泡に
恐ろしいことになってしまった。
その思いが彼の心の内を大きく占めていた。
あの事件から二週間。あの後ライリーの家に連れてこられて手当をされた後は、安静を言い渡されている。
怪我はまだ治らない。
だけど、もう帰らなければならない。一刻も早くこの場を去らなければ……。
彼の中でその思いが重く渦巻いている。
とても恐ろしいことになってしまったのだ。
“ポーアモア”が果たされてしまった。
人魚に人間の足を与える代わりに、声を奪う魔法の薬。失われた声を取り戻すための手法はただ一つ。誰かに愛され、愛すること。一方通行では叶わない。真に思い合うことこそが魔法を解く。
彼の魔法を解いたのは姫への思いではなかった。
他の誰よりも己を思い、己を愛してくれる姫ではなかった。
姫はあの場にいなかったし、何よりあの時、彼は一切姫のことを考えていなかった。頭の中にいたのはただ一人、ライリーだった。
魔法を解いたのはライリーへの思い。
あれだけ姫を思わなければと分かっていたはずなのに、それなのに彼は姫を裏切ってしまった。こんなことあっては行けない。だけどあってしまった。
ならば、やることはただ一つ。
なかったことにする。
ライリーへの思いを忘れ、蓋をして、なかったことに。そして、今度こそ姫に思いを向けるのだ。そうしなければ行けない。そうしなければ彼は生きていけない
彼は罪に罪を重ねてしまったのだ。
彼の喉元に尖った棘が押し当てられているような、そんな気がした。
早く、早く、この場をライリーのもとを去らなければならなかった。
そうしないと彼は止められそうにないのだ。ライリーへの思いを。気付いてからそれは日に日に大きさを増していく。前までは気にしなかった一つ一つが彼の心を揺さぶっていく。思っては行けないと思うのにどうして思ってしまう。だから、帰らなければと深く思うのだ。
心ばかりが焦る。
そんな彼を止めるのは皮肉にもライリーだった。
依然と同じく怪我が治るまではと引き留めるライリーをどう言いくるめばいいかも分からず、思うだけで帰れない。強制突破をしてしまえば良いとも思うのだが、そんなの事も出来ない。自分がいなくなった後、ライリーだ泣くのではないかと思うと動けない。そんな事よりも姫のほうが大事なのだと分かっているはずなのに、どうしても選べない。迷ってここに居てしまう。人間界に留まる時間が増える事に彼の中で重い重りが増していく。姫のために行動できない己。そしてもう一つ。ライリーの事。
献身的に己を介護するライリーの姿を見て彼は胸を痛める。
声が出るようになったと言うことは彼が思いを抱いたという、それだけではすまないのだ。それだけでもきついというのに、もう一つの意味を秘めている。
愛し、愛されることが魔法を解く条件ならば、同じようにライリーも彼に思いを抱いてくれているのだ。
そうでなければ彼の声はでていない。
音のでるようになった喉は、彼女の思いも如実に伝えて。
ライリーが胸の奥に秘めている物を勝手に見ているような罪悪感が胸を締め付けるのだ。
重い重りが二つに増えた。そしてどんどんそれ以上に増えていく。
ほほえみかけてくるライリーに上手く笑顔を返せない。
「本当に良いんですか」
覗き込んでくる瞳から目を逸らしながら頷く彼は、まだ怪我が治りきってはいないものの、人魚の国に帰ることにしていた。その事を告げ了承を得られたのはいいが、ライリーは直前になっても心配な様子で痛ましかった。
その姿を彼は真っ直ぐ見ることができないほどだ。
帰れることに安堵と後悔を感じている。
ライリーを見てしまえば彼は己を律することができなくなり、ここに留まろうとしてしまう。
恋がこんなにも恐ろしい物だと彼は知らなかった。
彼が彼でなくなっていく感覚をずっと味わっている。やらなくてはいけないことがあるのに、思いが邪魔をする。
取り返しがつかないことを犯してしまいそうだった。
いや、もう、犯してしまっているのだけれど。
だからこそ、もう忘れてしまわなければ。人魚の国に帰る事が出来れば忘れられると彼は思っていた。
「じゃあ」
開いた口が言葉を躊躇い閉まらない。言わなければと己を叱咤しても声は出てこない。ふっと反らした目の先、ライリーの白い手の平が目に入った。白く傷のある手は強く握りしめられ、そして震えていた。
「あの……」
彼が次の言葉を発する前に、彼女が声を出していた。
「え? なに」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ、良いですか」
正直、これ以上はもういたくなかった。時間が過ぎれば過ぎるほど帰りづらくなる。帰りたくなくなる。だけど、彼を引き留めたライリーは何かを堪えるように、勇気を出して呼び止めたことが分かるから、断ることもできない。
「ああ」
「……ありがとう、ございます。その、私」
口にしようとされる言葉に彼は訳もなく身構えた。何を言われるのか予想はついていない。ただ自分にとってそう悪いことではないとは思っている。ただの彼の勘ではあるが。
「ファイレスさんに言ってないことが一つあって……」
「言ってないこと」
「ええ。その謝らないと行けないことなんですけど」
言いづらそうに言葉を紡ぐライリー。彼は何を言われるのか一気に理解してしまった。思い出すのは今回此処に来た一番初めの日。荒らされた部屋。倒れていたタンス。引き出しは床に散らばっていた。そこにいるライリー。
「あの、ファイレスさんに貰っていたお礼の品やお土産をその、私、なくしてしまっていて」
彼が予想した通りのことをライリーは口にした。彼は知っていたのだ。荒らされていたあの部屋のタンスに彼女が己の渡した品を保管していることを。それなのにあの日、床には何もなかった。
申し訳なさそうに視線を余所に向けるライリーの姿。彼は少しでも安心できるようにと目を合わせて微笑む。
「あれはもうライリーさんの物ですから、気にしなくても」
「そんなわけには、だってあれ高価な物でしょう? そうじゃなくても折角頂いた物なのに……。私は……」
「大丈夫。そうしたくてしたんじゃないって分かっているから」
微笑むとライリーは怯えたような目をした。彼が全てを分かっていることに気付いたのだ。なくしたのではないことを知っていることを気付いたのだ。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
「でも……」
「ライリーさんが渡したくて渡した訳じゃない。それに先も言った通りあれはライリーさんの物ですから。どうしようと貴方の勝手ですし、少しでも貴方の荷物が降りてくれるなら私としても嬉しい。まあ、助けに何てこれぽっちもなってはいませんでしたけど」
「そんなことない! あれがあったからあの時、何もなくてすんだのだもの」
ライリーの目線が下がっている。悲しそうに歪んだ目元。そう、なくしたと言った彼がライリーに送った物達は男達に取られていたのだ。それも無理矢理。荒れていたあの部屋はライリーと男がもみ合ったか何かか。あの部屋をみたとき彼はその事に気付いていた。でも何もなかったという彼女の為に聞くことをしなかったのだ。彼が渡したプレゼントは今どこにあるのか分からない。その事にライリーは申し訳なさそうにしているが、彼はそんなに気にしてはいなかった。
もともと自分が無理矢理押しつけた物だし、彼女が大事に扱っていたことも知っていた。それに彼としては売って少しでも生活の足しにでもしてくれればと言う気持ちで渡していたのだ。結果は男達に取られて意味のない物になったが、でもライリーが言った通りあれがなければあの日彼女は連れ去られた事だろうからちょっとホッとしている。
それに、本音を言えば今それらがここになくってホッとしている自分がいるのを彼は知っていた。気付いてしまった恋心。それは確かに突然浮かんできたが、だけどその根底にある物は自覚する前から彼の中にあった。
助けて貰ったからその礼のつもりだった。もしくは同情でもしているのだろうとそれくらいの考えだった。送ってきたプレゼントに他意はない。そう思ってきた。だけど、本当は少し違うのだと気持ちを理解して初めてした。貢ぎ物は少しでも己を気に入って貰おうと、己を好きになって貰おうと、己をみて貰おうとする求愛行動。動物界でも雄は自分が気になる雌に物を持っていたりすると言うそれと同じ行為。同じように本能で彼は動いていたに過ぎなかった。
それに気付いて彼は今ここになくて良かったと思う。流石に少し恥ずかしい。それに彼はもうここに来るつもりはないのだ。つもりがないと言うより来れない。裏切るわけにはいかないから。
だから、彼はなくて良いと思う。己の痕跡を残すような物があれば無駄に彼女を悲しませることは目に見えているから。
ああ、こんな自分に惚れてしまった彼女を哀れに思う。願うなら次の恋はもっといい人に。
そう願う時でさえ、胸に痛みを覚えてしまう自分をファイレスは笑った。
「だから、だからこそ気にしなくて良いんです。
あれが貴方をほんの少しでも助けることができたのだと思うと嬉しいです。本当はあんな物達なんて貴方には何の価値なんてないんだろうと思っていました。それでも送ったのは私の我が儘で。それが役にたって本当に良かった。
だから、気にしないでください。大丈夫です」
まだ何か言いたげだった彼女。だけど暫く考えた末にライリーは口を開かなかった。
「話はこれで」
「うん。ごめんなさい」
「気にしないで。では、私はこれで」
「ええ。……さようなら。また、いつか」
去っていく姿にかけられる言葉に彼は胸が締め付けられて苦しかった。
ああ、またいつか。またいつか。
自分が止められそうになかった
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