第10話 オムハンバーグカレー
「うわっ」
エレベーターが開き、ここの住人と思しき男性が出てきた。
彼は俺の姿を見るなり声をあげ、足早に横を通り過ぎてゆく。
それもそうだろう。
白いシャツがコーヒーで台無し。臭いだってするし、気にならない方がおかしい。どうせなら水にしておけばよかったと、今になって少し後悔する。
でも、仕方がない。
あの二人の、自分たちは許されて当然だ、謝罪するだけまともな人間だという態度のせいで、頭の血管がはち切れそうだった。
怒りをなだめつつ、響に危害が及ばない形で逃げ出す手段を考案するので精一杯で、水とかコーヒーとか気にする余裕がなかった。
……しかし、三万円か。痛い出費だ。
おまけに店に迷惑かけたし。清掃代、あれで十分だったかな……。
きっと他に、もっといい案があったはず。
自分の機嫌を取ることにリソースを割き過ぎて、それを思いつけなかった俺が悪い。
「帰ったらシャワー浴びないとな」
呟いて、エレベーターに乗り込む。
と、その時――。
いきなり響に背中を強く押され、隅へ追いやられた。
訳がわからず振り返ると、彼女はツカツカと距離を詰めて来て、俺の肩に手を置き壁に押し付ける。
「……ひ、響……?」
息を呑むほどに整った顔が、すぐそばにまで来ていた。
青い双眸の中で熱いものが揺らめき、俺を捉えて離さない。
匂い立つような色気。
彼女は俺の問いかけに答えず、肩に置いた手に力を込めてつま先立ちをする。
「――――っ!?」
ふっ、と。
ほんの一瞬、響の唇が俺の首筋に触れた。
突然の行動に俺は言葉を失い、どうリアクションを取ればいいのかわからなくなった。
彼女は依然として俺を見つめており、そこらを軽く走ってきたように息を切らしている。
「……よ、汚れてる、から……」
絞り出すように言って、大きく息を吸う。
「コーヒーで……汚れてるから、と、取ろうと思って……」
「……そ、そっか」
そのためにどうして唇を使ったのかはわからないが、今の俺にそんなことを尋ねる余裕などなかった。
まだ首に残る、温もりと感触。
心臓の音がうるさくて、上手く思考がまとまらない。
眼前の親友に対し、綺麗とは言い難い感情が湧く。
手を伸ばそうとする衝動が、理性を食い殺そうとする。
「……も、もう一回」
「えっ?」
「まだ……よ、汚れてるし……っ」
「ちょ、ちょっと待――」
俺の声を振り切り、再び頬に彼女の体温を感じた。
潤んだ瞳で俺を見つめ、何かを我慢するように奥歯を噛み締めて、もう一度首筋に唇を落とす。
「……渚っ」
俺の名を囁き、縋りつくように唇を押し付けた。
「渚ぁっ……♡」
普段の低い声からは想像もできない、甘く媚びる声。
自分の服が汚れ臭いが付くこともいとわず俺の身体に腕を回し、首筋に顔をうずめる。
こういう時、どうすればいいのかわからない。
そもそも、どうしてこうなったのかわからない。
ひとまず、離れてもらわなければ。
そう思った矢先、彼女は嬉しそうに俺を見上げて白い歯を覗かせた。その表情があまりにも可憐で、美しくて、ずっとこのままでもいいのではと思えてしまう。
「……あっ」
エレベーターの扉が開き、到着を待っていた人と目が合った。
カーキのボトムに、黒のTシャツ、白のニットボレロ。洒落た丸いサングラスの奥の瞳は、俺たちを見てぱちくりと瞬く。
振り向いた響は「ひっ」と声を裏返らせて、凄まじい速度で俺から距離を取る。
「……――なに、してたの?」
そこにいたのは、綴だった。
長い黒髪を頭の後ろで纏めており、耳を飾るピアスたちがギラリと輝く。赤い双眸が放つ激しい眼光に、響はだらだらと額から汗を流す。
「また、抜け駆け……?」
その問いかけに、響は観念したように顔を伏せた。
俺を一瞥して、エレベーターから出て綴と向き合う。ずっと乗っていても迷惑なため、すぐさま俺もあとを追う。
「……ごめん。渚に助けられて……こう、感極まった、的な……」
「助け、られた……?」
「ちょっと、まあ、説明が難しいっていうか。……怖くて、辛くて、苦しかったの、渚が何とかしてくれたんだ」
たどたどしく言って、難しそうな顔で俯いた。
綴は無表情のまま視線だけを動かして考え込み、脳内の整理がついたのか響の頭をそっと撫でる。
「よくわからない……けど、が、頑張ったね……」
優し気な声に、響はハッと目を剥いて顔を上げ恥ずかしそうに頷いた。
綴が姉で響が妹なのだが、大抵の人は逆だと思うだろう。実際、綴は響の意見にまず反対しないし、Amazoraの活動においてもほぼ響の言いなり。姉らしさがまるで感じられない。
だが、俺は知っている。
しっかりしているように見えて脆い響を、いつだって支えているのは綴だ。
「……でも、一緒じゃなきゃ、だ、ダメだよ」
「わかってる。ごめん、本当に……」
「気にしないで。……私も、するから」
ボソボソと密談を交わし、綴は俺を見るなりフンスと鼻息を荒げた。
嫌な予感がして後退るも、服を掴まれ呆気なく御用となる。
「響のこと……た、助けてくれて、ありがと……」
「あ、あぁ。別にたいしたことはしてないけどな」
「……コーヒーでも、こ、こぼしたの?」
「こぼしたっていうか、かぶったっていうか……まあ、そんなとこだ」
「そ、そっか。じゃあ……」
かけていたサングラスを取り、シャツの襟元にかけた。
ルビーのような瞳に妖しい光を宿して、恍惚とした表情で舌先を覗かせる。
「……綺麗に、しないとね……♡」
「待て待て! それは絶対におかしい――」
言い切るよりも先に、響が触れていたところと反対側の首筋に唇を落とした。
何度も、何度も。
アイスクリームでも食べるように、唇で食む。
響よりも遠慮がなく、加減もなく、熱烈で、こそばゆさと心地よさに膝が笑う。
「……響も、おいでっ」
「……っ! う、うん!」
ジッと立ち尽くしていた響は、綴の呼びかけに明るい声を返し俺に近づいて来た。
おいで、じゃないが。おいでじゃ。
右から左から甘い熱に犯され、俺の頭はパンク寸前。
視線を下へやれば暴力的な美貌が二つ並んでおり、このまま身を任せたい自分と、意味不明な現状を打開したい自分とがしのぎを削る。
「お、お前ら……こ、ここ、まだ廊下だから……!」
「「部屋ならいいの?」」
「そ、そういうわけじゃ――」
「「どこならいいの?」」
「どこって……それは……!」
タイミング悪く、ドアノブを捻る音が聞こえた。
誰かが部屋から出て来る。こんなところを見られたら、どんな顔をされるかわかったものではない。
かといって、二人を突き飛ばすわけにもいかず……。
俺は逆に二人の後頭部に手を回し、思い切り抱き寄せた。突然のことに驚いたのか揃って声を漏らすが、それを無視する。
そして、住民が部屋から出てきたタイミングを見計らい、
「す、すごいな二人とも! やった、合格だ! やったー!!」
何に合格したのか俺もわからないが、めでたいことがありはしゃいでいるフリをした。
部屋から出てきた中年女性は、俺たちを興味深そうに見つつも、それ以上のリアクションはなくエレベーターに乗って降りてゆく。
……はぁ、やれやれ。
どうにか危機を乗り切り、二人を解放する。
「ご、ごめんな。いきなり抱き締めて。痛くなかったか……?」
「「……」」
力任せにやったため、痛くないわけがない。
そのためか、二人は少し顔を赤くして黙りこくっている。
「痛かったけど……ねえ、綴?」
「う、うん……そう、だね……」
「え? いや、何が?」
「「悪くなかった」」
「だから何が!?」
二人の間でだけ通じる、テレパシーじみた謎の言語。首筋を攻撃されたことといい、もう何が何だか。
色々と刺激が強過ぎて、寝不足なのもあってか、少し頭痛がしてきた。
「っていうか綴、何で家にいるの? 今朝、僕たちよりも早く仕事行ったよね?」
「……ちょっと用事、あって。す、少しだけ、帰って来たの」
「用事って?」
ニヤリと白い歯を覗かせて、「内緒」と呟く綴。その妖しい表情を不審に思いつつ、俺はエレベーターのボタンを押す。
……にしても何だ、この二人の距離の近さは。
久々の再会にはしゃいでいるだけ、では説明がつかないような気がする。
俺が二人を男だと思っていたみたいに、二人は現在進行形で俺を女だと思ってるとか? いや、そんなわけないか。バカバカしい。
「……な、なあ」
「「ん?」」
さっきみたいなことは彼氏とやれよ、と言いかけて。
心がざわつき、「ごめん、何でもない」と誤魔化した。
二人に恋人ができたという話は聞いたことがないが、もしそうなれば、これまで通り俺と付き合うのは難しくなるだろう。少なくとも、ルームシェアなど続けられるわけがない。
……それは困る。
というかぶっちゃけ、すごく嫌だ。ずっとずっと、一緒にいて欲しい。
二人の人生に口出しをする立場にないのに、誰よりも幸せを願うべきなのに、そんな自分勝手なことを考えてしまう。
どうしようもないな、俺は。
これじゃあ、
「渚、大丈夫?」
心配そうに眉を寄せる響。
つられて綴も、同じような表情を作る。
「大丈夫って、何が?」
「難しい顔してるし。困り事でもあるのかなって」
「……き、気にするな。たいしたことじゃないから」
そう言うと、二人は顔を見合わせて無言の会話を繰り広げ、程なくしてコクリと頷きこちらに近づいて来た。
「よくわかんないけど、気軽に相談しなよ? 僕たち渚の味方だし、ずっと一緒にいるから」
「も、もう……二度と、一人にはしないから、ねっ」
二人はそれぞれ俺の右手と左手を取って、ニッと少年のような笑みを浮かべた。
その眩しさに俺は目を細め、少し恥ずかしくなって視線を落とす。
こうやって手を握られて勇気づけられたことが、子供の頃にもあった。
あの時は本当に嬉しくて、心強くて……。
何があっても、響と綴を大切にしようと誓った。
今も昔も、二人は変わらない。
俺のことを一番に考えてくれて、手を握ってくれる。
「いやー……まあ、たいしたことじゃないんだ。今朝料理作ったら、すごく喜んでくれただろ? だから、今夜も何か作ろうと思って。リクエストとかあるか?」
俺は二人を大切にすると誓った。一つでも多く幸せにすると胸に刻んだ。
だったら考えるべきは、どうすれば二人を笑顔にできるか。恋人云々など、俺が気にしたって仕方がない。
「えーっ、どうしよ! 綴は何がいい?」
「私は……な、渚の手料理、なら……何でも……」
「だったら僕、ハンバーグ! あっ、カレーも捨てがたい……いやでも、オムライスもありか……?」
「一つにしないと……渚、た、大変だよ?」
「よし、オムハンバーグカレーにしよう! 僕、天才じゃん!」
夏の空のように晴れ渡る、響の青い瞳。
子供だなぁと息をついて、綴に目をやる。
「明日は綴の好きなエビチリにするか。ちゃんとしっかり辛いやつ。響には甘口の用意するよ」
「い、いいの? 揚げ物……大変、じゃない?」
「遠慮せず甘えていいんだぞ。大体面倒さで言ったら、オムハンバーグカレーの方がよっぽどだし」
「そうそう。綴は変なとこでいい子ちゃんぶるんだから困っちゃうよ」
「お前はもうちょっと遠慮しろ」
べしっ、と響の頭に軽くチョップした。
彼女は大袈裟に痛がり、それを見て綴はコロコロと笑う。
……うん、これだ。
これがいい。
この幸せを守れるなら、俺は何だってできる。
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