第14話 出来損ない


 赤と青の瞳に、自分の顔が映る。

 二人の瑞々しい唇を交互に見て、ダメだダメだと首を横に振って。しかし手足は糸に引っ張られるように動き、前へ進もうとベッドのシーツを掴んだ。


 肺を満たす甘い空気。

 頭の中がチリチリと焦げて、視界がぼやけ、正常な判断能力を奪う。


 今の俺は、ウツボカズラに吸い寄せられるハエも同然。

 あそこへ行って、落ちてしまえばおしまい。そうとわかっているのに、身体は止まることを知らない。


「「……っ」」


 二人はもう、手を伸ばせは届く距離だ。


 響は身体を起こし、綴はぱちりと瞬く。

 そしてお互いに一瞬視線を交わし、揃って瞼を落とす。


 息を飲むほどに美しい、同じ顔が二つ。


 それぞれの頬に触れて、親指の腹で目の下あたりを撫でた。

 陶器のように滑らかで、きめ細やかな、これまたまったく同じ感触。

 このまま力任せに、身勝手に、自分だけのものにしてしまいたい衝動が理性を粉砕する。


 ――だが。


 不意にを思い出し、崩壊しかかっていた自制心が再び自分の足で立った。


 二人の後頭部に手を回し、優しく引き寄せて額に唇を落とす。

 ふっと僅かに触れて、離すだけ。


 それでもキスに変わりはない。


「「むー……っ」」


 不満げに頬を膨らます響と綴。

 俺は目を逸らし、コントローラーを手に取る。


「……違うじゃん」

「何が違うんだよ」

「ち、違う……違うよ、今の……!」

「だから、何が違うんだ」

「「……」」

「に、睨むなよ。ちゃんとしただろ?」


 ジトッとした目で俺を見るが、続く言葉はない。

 やることはやった。その事実に違いはないため、文句を言おうにも絞り出せないのだろう。


「それよりお前ら、大丈夫か?」

「「何が?」」

「前見ろよ、ほら」


 命令をこなしたあと、何の意味もなくコントローラーを握ったわけではない。

 二人の意識が逸れているのをいいことに、俺は勝手にレースを始めていた。「卑怯だよ!」と響は絶叫するが、残念だったな、これが反則だってルールはどこにもないんだよ。


「うわっ、えぇ! 渚、早過ぎないっ!?」

「どこで、そ、そんなテクニックを……!」


 姑息な手を使ってスタートダッシュを決め、更に先の四試合で得た二人のコントローラー捌きを活用し、ぐいぐいと距離を離してゆく。


 俺だって、ただ負けていたわけではない。

 響のような人脈はないし、綴のようなセンスもないが、見て聞いて覚えるだけならできる。付け焼刃の技術でも、卑怯との合わせ技ならいくらか発言権を持つ。


「よーし、俺の勝ちだな」


 最後は危ない場面もあったが、どうにかこうにか一位でゴール。

 二人から敵意剥き出しの刺々しい視線を浴びるも、素知らぬ顔を決め込む。


 俺だって本当はこんな手を使いたくなかったが、こればかりは仕方がない。

 絶対に通したい命令があるのだから。


「ひ、響……もしかして渚、わ、私たちに……すごいこと、させたいんじゃない……?」

「すごいこと? 何それ?」

「何って……だ、だから、口じゃ言えないこと、とか……」

「……」

「こんな、ひ、卑怯なことまでして、勝つとか……ぜ、絶対そうだよっ。私たちのこと、め、メチャクチャにしたいんだ……っ!」

「……ほほう?」


 身を寄せ合って内緒話をする二人。

 不意にこっちを向いて、ニマニマと妖しい笑みを浮かべる。


「私たちに……なに、させたいの……?」

「……僕たち、何でもするよ?」


 熱っぽい空気を身に纏い、ジリジリと距離を詰めてきた。


「「渚」」


 同時に俺の太ももに手を置いて、飼い主に甘える猫のように身を乗り出す。


「「早く命令、ちょーだい?」」


 蠱惑的な声音に、ゴクリと唾を飲んだ。

 頭の中に口では言えないような命令の数々が浮かぶも、それらを振り払って咳払いする。


「……俺の命令、何でも聞くんだな?」


 その問いに、二人は同時に頷いた。

 何かを期待する眼差しを、俺に向けて。


「じゃあ……今後一切、こういう罰ゲームは禁止だ」

「「え?」」

「いやだから、普通にゲームしようって言ってるんだよ。ほら、続きするぞ」

「「……」」

「な、何だよその顔。俺の命令、何でも聞くんだろ?」


 苦手な野菜を無理やり食べさせられた子供のような、苦々しく恨めしそうな顔。

 二人は顔を見合わせて、ドッとため息をつく。……俺が悪者みたいな空気出すのやめろよ。罰ゲームがおかしな方向に進んでたから、わざわざリセットしてやったんだぞ。


「……まあでも、いっか」

「おでこ、だけど……ちゃんとしてもらったし、ね……」


 ふんふんと二人は頷き合って、コントローラーに手を伸ばし意識をゲームに戻した。




 ◆




 時刻は午前二時過ぎ。


 流石に体力が尽きたようで、響と綴は同時に寝落ちしてしまった。

 リモコンを弄ってプロジェクターをオフにし、両隣の二人に目をやる。


「よく寝てるなー……」


 本業の音楽活動はもちろん、テレビの撮影や雑誌のインタビュー、ラジオ出演にイベントのゲストなど、ここ最近は本当に大変そうだった。疲労が溜まって当然だ。


 明日は何か、精のつくものを作ろう。

 ついでにここ最近練習していた、ふわふわで分厚いパンケーキを振る舞うのもいい。


「……さてと」


 三人で寝ようと言われていたが、前は仕方がない状況だっただけで、通常時にそんなことをするのは不健全だ。明日、起きた時に文句を言われるかもしれないが、それでも自分の部屋に戻らなければ。


 こっそり、ひっそり。

 前と同じように、息を殺してベッドからの脱出を試みる。


 だが、それを見越していたかのように、二人は俺の服を掴んでいた。

 ……実は起きてる、とかじゃないよな?


 一抹の不安を覚えつつ、どのようにして拘束を逃れるか考える。

 サッと振り払うのは容易いが、そんなことをしたらきっと起こしてしまう。このまま自然と離すのを待つべきか。……俺も早く寝たいのに、困ったな。


「んぅー……ぅう……」


 響が唸り声をあげながら、もぞもぞと身体を動かした。

 俺の服をより強く握り締め、軽く引っ張る。それに呼応して、綴も同じように身動ぎして服を握る手に力を込める。


「僕たち……ずっと、一緒にいるよ……」

「……一人にはしない、から……」


 鼓膜を僅かに揺らすほどの、か細く小さな寝言。

 少し前、響が体調不良で仕事を休んだ日も、二人から同じようなことを言われた。


 ただ自室に戻るだけとはいえ、今まさに二人を置き去りにしようとしていたせいか非常にバツが悪くなる。


 ……まあ、いいか。

 今夜は俺もここで寝よう。

 このまま一人でベッドに寝転がっても、たぶん罪悪感で眠れないし。


『だ、だから……キス、したい』


 綴の寝顔を眺めていると、つい唇に目が行ってしまい、数時間前の台詞が脳内で再生された。


 悪ふざけにしては度が過ぎている。

 音楽業界って陽キャなイメージあるけど、ああいうことを平気する連中に囲まれて、変な影響受けたとかじゃないよな。もしそうだったら、かなり心配だぞ。


 何にしても、一線を越えなくてよかった。

 偉いぞ、俺の理性。


 ……でも。

 もしあのまま流されていたら、どうなっていたのだろう。


 引っ越して早々に結婚がどうとか言い出したり、所かまわずくっ付いて来たり、キスがどうのこうのと言って来たり、ここ最近の二人は距離感がバグっている。


 あれら全てが冗談ではなく、本気だったとしたら。

 親友としてではなく、本気で俺のことが好きだったとしたら。

 ずっとずっと、俺と一緒にいたいと思ってくれているのだとしたら。



『――あんたみたいな出来損ない、誰が好きになるの?』



 不意に、頭の中での声が鳴った。


 血液が凍ったように指先まで冷え、呼吸が浅くなり、視界が揺らぐ。

 プハッと息を吐き、天井を仰ぎながら空気を吸い込む。いくらか気分がマシになると、妙な期待を抱いていた自分が急に哀れに思えて笑えてくる。


「……バカか俺は。あんなおふざけを真に受けてどうするんだ……」


 そう独り言ちたところで。

 パチリと全く同じタイミングで二人の瞼が開き、「うぉっ」と声が漏れた。


「ど、どうかしたのか?」

「「歯磨き、忘れてた……」」


 同時に言って、のそのそと身体を起こす。

 何だこいつら。マジで脳みそ繋がってたりしないよな。


「……ん?」


 ベッドから這い出て立ち上がったところで、ぬっと身体を捻り俺を見た。


 まだ半分眠ったままの瞳。

 おもむろに手を伸ばし、俺の頭を撫で始めた。右から左から、ぎこちない動きで。


「な、何だよ。寝ぼけてるのか?」

「……何か渚、暗い顔してるし」

「さ、先に寝ちゃって……寂しかったの、かな……?」


 頭をくしゃくしゃに撫でくり回し、二人は満足そうに笑う。


 暗い顔をしていたつもりはないし、寂しかったわけでもない。


 しかし、悪い気はしなかった。

 まともな人間だと肯定されているようで、少し嬉しい。


「渚もちゃんと歯磨きしなきゃ、虫歯になっちゃうよ」

「私が……し、仕上げに、磨いてあげるっ」

「俺はあとでいいよ。三人で洗面台使ったら狭いだろ」

「「早く行こ」」

「……は、はいはい。わかったよ」


 圧に負け、二人に手を引っ張られながら部屋を出る。

 その手はとても温かくて、やわらかくて、自然と頬が緩んだ。

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