない」

 と、拒絶された。

 それは、僕にはとてもショックな出来事だった。

 時計を売ったり直したり。


 父の生活そのものが僕は好きだったのだ。



 僕の故郷の町は精密機械工業で発展してきた。

 父は工業高校を出て地元の精密機械の会社に入り腕利きの時計職人となったあと独立したのだそうだ。


 僕からすれば時計職人より単なる学卒のサラリーマンに魅力を感じていなかったし、なぜ自分をそんなに卑下するのか分からなかった。


 きっと自分の学歴コンプレックスを僕が進学する事で晴らそうとしていたんだと思っていた。


 田舎町の小さな時計屋のことだから、僕自身は親の収入が僕を大学にやるには不十分だと言うことがわかっていたし、不足分を稼ぐためにアルバイト漬けになったら本末転倒だから、と言って進学する事には躊躇いがあったのだ。


 いいんだ。


 僕は大学に行って父のコンプレックスを晴らすことに手を貸すことには気乗りしなかったし、何にしても父や母に僕の事で労苦を掛けたくなったのだ。


 しかし、ある時僕が入ることになった大学には、成績優秀な者には学費免除の可能性があるという事が分かった。


 僕さえ頑張れば、少なくとも学費が免除になる。国公立大学よりも条件がいい。


 だから僕は事あるごとに今通学している大学を志望校として口にしていたのだった。


 金の掛かる私立大には選べない。躊躇していると看護師をしていた母が、

「あんたの学費くらい、なんとかするわ」

 と言って無理やり願書を出してしまった。


 成績は良かったが、自信があるわけではなかったのだ。

 僕の高校は地元の県立の進学校の一つで、成績は上位3%以内だったから内申点はかなり良いはずだ。


 それでも本番の入試で良い点を取らない限りその制度は使えない。

 

 目安は二次試験で、受験科目5教科の合計が500点満点中470点以上という狭き門だったのだ。


 この基準は公表されていない。

 

 この大学に通う2つ上の高校の先輩がいて、帰省の折に教えてくれたのだった。


知央ともおなら、何とかなるよ」

 先輩はそう言って太鼓判を押してくれた。


「キャンパスで会おうな」

 そう言った先輩の言葉を信じて、僕は一心不乱に勉強をした。


 8、9、10、11、12月。


 月を追うごとに僕の模試の合格判定は上がっていった。

 

 受験当日、試験後は合格の手ごたえはもちろんあって、果たして僕は合格した。


 でも、一つも嬉しくなかった。

 実は試験の直後に自己採点をしたのだが、その通り学費免除には僅か二点足りなかった。


 わざわざ東京まで行って、合格者がもらう入学関連の書類を抱えて長野まで帰ってきた僕は、

「母さん、合格したけど、大学に行くのは諦めるよ。学費免除は取れなかったんだ」

 

 家で出迎えてくれた母にそう切り出した。


 母は少し悲しい顔をした。

 そしてすぐにいつもの明るい笑顔に変わって、 


「学費は大丈夫よ。お母さんには『ヘソクリ』があるからね」


 母はケラケラと笑いながらそう言ったが、また今度は少し真面目な顔に戻って言った。


「心配しないで大学にお行きなさい。でも、あんたが大学生活を謳歌できるほど仕送りはできなくてゴメンね。でも、きっと知央の人生にとって必ずプラスになる事だから」

 

 そう言った母に、僕が何の反論ができるものか。

 大学に行ける。


 家業を継ぐことを拒絶され、大学に入って好きな勉強を続ける事に目標を変えた僕が、その事実に抗う事は難しくなっていたのだ。 


 それなのに僕は母の前では恰好を付けたがる。


「本当は、断られたけど、僕はお父さんのこのお店を継ぎたいんだ」


 母はいつになく冷静に僕に語りかけた。


「そりゃあ、あんたがそう言ってくれるのは嬉しいけどさ。考えてみなよ。今、時計はインターネットで気軽に買える。人が減っている小さな町でこの商売をやり続けるのは無理だとお父さんは思っているんだよ」


「お父さんはこの先どうするつもりなの?」


「お父さんは、自分で時計工房を持とうと思ってこの店を始めたんだよ。いつか自分の工房で作った時計を売るために」

 全くの初耳だった。


「思ったよりお金が貯まらなかったんだよ。それに食べていくには大手会社の時計を売るのが手っ取り早いのさ。お父さんは『時計屋は畳む。それで元の会社に戻る』って。熟練工が居なくて困ってるんだって」

 

 いつも無口で、冗談の一つも言わない父がそんな夢を持っているなんて。

 父の人生は、僕が大学に行くことで終わっていい訳はない。


「出戻りができるのはいい話だけど、父さんの夢はどうするんだよ‼」

 思わず僕は叫んでいた。


「違うよ知央ともお。お父さんの夢はね、あんたが大学を出て好きなことをする事なんだよ」


 母が言った言葉はさらに僕を責めているように思えた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 そんな母の言葉を思い出して僕は野方の六畳一間の安アパートで独り、溜息をついていた。

 あの日以来、僕が大学生になって何を目標に勉強を続けるべきかずっと考えていた。

 今の父の夢は僕が大学に行くことなのかもしれないが、僕の夢は父が昔夢見た時計工房で父の腕を存分に活かしたオリジナルの時計を作る事。


 いままでぼやけていた考えが、僕の頭の中で一つの像を結んだ瞬間、僕は決心して父に電話を掛けた。


「父さん、話があるんだ」


 父さんの作った飛び切り凄い時計を、この僕が売ろう。

 そのために費やす四年間は決して無駄にはならないだろう。


「父さん、それが僕の夢になったんだ。それまで待っていてくれるかな?」

 

 父は黙っていた。もともと無口だが、いつもと同じように。

 でもいつもと少し違ったのは、電話口で啜り泣きをしているような音が聞こえて来たことだった。

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