忘れて
地上での日常を繰り返す気にはなれなかった。
地上にでて最初は人魚の兵士としての責務を果たし、いよいよ帰るかという段階になって初めて彼はライリーのもとに向かった。一緒にいようとは思えなかった。一緒にいれば嫌でも別れを惜しむのが分かっていたから。今でも惜しむ心はある。だが、そんなことをいっている場合ではないのだ。
別れなければいけない。今回会えばもう二度と会うことはないと終わりを言わなければいけない。中途半端に残してはいけない。それが、姫のためで。彼が犯してきた罪を償う方法でもある。償いになるかどうかは別として。
ライリーの家に向かいながら息を深く吸い込む。胸がドクドクと痛い。苦しい。それでも心は静かだから不思議だった。
歩きながら彼は自分が何処かに帰っていくような錯覚を覚えた。
自分は道に迷っていて、やっとの事でその道しるべを見付けて、とぼとぼと帰っているようなそんな錯覚。
帰る場所は何処だろうか。
姫の元だろうか。きっとそうだろう。
そうでなければいけないのだろう。それ以外を彼は求めない。
あと少しでライリーの家につく。それが分かればさらに深く息を吸い込む。
彼女のそばは心地よかった。どんな場所よりも離れがたかった。忘れがたかった。だけどそんな場所とも今日でお別れ。すべてを終わらせる。彼女の家が見えてくる。
ちょうど何処かに行くのか、家から出てきたところだった。その事にほっと胸を撫で下ろした。ここで出会えば一緒にと言われるだろう。家のなかに入るように進められずにすむ。
彼は家のなかに入りたくなかった。だけど進められると入ってしまう自分が分かっていたから、嫌だったのだ。
家のなかは生活感に溢れ、彼女が溢れている。さらには思い出が詰まっている。
そんなところにいけば余計、別れを切り出し辛くなるのは目に見えていたから。だから、玄関から出てくる彼女を見たときホッとした。その心には会いたかったなどという思いは含まれていないのだと自分に言い聞かせる。
さくさくと地面を蹴り、歩いていると彼女がこちらに気づいたようすを見せた。顔が少し輝き、早足で彼のもとに向かってくる。
「ファイレスさん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
挨拶されたのにしかえす。その声が少しだけ震えたが、気付かれるほどではなかった。これから言われることも知らずに無邪気にライリーが彼を見ていた。その顔には彼への信頼や親しさが一面に出ていて。心が辛くなる。
今までの思い出が彼の中をかけた。
泣いている顔を見た。怒っている顔も見た。悲しんで、苦しんでいる顔も見た。後は幸せそうな顔、嬉しそうな顔をたくさんみた。笑顔を一番見た。
彼に向けられる一つ一つの笑顔に嘘はなくて、彼はどんなものよりも癒されてきた。今からそれを自分の手で切り取るのだ。
嫌だと思った。心が泣き叫ぶ。
だけど仕方ないことだ。
「今日も泊まりますよね」
何の疑いもなく彼を見てくる瞳。断られるとも思っていない。いつもなら断ることがないから。断る事が出来ないから。だけど今日はそうはいかない。今日は受け取る事こそが出来ない。
「ごめんなさい。今日は無理なんです」
「えっ? あ、そうなんですか、ごめんなさい」
彼女の瞳が揺れた。思ってもいなかった言葉に信じられないとわずかな間瞳が告げた。その事に彼は心のなかで自分に向かいそっと苦笑する。
本当はこうなることこそがいけないことなのにと。それなのにここまで来てしまった。
「今日はどうしてきたんです? やっぱりお仕事ですか?」
問うってくる声に首を降る。またしても驚かれる。いつも同じ答えを返していたから。こんなときだけど初めて彼は不思議に思った。答えがわかっていても毎日同じことを聞かれたなと。その意味は分からない。もしかしたら日常のちょっとした会話が楽しかったのかもしれない。彼がそうであったように。
そんなことももう出来ない。それがとても残念だった。
終わりを告げる言葉の始まりを今、まさに彼が言おうと口を開く。口の中が乾いていた。
「今日はあなたに用事があったんです」
「私に」
「ええ」
大きな目が少しだけ不安に揺れた。いつもと彼が違うことが不安になり始めたのだ。なにを言われるのかと、恐れながら彼を見ている。彼の中に宿る本気を感じて焦り始める。決して良いことではないと本能が感じ始めている。
「今までありがといございました」
彼がそう言葉にする。ライリーの瞳が見開かれる。
「とてもお世話になりました。側にいてとても楽しく、落ち着きました。今まで本当にありがとうございました」
彼女の肩が震える。聞きたくない言葉を聞いたように首を横に降っていた。
「そんな急にどうしたんですか。まるで……」
その先を彼女の口は拒んだ。細かく震えては音をだす邪魔をする。言おうとするのを言えない。代わりに彼が言葉をついだ。
「別れの言葉なんです」
ライリーの目が見開かれ、涙が溜まり始める。みるみるうちに溜まった涙は頬を伝う。いやいやと首を降られるのを彼は見つめた。胸が痛い。彼女も自分のことを愛していた。その事実を思い出した。
愛した人から別れを切り出されるのはどれだけ辛いだろうか。考えてもその痛みの半分も理解できない。だけど切ないほど辛いことは知っている。その反対の立場でさえも辛いのだから。
今さら、本当に好きなのだと実感した。
泣いている涙を拭い、笑顔に変えてあげたいと願う。だけど、それができる立場では彼はなかった。
願う。もっといい人に出会うこと。幸せになってくれること。
「詳しくはいえませんが、ある事情でもうここにはこられないんです。今までありがとうございました。あなたに会えて幸せでした」
言葉にしたら泣きたくなる。溢れだす。
幸せだった。嘘みたいに。重荷にのし掛かられても生きていけるほど幸せだった。だけど彼は自分の幸せよりも優先するべきものがあったのだ。なにもなければ、彼女の手を取ったのにと、初めて自分の立場を悔やんだ。
震える口で最後の言葉を口にする。
「さようなら」
彼女が息を飲んだ。行かないでと声にならない声が響く。一瞬、すべてを捨ててしまおうかと考えたけどそんなことできるはずもなかった。一歩後ろに後ずさる。彼女の目が追いかける。
体を後ろに少しだけずらす。
「ありがとう」
最後の言葉を呟く。延びてくる手から体を離し、彼は走り出した。背を向け、振り返らない。
後ろ髪がチリチリと焼かれるように惹かれるけど、振り向いたらもう帰れないと分かっていたから。
振り返らずに走り去る。
胸が痛い。
愛してる。誰よりも。
だけど、選べなかった
そんなことよりも大事にしなければいけないものが彼にはあったのだ。
走り逃げた彼は川の前で立ち止まる。びっちゃりと足を水につけた。手にはポーアモアの解除薬。それを口に含みながら彼は水の中に浸かっていく。海の国には外に繋がる水であればどこからでも帰れるのだ。
正規の帰りかたではないけど、構ってはいられない。彼はすぐにここから去りたかった。そうしなければ何かが込み上げ、崩壊しそうだったのだ。
それに今は誰にも会いたくなかったから……。人がいるであろう門はさけたのである。
水の中から海の国に帰っていく。
信じられなかった。
信じられなくて、去っていく背を前になにも出来なかった。ただ伸ばした手が空を切る。何にも触れない。
呆然とその手を見る。その背を見る。
背が遠くに消えていく
今、ここで別れたらもう二度と会えなくなる。そう感じた。
だから、走り出した。
追い掛けたくて、引き留めたくて。
無我夢中に走って、彼の背を捉えた。あと少し。
だけど、突然消えた背。
踏み込んだ足は地面を踏まなかった。
そして、私は落ちていた。
海の国に着くと彼はホッと息を着いた。
今更何とも言えぬ後悔や罪悪感が押し寄せてくる。終わりにしたくなかった。彼女を傷つけてしまった。
その事が苦しい。
誰もいないその場所で彼は一人ぐるぐると思考の渦に浸り込む。そんな彼の耳にある音が届いた。
コポコポと水の音だ。
泡が水の中から上へと上がっていく。
ジャッバジャッバと水の音がする。
水の中で何かが藻掻いている音。
海の国に張られた結界に何か異質なものが入り込んできた感じがして彼は後ろを振り向いた。
そしてその目が驚きに見開かれる。
彼の目の前でここには居ないはずの少女が藻掻いている。
さっき、別れを告げたばかりの少女。
「な」
驚愕で開けられた口からは僅かな音が出ていくだけで、役に立たない。何故、そればかりが彼の中を巡り出す。
何故彼女がここにいるのか。
海の世界は人間が簡単に入れる場所ではないのだ。簡単に見つかるような場所ではない。
そこまで考えて彼はハッとした。
自分のせいか。
自分のせいなのか。
ライリーは己を追ってきたのではないか。
そう分かってしまうと彼は後悔し出す。何故、あの時背後に気をつける事を忘れていたのか。急いでいた事、心がざわめいていた事。どれも理由にならない。
彼は失態を起こしてしまったのだ。
頭の中を嵐が巻き起こる。気付かれてしまう。気付かれてしまった。
決して気付かれてはいけなかった秘密を。人間でないと知られれば彼女は一体どんな顔をするのだろうか。怯えるだろうか。嫌悪するだろうか。逃げるだろうか。どれも苦しくてしょうがない。そんなのイヤだと心が悲鳴を上げるがもうどうにもならない。いつも通りの日常を過ごす事などできないのだ。
ふっと彼の思考が晴れ苦笑が産まれる。
何を考えているのか、自分はもう彼女とは会わないと決めたのに。決別もした。嫌われて逃げられて、それは望むところではないか。そうならなければいけないのではないか。
姫が、姫を愛するためにはそれが一番だ。
驚愕に彩られた頭は暫くそう思考していた。
目の前で水の中に溺れている彼女がいるのに、現実を受け止められず、逃げを続けてしまうのだ。
水を飲まないように必死に閉じる口が息苦しさにとうとう限界を訴える。息を求め口が開く。水が口の中に入っていく。苦しげに顔が歪み、抵抗が少なくなる。
その時思考の中に現実逃避をしていた彼は我に返った。
急いでライリーの元に行き己の鱗を一つつまみ、彼女の口の中に押し込んでいた。藻掻く手足を押さえ込み開いた口に空気を詰めなお己の口で塞ぎ、灰の中に入った水を吐き出させる。口を離せばライリーはゆっくりとだが息をして、水の中というだけではなく冷たくなった手に仄かな暖かさが戻る。
その事にホッとしながら彼はおさえ込んでいた手を離す。
気を失いかけていた彼女の目が開いた。
「ファイレスさん」
焦点の合わなかった目が徐々に合い始め、彼を見ると安心したように微笑む。確かめるように伸びてくる手に逃げ出しそうになった。
掴んでしまえば何かに捕らわれてしまう。そんな気がした。
「どうかしましたか?」
怯えている彼に彼女が問う。
「いや、何も」
言葉は震えた。
今、彼女は混乱している。その事はまず間違いなかった。混乱で今がどういう状況なのかまだ分かっていない。どういう状況か理解されるのが恐い。
だがいつかは混乱が収まり、理解されるのだろう。
目の前でパニックになり、言葉もなく試行を繰り返す少女を彼は恐々とした眼差しで見つめた。
「あの……」
小さな声が響く。来ると身構えた。
だが、彼が身構えるべきだったのはライリーからの言葉ではなかった。ここが何処であるのかもっとよく考えるべきだったのだ。周りで音がする。
「何をしているのです」
人の声がする。
高いソプラノの声。誰の声か知っている。高く滑らかで良く響く撃美しい、人魚の姫といわれるにふさわしい声。
振り向くのが彼は恐ろしかった。それでも振り向くしか他ない。
ゆっくりと彼が振り向く。
「姫……」
小さな声が漏れる。
「ファイレス。何してるの」
こちらを見てくる瞳は震えている。
何を言えばいいのか分からず口を閉ざす。
ライリーが不思議そうに彼を見て、姫を見ていた。この人は誰、無言の瞳が彼に聞いている。それとライリーの表情が驚愕に彩られ始めている所を見て、ファイレスや姫に足の代わりに生えた魚の尾にも気付いたようだ。唇が震えている。
「ファイレス?」
ライリーの様子を見ながら姫が首を傾げる。何を、どうして、何故。それを聞きたいと瞳が訴えている。二つの訴えてくる瞳に彼は息を飲んだ。
予想にしていなかった展開。最悪の展開。
どうすればいいと考える。考えたとしてもでてくる答えは何処にもない。もうなるようにしかならないのだ。
「姫、どうしてここに……」
そんな事聞いても意味ないと知っていても時間稼ぎに聞いてしまう。
「なんで。そんなの分かるでしょ。私はこの国の姫よ。この国の異変はすぐに分かるわ。侵入者がいるでしょ。
その人。
他のものに見つかったらどうなるか分からないからすぐに来たの。
……でも、親しそうね。あなたの知っている人……」
問いに彼は固まった。どう答えて良いのか、同時に嘘はつけないと思った、
「……ええ。一度助けて貰って……」
「そう……」
姫の穏やかな声。穏やかすぎる声。静かな瞳が彼を見ていた。何もかも見通されているような気になって彼は息を止めた。
「本当にそうなの」
姫が問う。どう答えればいいのか。これ以上は言えない。口にすることができない。固まる彼に対して姫が見ていたのは、彼ではなくライリーだった。
「あなた人間でしょ」
今度はライリーに問う。
「え……。そう、ですけど」
わけもわからずに彼女が答える。もう無理だと彼は悟った。自分の罪がさらされる。姫を悲しませてしまう。それにライリーを巻き込んでしまう。
心の中、震える彼は無理だとわかっていても自分の口から罪をいうことはできなかった。息が詰まって邪魔をする。心が恐怖する。言葉が告げない。言いたくないと叫ぶ。悲しませたくないと今更の事を叫ぶ。本当に悲しませたくないのなら、もっと前に止めるべきだったのだと今更とても後悔する。
そんな彼をわきに置いて、姫はライリーと話を続けていく。
「そう、人間なのね。ここはね、人魚の国。海の国。人間の侵入を許さない不可侵の国」
「人魚」
姫の言葉に信じられないとばかりにライリーが呟く。目の前には魚の鰭を持つ存在がいる。海の中にもいる。それでも容易に信じられる事ではなかった。
「そうよ」
姫の固い声が答える。その目がほんの僅かだが安堵していた。問題が少しだけ先送りされた事に。姫はできるなら暴きたくないと思っていた。それでも暴きたい暴かなくてはいけないと心が思う。矛盾する。辛い。
そんな気持ちのままライリーを見た。まだ信じられないでいるライリーに言葉を告げる。
「これは本当の事。夢でも何でもない」
「そんなの」
「信じられない。でも、人魚の存在はあなたの大陸でも語られているでしょう」
「そうだけど……」
ライリーがそれでも信じられないと呟く。姫がその様子を見て少しだけ微笑んだ。
「確かにそうかもしれないわ。それに良かったあなたは此処に来たくて来たわけではないのね。
でもね、」
微笑んだ姫の言葉に堅さが増す。息を飲み込んだライリーは姫を見つめる。その目はこの状況に慣れ、人魚であると言う事を僅かに信じ始めていた。
「ここは不可侵の国。何人もこの国にはいる事は許されない。
あなたはどんな理由であれ、その国に来てしまったわ。それは罪となる」
ライリーの肩が強張る。
「どうなるんですか」
「罰を受けて貰うわ。
でも、あなたを罰する前に聞きたいことがあるの」
姫の瞳がライリーを射抜いた。それはまるで彼自信を射抜いているように思えて、歯を噛み締めた。傷付けてしまう。こんなつもりはどこにもなかったのに。
「あなたは、ファイレスと親しかったの?」
姫はそうとうた。覚悟を決めた静かな目をしていた。
ライリーはこの問いにしばし迷った。親しかった。それは本当である。だけど、そう答えていいのか分からなかった。彼を見ると、顔をふせ悲しそうな表情をしている。言ってはいけないのだと分かる。だけど、ライリーには姫も同じように悲しみ苦しんでいるように思えた。決意の裏側に悲しみを秘めている。それがどうしてなのかライリーには分からないけど、だけど言ってあげるのが優しさなのだとは分かった。どちらを優先するべきか彼女は迷う。
少しの沈黙の後、その唇が開いた。
「はい」
たった二文字の言葉が彼女には重かった。大切な人を傷付けると分かっていたから。だけどライリーは姫を優先した。そこには嘘でも自分たちのことを否定したくないという思いも混じっていた。たとえ彼女が彼のことを何一つ知らなかったとしても親しかったことは本当なのだ。
本当に彼女は彼のことを何一つ知らなくて、それが、今、とても悲しい。
「そう」
彼が、彼女が密かに絶望する最中、同じように傷付いた姫は小さな声をだした。傷付いた様子を見せないように顔を前にあげながら、僅かに目元が濡れていた。
「そうなのね」
姫から吐息が漏れる。それが絶望した音のように思えて、彼を苦しめた。傷付けたかったわけではないのだ。知られれば傷付くことを知ってはいたけど。
「教えてくれて、ありがとう。
あなたには海の国とのことをすべて忘れてもらう。もちろん、海の国の民と関わったこともすべて」
「そんな」
厳かに告げられた言葉にライリーは思わず声を漏らした。忘れたくなどなかった。例え彼が自分に偽りの姿で接していた日々だとしても忘れたくなどなかった。彼女にとっては大切な日々だから。
姫がそんな彼女の姿を悲しい目で見ていた。
「忘れてもらう。何を言おうともう無理よ」
姫の手が何かを言おうとするライリーの目を覆う。ぽぅーとその手が光に包まれ、彼女の体が崩れ落ちた。
「忘れてもらったわ」
声が告げる。その手が水の中を泳ぐ。彼女の回りに空気の泡が集まり、そして、それが上へと彼女を運んでいく。
その姿を物言わず姫と彼が見つめた。
重苦しい沈黙が流れている。それはライリーが消え去ってもまだ続いた。
長い沈黙を破いたのは彼のほうに振り向いた姫であった。
「私、分かっていたの」
その目は涙に濡れていた。痛いほどに胸が締め付けられる。泣かしてしまった。
「分かっていたの。少し前からファイレスの心が私以外のどこかに向いていること。分かってた。だけど、そんなことないって思いたかった。ファイレスは私を愛してくれるって信じてたかった。でも、先あの人をみて、そんなの間違いだったんだって分かった。あなたはあの人のことを愛したんだって分かっちゃった。
ねえ、何で」
姫が問い掛けてくる。悲痛な声で。それが何を問おうとしているのか彼には分かった。
「何で私を愛してくれなかったの。信じてたんだよ。ずっとずっと信じてた」
涙がボロボロと溢れていく。ぬぐいとらなければと思うけど、彼の体は動かなかった。そんな権利が自分にあるのかさえ分からなかった。
「ナーツ様」
ただ名だけを呼ぶ。そんなことにどれだけの意味があるのか分からずに。
「ファイレスが私を愛せていないこと知ってた。だけど、それでもいつか愛してくれるって思ってた。だって私は誰よりもファイレスが好きだったから。今でもどうしようもないほど大好きだから。だから、いつか同じような気持ちを抱いてくれるって信じてたの。そうはならなかったけど」
悲しみの涙が落ちていくのを止められない。彼はただ姫の言葉を受け止めることしか出来なかった。
本当に何故自分は姫を愛することが出来なかったのだろうか。たくさん大切にして、誰よりも側にいて、何よりも大事で、一番に優先すべきだと思っていたのに。何故、愛せなかったのか。他の人を、それも人間を愛してしまったのか。
自分を彼は攻める。
何故、どうしてだと。
責めてももう遅いけどそうしなければ気が晴れなかった。そうしても気は晴れなかったけど。
「何で」
同じように姫も彼を責め立てる。涙でうるんだ瞳で。
「何で、何で、愛してくれなかったの。どうして私じゃなかったの」
姫の声に彼はズタズタに切り裂かれる。なぜ、どうして。
分からない。
分からないけど、何故か愛せなかった。
「信じていたのに!」
姫の悲痛な声が彼に届く。
責め立てるのにも耐えれなくなり、泣きじゃくるだけになった姫にも、彼はどうすることも出来なかった。
泣き止むのをただ待つだけ。最低だと自分を責めた。
掠れた声が姫から漏れる。
「お願い忘れて」
私、以外を愛してしまったことを。そのすべてを。思い出を。
「それで、今度は私を愛して」
お願い。
お願い。
姫が告げる。それはお願いでも何でもなくそうなることだった。姫がライリーにそうしたように彼の記憶を封じる。分かっていて彼は返事をした。
「はい」
姫の手が彼に伸びる。
記憶が消えていくなかで彼は、それでもきっと愛することは出来ないのだろうと感じていた。
何て、酷い、男。本当に、何て、なんて、ひどい。
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