決意
「お久しぶりですね」
約半年ぶりに出会ったライリーはそう言って微笑んだ。描いていたものと寸分も違わないその笑顔に、思わず彼も笑う。綻ぶ口元。胸の中に沈んでいる重みを忘れてしまいそうなほど心地よい。
会う気はなかった。だけど、彼は気付けば此処に来ていた。
まるでそこしか知らないように。惹き付けられでもしたかのようにライリーのいるこの場に来ていた。半年も来ていなかったのに馬鹿みたいに通ったここまで来る道を体は忘れてはいなかった。無意識で来てしまう。そんなにもここに恋い焦がれている様で罪悪感が強くなる。だけどライリーと話すだけで消えてしまう。己の体が憎い。ライリーと話せる事ただそれだけが嬉しくて、全てがどうでも良くなってしまう。
「今回も泊まっていきますよね」
話をしていると唐突に聞かれたその言葉に彼は固まった。罪悪感を思い出した。
「あ、いや……」
思い出した罪悪感に今回はもう良いといおうとした。だけど、その口が止まる。今回は良い。そう言えば良いだけなのに彼の口は動かない。不自然な合間だけが出来、ライリーが首を傾げる。その仕草に慌てて次の言葉を告げた。
「ああ。お願いできますか」
「はい」
勢いで告げた言葉は言うべき言葉とは真逆の言葉。彼は細い息を吐き出した。駄目だと、分かっていたのに。
求めてしまう。
「今日の夕食は何が良いですか」
「何でも良いですよ。ライリーさんのは何でもおいしいですから」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
控えめに笑う少女にお世辞などではないと思い。そう言おうとするのを止めた。僅かに残っている理性が止める。何をしているのかと。そんな事をして良い身分ではないと。あまやかな声を吐くのではないと。自分を信じ切っている姫の顔が思い浮かんで息が止まる。隣を歩いているライリーがそれに気付いて覗き込んでくるのに、彼は慌てて笑顔を取り繕う。
「どうかしましたか」
「何でもありません。少し仕事の事を考えてしまって」
「そうですか。お仕事お忙しいんですね」
「まあ……」
彼女の言葉にまた考える。そうだ、こんな事をしている場合ではない。海に害なすものがいないかどうか探らなくてはいけないのに……。
だけど、彼はここから動けない。別れの言葉を口にしようと口を開けても結局音は出てこない。流されるままに続けてしまう。
何て駄目な男なんだろうと自分で思う。何て最低な男なのかと自分自身を嫌悪する。それでも笑いかけてくる笑顔から逃れられない。
何て、愚かしい存在。
隣のライリーを見ながら密かに己を嘲笑った。
久しぶりに来たライリーの家は前と代わりがなかった。質素で必要最低限以外のものはなく、穏やかな時間に支配されている。息を吸い込めば肺の中に清浄な空気が入り込み、優しい気持ちが胸を満たした。ライリーが目の前で笑っているのを見てそっと息が落ちる。この空間を望んでいたのだと、自分の心が告げていた。
頭の片隅には、姫のこと、罪のこと、こびりついているけれど、今、この瞬間は目の前にいるものしか気にならなかった。
なんて、現金で愚かな存在なのかと嘲笑ってもその事実は変わらない。ライリーがいることが幸せでならない。
その幸せな空間に一歩踏み込んでしまえば、もう逃げられない。そう感じた。この幸せを手放すことが自分からはもう出来ない。彼はそう感じてそして、仕方ないと現実に目を閉じた。
この空間を彼は求めてしまう。
この空間に彼はまた来てしまう。
いけないこととどんなに分かっていても、姫をどれだけ悲しませるか知っていても、それでも、彼の心が求めることをやめない。
だから、せめてどうしようもなくなるまでは。
誰かが彼に訴えるまで。時が彼を締め上げるまで。思いが彼を押し潰すまで。
そうなるまで求めてしまう空間で、ライリーのいるそのそばを、愛しいというその感情に、蓋をせず目を背けず、そこにこの身を置いていこう。
彼はそう決めった。
本当に蓋をして、目を背けなくてはいけないのが、それらだと知っていても、そうすることが出来ないから、代わりに現実から目を背けたのだった。せめて駄目になる最後の一歩手前まではと。
それがどういう結果をもたらすのか、いつまで続くのか。誰も知らずに、時は流れていく。
穏やかに罪を抱え込んで。
地上から海の世界に帰って、日々を暮らすなか姫は彼の決意に気づくことなかった。そしてそれは地上で彼と一緒に暮らしたライリーも同じだった。ほの暗い思いに誰一人気付かないまま彼が抱えるものは重く深くなっていた。
嘘をつく度に海の世界で息がしづらくなる。生きづらくなる。
本音を吐く度に地上で笑うのが難しくなる。思い出しては息がつまる。
どこの世界でも辛いけど、それでもライリーのそばを離れることができなかった。彼女が笑うだけで幸せだと感じることが出来た。彼女が彼の名を呼ぶ度に生きていることが嬉しくなる。たとえ後に残るのが罪悪感だけでも彼はそれを感じていたかった。自分のなかをわずかな幸せで満たしていたかった。
好きだと、愛しいと溢れだす思いがそれを助長して止まらなくなる。
彼女のそばだけで息が出来た。
生きている。自分も生きているのだと実感できた。
それと同時に何かある度に彼の心を押し潰す罪悪感が増えていく。少しずつ息をするのができなくなっていくのだ。
ライリーのもとで息をすればするほど、姫のそばで笑えなくなっていく。姫への罪悪感が彼の息を奪っていく。
それでも止まれないのは彼自信なのだ。
「何を考えているの」
ふっと問われた問いに我に変える。明かりの消えた暗い海の夜。地上の夜とは違う静かさだけが漂う夜。
明かりのない城のなかでぼんやりとしていた彼に声をかけたのは姫だった。姫の瞳が彼を見ているのが暗闇のなかでもわかる。そもそも海のものには明かりなど必要などないのだ。明かりがなくても回りの気配はわかる。それでも明かりを付けだしたのは花園と同じ。誰かが地上を焦がれたから。地上の光を求めたから。
そう考えれば自分の感情は普通のものなのかもしれないと、彼は思った。自分も地上に焦がれているのかもしれないと。だから地上の娘を愛したのかもしれない。 と。
だけどそう考えても違うのだと己自身で否定する彼がいる。そんなのではなく、もっと別の理論や言葉、理性や感情では表しきれない何かがあるのだと。言ってしまえば、ただ愛してる。
優しいところが、無垢なところが、笑顔が……、そんなことを言っても尽きぬほどに愛している。
そんなことをつらつらと考える一方で姫のことを見ていた。問いに答えなければと思うけど、何を答えてしまえばいいのか分からない。考えていることは決して誰にも言えぬ秘密。なら、なにも考えていないと答えるべきなのに、そうしていいのかさえも分からない。
嘘をつきたくないと思う。でも、嘘をつくしか彼に方法は残されていない。
いつまでこんなことが続くのかふっと考えて、そして、瞬時に後悔する。愚かすぎたと。いつまでも彼が終わりにするまでいつまでも続くのだと。
終わりを決めるのは彼なのだと。
(終われないくせに、終わりを考える……。どれだけおろかになれば俺は……、姫を傷付けるのを止めるのだろうか)
静かな瞳が彼を見ていた。彼の言葉を待ち、言われる言葉を恐れている瞳を。愛せないけど、大切なのは心からの本心なのだ。
「なにも……。ただ少しこれからどうするなるのかを思い浮かべていたんです」
「これから?」
首を傾けた姫が潤んだ瞳で彼を見ていた。
「えぇ」
その瞳はやはり彼の言葉を恐れている。それを気付かせないためか姫の紡ぎだす言葉が早くなる。それはそれ以外を拒否するような響きを含んでいた。
「そんなの決まってるわ。私たちは結ばれて、二人になって、この国を納めながらいつまでも一緒にいるの。いつまでもいつまでも離れないの。そうでしょ。そう約束したわ」
姫の震える言葉に彼は頷く。そうするしかないことを彼が一番分かっていた。そう。確かにそう約束しているのだった。約束するしかほか、何もなかったあの時に。
「そうですね」
ニッコリと笑って肯定すれば姫が少しだけ安堵する。
「そうでしょう」
嬉しそうに笑う姫に対して、彼は何かがのし掛かってくるのを感じた。姫はそれしか求めていない。望めば何でも手に入る立場であるにも関わらず、姫はそれしか求めない。それを与えれるのは彼しかいないのだ。なのに、彼が他のものを求める。彼が姫の幸せを奪っていく。
(いつか必ず、終わりにするから、だから、それまで……
必ず姫を選ぶから)
選べるかどうかわかりもせずただ切実にそう願う。
「姫、もう寝にいきませんか?」
この話は終わりと、自分を責めるなにかから逃げ出そうとする。
「ええ、そうね」
そうと知らずに彼の言葉に優しさを感じる姫は他人から見たら騙されていると言うのだろう。騙しているのは彼。分かっているけど止まれない。溺れているのだろう。ドロドロでだけど綺麗な沼の中に。
「行きましょう」
差し出される手を掴み、先へと導いていく。掴んだ手は冷たくて、彼に貸せられた重みを教えてきた。
終わりは思っていたよりも早く訪れた。
それは海の世界での事。
彼はまた地上へと行く任務を貰ったときだった。
その事で姫に挨拶と報告に赴いた。彼はきわめて単調に振る舞う。地上に行く事を僅かにだが嬉しがってることを感づかれないように。
「また、行くのですか」
姫が少し驚いたように聞いてきた。もう少し彼と一緒に入れると思っていたのだろう。これも仕事だからといつも使う言葉で窘める。
「そう……」
いつものように納得してくれる姫はだけどいつもより悲しそうだった。
深い悲しみをその瞳に込めているようだった。
「最近……」
姫の唇が音を出す。何かを絞り出すように震える唇は勇気を振り絞っているように見えた。いわれる言葉は彼にとって良くない事だとすぐに感じだ。
「ファイレスが、遠く感じるの
なにか、別の所に行っちゃうんじゃないかって思うの」
姫の瞳は濡れていた。
彼は言葉に詰まりすぐに答える事ができなかった。確かにその通りかもしれなかったから。姫のもと以外に行ける場所など何処にもないけど、それでも別の場所、ライリーの元へいる事を望んでしまう彼は、姫から見たら何処か別の所へ行きそうに思えるだろう。
どうしようもない事実に息をつく。
姫の所以外行く気などないけど、それでも望んでしまうのは己。そんな己を封印して、姫に安心して貰うためだけに笑う。
「そんなことありませんよ。私は姫の元にいます」
そうすると決まっている。
「ホント……」
姫が恐る恐る聞いてくるのに笑ってみせる。実際にこの笑顔が何の役にたっているかは分からないがそれでも笑っている方がマシだと思うから。姫がホッとしたようにする。だけどそれでも不安はぬぐえない。もう一度姫が同じ問いを繰り返した。
「それでも、また、行くの」
切ない声が姫から漏れる。行かないでとすがり付いている。だけど、その手は下に降りたまま、彼に伸ばされようとはしない。諦めてしまったかのように動かない。
それを見て、彼は密かに顔を歪めた。
もう潮時なのかもしれない。これ以上はもう……。続ければさらに姫が傷ついてしまう。
「ええ。それが私の仕事ですから」
いつもの言葉をまた繰り返す。行くしかないのです。と言外に告げる。本当はそんなことないくせに。行きたいのは自分自身なのに。
やっと姫が折れた。
「そうよ、ね。ねぇ、帰ってくるでしょ。ここに帰ってくるでしょ。だから、私、待ってるわ。早く帰ってきてね」
姫が小さな微笑みを浮かべる。待っていると言葉にされた。こんなこと初めてだった。今までは引き留めることはあっても、帰ってくるのを待つような言葉は言われなかった。言わなくても帰ってくるとわかっているはずだから。
彼のなかを雷鳴が駆け巡る。
もう終わりにしなければいけないのだと気づいたのだ。でないと、やり直すことが出来ないほど壊れてしまう。
もう終わりにするのだ。
不思議なことに彼の心は水面のように凪いだ。
(ああ、もう終わりになるのだ)
何処かで心がほっと息を落とす。彼が望んでやり続けたことだとしても、それでも心は押し潰されていた。これ以上重りが増えないことに喜んでいる。それと同時に。
(もう、終わりになってしまうのだ……)
別の心は終わることを悲しんでいる。どれだけ苦しんでも彼女のそばは居心地が良かったのだ。そこから離れることを寂しく感じている。
矛盾する心。
いつもこれに迷い、彼女を選んできた。だが、今回はそうはできない。こんな日常は終わらせなければならないのだ。
「はい。帰ってきますよ」
あなたのもとに。心もつれて帰ってきます。
口には出さずに心で告げる。もう他の場所にとどまらないと。
目をつぶると浮かんでくるのは、地上の小さな家に、柔らかな彼女の笑顔。
そんなものとはこんど限りの縁となる。
(けじめをつけよう。サヨナラを言おう)
そしたら、少しは代わりだすはず。そしたら、もうライリーのもとに行けなくなるから。
サヨナラを……
口の中が、カラカラと乾く。
目の前にいる姫は言葉だけでは不安なのか彼を待っている。彼は静かに姫の前にかしずいた。
「大丈夫。絶対帰ってきますよ。約束します」
手のひらを優しく片手で掴み、指先に軽く口付ける。
頬を染める姫に微笑み、立ち上がる。
心は決まっていた。
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