第6話 ぐちゃぐちゃに愛して


「おい、何かしゃべってみろよ!」


 夢を見た。


「うわぁ、気持ちわりぃー!」


 酷い夢を見た。


「モンスターだ! たおせー!」


 本当に、本当に。

 酷い夢を見た。


 風邪を引いた夜はいつもこうだ。

 小学生の頃の記憶。思い出したくもない日々の巻き戻し。吐き気を催す毎日。


 夢だとわかっていても、胸がズンと重くなった。

 早く覚めてしまえと願うほどに、心無い罵詈雑言が響く。耳を塞いでも頭の中へぬるりと入り込み、楽しそうに悪意を撒き散らす。


 もうやめて。

 許して。


 そう願うほどに声はどんどん大きくなり、心臓が冷たい汗をかいたように縮み上がった。


 どうにもならず、うずくまることしかできず、ただ心を殺して耐えていた時、温かい誰かの手が僕に触れた。途端にあれだけ煩かった声は失せ、僕はその手に縋り引き寄せる。


「――大丈夫か、響。うなされてたけど」


 気がつくと、渚が僕の手を握っていた。


 時刻は午前三時過ぎ。

 常夜灯が照らす薄暗い部屋の中で、彼はスマホを片手に心配そうな顔でベッドのフチに座っている。


「ちょっと触るぞ」


 ゴツゴツとした厚い手が、僕の額に触れた。

 その体温と感触が妙に嬉しくて、唇が勝手に綻ぶ。そんな僕を見て、「何笑ってるんだ?」と渚は怪訝そうに眉を寄せる。


「熱は引いてるな。たぶん、仕事とか引っ越し作業で疲れてたってのもあるんだろ」

「……うん」

「でも、油断したり調子に乗るなよ。しっかり休むんだからな」

「……うん」


 僕の頭をわしゃわしゃと撫でて、スマホに目を落とした。

 画面の白い光が、彼の表情を照らす。


 何を見ているのかはわからないが、とても真面目な顔だ。

 この顔が好きで、たくさん見たくて、何年か前はよく勉強を教えて欲しいとお願いして、カメラをつけながら通話した。迷惑だと思ってやめたけど。


「あ、ごめん。眩しかったか?」

「え? あぁ、ううん。何見てるのかなーって」

「小説だよ。好きな作家の新刊が出ててさ」


 画面を見せてもらったが、文字でビッシリと埋まっており眩暈がした。よくもまあ、そんなものを夜中に読める。


「……本当に寝ないでそばにいてくれたんだね」

「響がそうしろって言ったんだろ」

「そうだけど、眠くないの……?」

「罰ゲームで泣かれるってわかってたら、眠気なんて吹き飛ぶよ」

「あんなの冗談に決まってるじゃん」

「じゃあ、このまま俺が部屋に戻って休んでもいいのか?」

「……それは、ちょっと嫌、だけど……」


 自分の中の子供な部分を引き出され、恥ずかしくなり布団で口元を隠した。「だったら俺は帰れないな」と、渚は仕方なさそうに笑う。


 お前の気持ちなんてお見通しだ、と言いたげな顔だ。


 そうさ、その通り。

 僕はわかりやすい女だ。Hibikiとしての王子様的な演技も、渚には通用しない。彼の前では、思っていることがすぐに顔に出る。そこは認める。


 ……でも、だったら。


「好きってことにも気づけよ、ばか……っ」


 その声は分厚い布団に吸収され、外へ漏れることはなかった。


「眠れそうにないなら、ホットミルクでも作ってこようか?」

「それはいいかな。代わりに、子守歌うたってよ」

「プロの歌手の前で歌うとか、ほぼ拷問だろ。ただでさえ俺、音痴なのに」

「じゃあ、添い寝で許してあげる」

「……そ、添い寝?」


 当然、何でもない冗談だ。

 添い寝に対しそれなりに憧れはあるが、僕を女の子だと認識した以上、渚にそんなことをする度胸があるとは思えない。


 なんてね――と。

 ネタばらしをする前に、渚が意を決した顔でいそいそと布団に入って来た。


「っ!?」


 驚きで声も出ず、ひとまず身体を横へ向け壁側に身を寄せた。

 一つまみの嬉しさと、それを覆い隠すほどのとてつもない恥ずかしさに襲われ、彼を見ることができない。


「な、なななっ、なに!? どうしたの!?」

「どうしたもこうしたも、そ、そっちがやれって言ったんだろ?」

「だからって、普通しないでしょ!」

「……えっ。し、しなくてもよかったのか……?」


 青ざめたような、肝を冷やしたような声が、僕の後ろ髪を揺らした。

 これはまずいと瞬時に察し、布団から出て行こうとする彼の手を握り、どうにか阻止する。


 きっと渚は、僕が大きな声を出したせいで、自分はセクハラをしてしまったと勘違いしたのだろう。

 僕のくだらない冗談のせいで、不要な罪悪感を抱かせたくない。


「ご、ごめん。本当にしてくれると思わなくて、ビックリしちゃって。怒ってるわけじゃないからね。むしろ、えっと……う、嬉しいっていうか……」

「あっ……そ、そうか。じゃあ、よかった」


 心底安堵した声を漏らし、もう一度ベッドに身体を預けた。


 ど、どうしよう……。

 どうしよう、これ!?


 実家から持って来た、愛用の枕。

 枕カバーはおろしたてだが、肝心の中身はいくらか年季が入っている。……臭い、とか思われたら軽く死ねるな。


 ってか僕、今日お風呂入ってないじゃん!

 やばい、やばい、やばいって! うわぁああああ!!


 今からシャワーに……?


 いや、絶対に渚に止められる。

 僕としても、せっかく熱が下がったのに悪化するようなことはしたくない。


 ……まあ、いっか。

 慌てたところで、どうにもならない。それに渚だって、体調が悪い人間の体臭など気にしないだろう。……た、たぶん。


「な、なあ」

「ん?」

「手が……そ、その……」


 渚を引き留める際、彼の手を掴んだ。

 そしてその手は、今も握ったまま、僕のお腹の上に置かれている。そのため今僕は、彼に後ろから抱き締められているような形になっているわけで……。


 急激に体温が上がり、頬が一気に熱くなった。

 これではまるで、恋人同士でイチャついてるみたいじゃないか。


 早く彼の手を離さなければ――と思うが、僕の身体は脳の命令に従わない。

 その手を一層強く握る。どこへもやらないように。


「ひ、響……?」


 渚の呼びかけに、僕は何と返せばいいかわからなかった。


 黙りこくっていると、彼は諦めたように息を漏らし、自ら軽く力を入れて抱き寄せた。


 一瞬、声が出そうになった。

 嬉しくて、嬉しくて、堪らなくて。


 変な意味はないとわかっているのに、求められているような気がする。


「……渚、いい匂いする……」


 お日様のような、暖かい匂い。そこにシャンプーやボディーソープなどのフローラルな匂いが混じっており、高い体温も相まって天日干しした布団に包まっているような安心感を覚える。


「……ねえ、渚」

「ん?」

「仕方ないから……もっと、ギュッてしてもいいんだよ……?」

「何がどう仕方ないのか、全然わからないんだが……」

「……」

「……響?」

「……」

「あ、あのー……」

「……したくないなら、別にいいけど……」


 綴ほど大胆にはなれず、しかし引き下がることもできず、我ながら面倒な物言いをしてしまった。


 渚は難しそうな唸り声をあげたあと、こちらの意図を汲み取り腕に力をこめた。うなじに当たる吐息のくすぐったさと甘い窮屈さに、心臓が爆発しそうになる。


 渚の腕に触れて、その体温に心を焦がす。


 ただただ心地よくて、気持ちよくて……。

 この人のことが欲しくなる。


 ぐちゃぐちゃに愛して、愛されたくなる。




 ◆




「それ……抜け駆け、ってやつじゃない?」

「ぴゃああああ!?」


 突然後ろから声をかけられ、響が絶叫した。

 振り返ると、いつの間にか綴がベッドのすぐそばに立っていた。両の瞳は赤黒く輝き、俺たちを忌々しそうに見つめている。


「い、いつの間にいたの!? っていうか、いるならいるって言ってよ!?」

「響が心配で……ゆ、床にお布団敷いて、一緒に寝てた」

「あっ……それは、あ、ありがと。いやでも、起きてたなら早く教えて!」


 響の絶叫を聞き流し、綴は俺の背中を押し始めた。

 「お、おい」と軽く抗議するも、聞く耳を持たない。仕方なく響とより密着すると、綴は空いたスペースに身体を滑り込ませる。


 ……な、何だこの状況。

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