三、キャンバスの絵

 案内された居間には、テレビの反対側の壁に布をかけたキャンバスを立てかけてあった。キャンバスから少し離れたところに、デスクトップのパソコンがある。

 高崎が絵を描いていることやパソコンを使っていることに、ヤスシは驚いた。キャンバスに描かれているのが、どんな絵なのか、気になりながら座布団に正座する。

 居間の向こうのドアが開く音が聞こえた。高崎が居間に向かってくる。ヤスシは、姿勢を正し居間の入り口をみつめた。

 高崎はヤスシの顔をちらりとも見ずに、キャンバスにかけられた布を取り払い、キャンバスに向かった。暫く絵を眺めていた高崎は、パソコンを立ち上げる。

 モニターには、この町を囲む山の秋の風景の写真がうつしだされている。高崎の描いたものよりも、紅葉が少しだけ少なく見える。空の青と、ところどころに見える紅葉のバランスは、高崎の構図の良さを感じさせた。

「秋だからといって、山の木々すべてが紅くなるわけじゃないんだ。山の秋は、年によって違う。写真を撮った時の山と自分の目で見た山が同じに見えないのはどうしてだろうな」

 高崎はようやく、ヤスシの方を見た。

「同じ景色でも、見る人やそのときの感情で印象が違うから、写真に残しても絵で残しても、納得できない。ヤスシ、お前ならどうする?」

 高崎は、言葉を選びながらゆっくりと話す。

 ヤスシは、キャンバスとパソコンのモニターを見比べる。

「水彩にしか出せない色、油絵でしか出せない色があります。パソコンで水彩風に加工しても同じようにはなかなか作れません。違って当たり前だから、別の作品だと思うようにします。自分の目で見たものは、自分の記憶にしかとどめておけません」

「そうだな。真実は、見る人の視点によって違うものだな。うん」

 高崎のその言葉は、自身の罪に対して言っているのだとヤスシは思った。

 ちゃんと話そうと口を開けたとき、高崎は、「腹が減ったな。カレー食うぞ。久しぶりだろう?」と言いながら、がははと明るく大きな声で笑った。

 高崎の妻が、カレーライスをいれた皿を運んでくる。三人が向かい合って座ると、高崎はにこやかに言う。

「じゃあ、食うぞ。いただきます」

 高崎の言葉に続いて、ヤスシも「いただきます」と言った。高崎の妻も同じタイミングで言っていた。

 ヤスシは、スプーンを持つ手を震わせながら、ゆっくりと味わいながら食べる。

 これを食べられるのは、最後だ。

「あら、福神漬け忘れてたわ。すぐそこのスーパーに行ってきますね。カレー、たくさんあるから好きなだけ食べてて」

 高崎の妻が出て行く。

 気を利かせたのだとヤスシは思った。

 高崎は、一人の警察官としてヤスシの告白を聞かなくてはいけない。そこに少しの情が入らないようにするため、高崎の妻は席を外したのだろう。

「この町を出てからずいぶん経つが、今までどうだった?」

 高崎の表情は、警察官というより父親のようなそれだった。

 ヤスシは、この町を出てからどうしていたかをどう言えばいいのか悩んでいた。

 頭の中でうまくまとまらないけれど、高崎なら自分の話をちゃんと聞いてくれるだろうと、過去を振り返りながら話し始めた。

「仕事はうまくいかないことばかりで」

 初めての職場は、小さな出版会社だった。そこでヤスシは、デザインの仕事ではなく校正係として働いていた。

 誰かが作ったものを眺めては、自分ならどうデザインするだろうとそればかり考えてしまい、本来の仕事のミスを何度もした結果、四ヶ月でクビになった。人とのコミュニケーションがうまくできないのも、まずかったのだろう。我慢していれば、いずれデザインを任されたかもしれなかった。

 それからしばらくは、派遣会社に登録して軽作業の仕事を半年ごとにしていた。契約更新されないのは、ヤスシにとっては、有り難かった。キリが良いところでいつか必ず、デザインの仕事をすると決めていたのだ。

 給料の使い道としては食費を削り、デザインの勉強をするためにパソコンを買った。パソコンを触れないと、雇ってもらえないからだった。

 いくつかデザイン事務所の面接を受けていたが決まらないでいた。

 仕事が終わった後、自分でテーマを作り広告を自作した。ポートフォリオがないと売り込めないとわかったヤスシは、寝る間を惜しむように作成していった。

 派遣の仕事を始めてから二年後、今の職場の面接にポートフォリオを持ち込み、それが認められ採用された。

 しかし、ヤスシは要領が悪かった。クライアントが望むものと、自分が作りたいものがかみ合わない。

 自分のデザインに自信がなかったヤスシは、クライアントに言われるがまま望まない仕事をして、一度胃潰瘍で倒れたことがあった。

 そこまで話したところで、高崎は「大変だったな」と言った。

「自然の色も思うように再現できない。自然を相手にすると、人間を相手するよりも難しい。人間相手だとやりすごす術を学べば幾分か楽に生きていける。真面目なヤスシは、全部を真正面から受け止めてしまうんだろう」

 ヤスシは、高崎の言葉を頭のなかで反芻する。

「やりすごせばいいような言葉すらやりすごせなくて、俺は、堪えられず上司を殺してしまったんです。すぐに救急車呼んで、警察にも自首すべきだった。逃げるのは悪いことだとわかっていたんです。ただ、どうしても、高崎さんに話を聞いてもらいたくて、ここに来てしまいました。俺はここで自首します」

 ヤスシがそこまで言うと、高崎は首を横に振る。

 ヤスシは「どうしてですか! 今すぐ逮捕してください!」と珍しく声を荒げた。

 高崎は「ヤスシの上司は、亡くなっていない。命に別条はない。これは不幸中の幸いというのは、よくない表現だろうが」と言ったあと、「警察官として失格だな。一人の人間として、ヤスシをよく知る父親代わりとしての自分が邪魔をする」と、顔をゆがませた。

「この絵を完成させたい。ヤスシのこれからを支えるような絵にしたいんだ。完成するまで付き合ってもらえないか」

「どうして。そんなことしたら、高崎さんは」

 高崎は、首を横に振る。

「ヤスシが町を出てから、連絡を怠っていた。不器用なやつだとわかっていたのに。まめに連絡していれば、こんなことにはならなかったかもしれない。警察官としても一人の人間としても失格だ。幸い、蓄えはあるから辞表を出しても生活に困ることはないし、何とでもなる。この絵をヤスシと作りあげたら、一緒に署に行こう」

 ──大事な人の人生を台無しにしてしまう。それは避けたい。

 ヤスシは立ち上がり、「迷惑かけたくないです。別のところで自首します」といった。


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