第20話 愛してる


 白銀の髪が揺れ、青い瞳が迫る。

 焼けた頬。薄っすらと開いた唇。漏れ聞こえる荒い息遣い。


 身動ぎ一つで、唇同士が触れ合う距離。

 響がスッと瞼を下ろしたところで、俺は「ダメだ」とどうにか絞り出す。


「……何がダメ?」

「だ、ダメなもんはダメだ」

「綴とはしたのに?」

「あれは事故みたいなもんだろ!?」

「……じゃあ、僕とするのも事故みたいなもんだよ」

「そんなわけないだろ! もっと自分を大事にしろよ! そういうのは好きな相手と――」

「渚だよ」


 俺の言葉を遮り、凛とした声を返した。

 真っすぐ、淀みなく、俺を見つめたまま。


「僕も、綴も、渚のことが好き。ずっとずっと、ずーっと前から、好きなんだよ。渚は僕たちのこと、嫌い?」

「好きだけど……! だって俺たちは、幼馴染で……!」

「僕たちの好きは、がしたい好きだよ」


 床に垂れていた俺の手を取り、自身の脇腹に押し当てた。

 シルクのように滑らかで、やわらかく、温かい。否応なく手の方へ視線が行き、そのまま上へと流れ、視線に気づいたのか響は「見過ぎっ」とはにかむ。


「……でも、いいよ。見たいなら、見ても。渚だから……全部全部、嬉しいんだよ?」

「いや……お、俺は……っ」

「今付き合ってる人とか、他に好きな人がいるの?」

「……いない、けど……」

「僕たちのこと、そういう目で見れない?」


 俺は首を横に振った。


 ここまでされたら、響と綴がどういう感情を抱いているのか、流石の俺でも理解できる。


 ……というか、たぶん、ずっと前からわかっていた。

 わかっていて、気づかないフリをしていた。


 二人の好きは、友達同士で使うような軽いものではない。


 自分の全部を捧げてもいいという、好き。

 俺の全部が欲しいという、そんな好きだ。


「どうしても無理なら諦める。幼馴染のままがいいって言うなら、僕たちそうするよ。全部忘れて、今まで通り楽しく暮らそ」


 そう言って、ニコリとハリボテのような笑みを浮かべた。「正直に言って」と、綴も同じように笑う。


 違う。

 嫌だ。


 俺は二人に、そんな風に笑って欲しくない。


 二人が望むのは、今よりも一歩進んだ関係。


 常識的にも、倫理的にも、問題がある。

 でも、そこへ行くことで二人が喜ぶなら、極力寄り添いたい。今すぐは無理かもしれないが、全力で応えたい。


 でも――。


『あんたみたいな出来損ない、誰が好きになるの?』

 

 の声がする。

 ムカデのように、ずるずると頭の中を這う。


 二人と手を繋いで進んだ先で、俺は嫌われてしまうのではないか。

 全部一切合切何もかも、消えてなくなってしまうのではないか。

 俺のせいで、二人を不幸にしてしまうのではないか。


 冷たい記憶が、心を内側から侵した。

 不安という不安が降り積もり、唇が震えて目の焦点が定まらない。


「ど、どうしたの? 渚、大丈夫?」

「……二人の気持ちには、応えたい、けど……」

「けど?」

「あっ、あぁ、その……俺、出来損ない、だから……」

「えっ?」

「出来損ない……なんだよ。それで、その……二人には、相応しくないっていうか……」


 自分の意思なのか何なのか、いつの間にか俺の口はそんな言葉を吐いていた。

 二人は顔を見合わせ、途端に真剣な面持ちを作り俺を見つめる。



「……それ、に言われたの?」



 響からの問いに、俺は何も言うことができなかった。


 小学校時代の記憶。

 あいつから――母親から暴力を振るわれ、口汚く罵られ続けた日々。


 何度も、何度も、何度も。

 朝も夜も関係なく、毎日ずっと。


 あれは過去のことで、もう俺の人生にあいつはいない。

 なのに、いまだにあいつは頭の中に居座っていて、あの頃と同じように俺を睨みつけている。


「な、渚は……! 出来損ないなんかじゃ、な、ないよっ! 勉強も、が、頑張ってて! 料理だってすごくて! わ、私たちのこと、いっぱい大事に、してくれるのにっ!!」


 綴は忌々しそうに舌打ちをして、声を荒げながら床を何度も叩いた。

 それを横目に、響は腰に当てていた俺の手を再び取り、ギュッと固く握り締める。


 そして言葉もなく、ふっと俺の唇に自分のを重ねた。

 ただ触れ合わせて、離れるだけ。


 一秒にも満たない行為を終えて、彼女は穏やかに微笑む。


「辛いこと、忘れられないんだよね。わかるよ、その気持ち。……けどね、ここには渚に痛いことしたり、酷いこと言う人はいないから。それに出来損ないっていうけど、渚、十分過ぎるくらい優秀じゃん」

「そんな、ことは……」

「謙遜のし過ぎは逆に嫌味だよ。まあ確かに、音痴って点では完璧じゃないかもだけど」


 和ませるように、ふふっと鼻を鳴らす。

 綴も口の端を緩めて、「だね」と同意する。


「でも、できないことがあるからって、それが何なの? 渚のカラオケの点数が低いからって、僕たちが不幸になるとか思ってる?」

「……い、いや……」

「僕たち三人一緒なら、何でもできるよ。渚の辛かったことも、嫌だったことも、全部帳消しにできちゃうよ。僕も綴も、渚が笑ってくれるなら何でもするもん」


 「ね?」と綴に目を向け尋ねた。

 彼女は何度も頷く。俺のことを想ってか、両の瞳に涙を浮かべながら。



「「渚」」



 二つの声が重なり。

 綴も響と同じように、俺の手を取った。


 それぞれの体温が心地よくて、いつの間にか唇の震えがおさまっていた。

 頭の中を掻き回していたあの言葉も薄れ、今はただ、二人との幸せな記憶が輝きを放つ。それ以外のことなど、何も目に入らない。



「「――ずっと、いつまでも、愛してる」」



 映画やドラマではよく聞く台詞。

 他人が言われているところを見ても何とも思わないが、いざ自分に向けられてみるとまったく違う感覚に襲われた。


 好きとは違う、もっと深いもの。

 重くて、熱くて、眩しいもの。


 それは胸の奥まで入り込み、染み渡り、ぽっかりと空いていた何かを埋めた。

 ずっと欲しかったものだったような気がして、満ち足りた気分が目頭に火を灯す。


 と同時に、急に頭がボーッとしてきて。

 何だかズキズキと痛みが……ん?


 い、痛み?


 ……え? あれ?


 何か……い、意識が……。


「渚っ!?」


 最初に声をあげたのは綴だった。

 空いていたもう片方の手で、俺の頭に触れた。すると鋭い痛みが走り、頭から離したその手にはべっとりと血がついている。


「うわぁー!? 渚、しっかりしてー!!」

「ひ、響、救急車!! 救急車、よ、呼ばないと!!」

「えっと、えっとえっと! 110だっけ何だっけ!? あぁもうわかんないよ!!」

「ダメ……だ、ダメだよ渚っ、死んじゃダメ!! ダメー!!」

「……死なないから、は、早く救急車を……」

「「うわぁああああ!! 渚ぁああああ!!」」

「早く……救急車を……っ」


 どうやら綴を助けた時、頭を強く打って怪我をしたらしく。

 程なくして俺は病院に運ばれ、今日一日、入院することになった。





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