ポーアモア


 抵抗しなければと言う思いがわき上がるけれど、何をしても無駄だと分かっていた。ライリー一人の女の手で彼らに太刀打ちなどできない。言葉で負かそうとしても、男のほうがうまい。彼女には何も悪いことをした記憶も、彼らがいうようなけじめをつけなければいけないような理由も思い当たらないのだけれど、一度目をつけられてしまえばそこで終わりだ。

 もう何があっても手放して貰えない。それこそ売られない限り。

 逆の見方をしたらこれは良いことなのかもしれない。もう一人でやけになることはない。男と戦おうと気を張る必要もない。楽になる。ただちょっとだけ苦しくなるだけで……。

 誰かに助けて貰おうとは思わなかった。助けてくれようとした彼を思い出せばそれだけで十分だ。もうこれ以上誰かに酷い思いをして貰いたくない。

 彼女は一人諦めた。



 あれからライリーは狭い部屋の中に連れてこられた。両手を後ろで縛られ逃げられないようにされ、ドアの前には見張りがいる。そうでなくとももう逃げようとは思わない。

 先のない己の未来のことを呆然と考えていた。それと同時に今までのことをふり返っている。

 母と父のことが思い出す。母はとてもおおらかな性格をしていて、父は少し頼りないところもあったけど優しい、平凡な家族だった。小さな幸せが積み重なって大きな幸せを作っていた。それが壊れたのは父と母がいなくなってから。突然消えてしまい信じられないでいた。立ち直れないまま母や父が戻ってくる日を待ち続けた。ご飯を食べる事も忘れた。涙を流す事しかできなかった。そんな日からも立ち直りやっと一人で何とか暮らしていけだしたところに男がやってきてまた壊していた。毎月高い額を払わされ、少しずつ払えない分の謝金が貯まってくる。

 気付けばもうどうしようもないところにまで来ていたのを、後少し後もうちょっとと何とかギリギリのところでやり過ごしてきた。

 正直、辛い日々だった。

 押しつぶされそうな日々だった。

 もうすぐ解放されるのかと思う。そして、もっと辛くて濃い闇の中に沈んでいくのだ。

 まだ、今までのほうが良かった。町の人達は皆、ライリーのことを分かって親切にしてくれたり、両親との優しい想い出がつまっていたりしたのに、売られて何処かに行ってしまえばそんな物はもう何処にもない。

 切なさとつらさが胸を襲う。

 行きたくないと僅かに思った。

 どんなに辛くとも優しい想い出が彼女を支えてくれていた。それに……。

 彼女の脳裏に一人の人の姿が浮かんだ。

 ちょっとした理由から仲良くなった男の人。彼のことをまだ何も知らない状況だけど、でも、彼のことを考えればとても安心してしまう己がいた。

 優しくて悲しげな彼の姿を思い出せば仄かに心が温かい。

 彼のことを思い出し冷えた体温に暖かみを取り戻した。

 でも、そんななかでも悪い思いが消えることはない。彼を思い出すと自然とさっきのことを蘇らせる。

 彼は大丈夫だっただろうか。ちゃんと帰ることが出来ているだろうか。まさか取り返しのつかないことを犯そうとしていないかなどと考えてしまう。

 ライリーは部屋の中でとりとめのないことを考え続ける。部屋の外に誰がいることなども忘れ、完全に己一人の世界に浸っていた。そんな彼女を思考の渦から解放したのは何かが倒れるような音だった。部屋のすぐ外から聞こえてきた音に彼女は警戒を示す。

 静かになった外。ギィとドアノブが回される音がする。後ろに下がる彼女はじっと扉を見つめた。開いた扉の隙間から人影が現れる。

「え?」

 一瞬それが信じられずにライリーは呆然と口を開けた。扉から入ってきたのは彼だった。

「なんで」

 信じられない思いでライリーは彼を見ていた。

「何でここに居るんですか……」

 彼がライリーを見て微笑んだ。怪我がないことを確認して肩をホッと落としていた。

—助けにきた—

 ライリーの首がふるふると震えて、涙を流す。

「駄目、駄目です」

 絶望に染まった声が彼の行動を否定する。そう来ることが分かっていたかのように驚くことなく彼は彼女を見る。

—大丈夫。心配しないで—

 彼の腕が力強く彼女に回るのにライリーは強く首を振り続ける。唇から漏れる細い音に彼は困ったように眉を寄せた。

—どうなるかは分からない。それでも君を助けたいんだ—

 描かれる言葉にライリーは涙を流す。駄目とその口から漏れるのも、もう何の意味もなさなかった。

—行こう—

 手を縛っていた縄は切られ促されるままに立ち上がった。溢れている涙を彼が拭い足が動き始める。



 男のアジトの中、彼らは息を潜めて潜んだ。出口までは後少し。後少しのところで動けないでいる。

 今彼らがいるのは二階の階段の近く。階段を下りたら近くのまどから飛び出せばもう脱出完成だ。だが、そうするには階段前の部屋の前を通らなくてはいけない。そこには男と数人の部下達がいて、すぐには通れそうにない。全員がいなくなったときか、意識が完全に廊下から消えたときに向かわなくてはいけない。息を殺し彼らは中の様子を窺っていた。

 男の声が聞こえてくる。

「兄貴」

「何だ。あの女本当に売り飛ばすんですか」

「ああ。当たり前だろう。俺は一度口にした言葉は覆さない男だぞ。何で今更そんな事聞く」

「いや、あの女はてっきり兄貴の物にするもんだと」

「何だそりゃ」

「だって、その為にわざわざこんな回りくどい事したんじゃないんスか」

「ああ。ちげえよ。元々すげえ金持ちの方があの女が欲しいということでね。出来れば合法で手に入れてえって話だったからやったんだよ。その分報酬も弾んで貰えるらしいからな」

「へえ。そりゃあ、凄いですね」

 男達の感心した声が聞こえるのに、ライリーは僅かに震えていた。その手を押さえながら彼は冷たい瞳になっている。さらに会話は続く。聞かれているとも知らず、どんどんばらしていく。

「でも、それにしては回りくどい事しませんでしたか。もう少しスムーズに出来たんじゃ。それにわざわざレイニーの奴を殺さなくても。一応仲間だったのに」

 びっくりとライリーの方が跳ねる。その姿とレイニーという似た響きの音にそれが誰であるのかいわれずとも分かった。

「良いんだよ。アイツは臆病だし、何かと俺らのあり方に反対していたからな、都合が良かったんだ。それに金が必要だからな。搾り取れるまで取ってから売る方が得だろうが。まあ、アイツも可哀想にな両親が夜逃げしたなんて話し信じて、その両親を殺した俺たちに貢いでよ」

 げらげらと男達が笑う。隣にいるライリーの体から力が抜けていくのが見なくても分かる。彼の瞳に映し出されたライリーは今まで以上に細く弱々しく、頬を透明の涙で汚していた。小さな嗚咽が彼女の口から出ようとしているのを抑える。その手は怒りで震えている。

「だいぶ。金も貯まりましたよね」

「ああ。必要資金としては十分だ。俺たちには人魚を捜すって大事な仕事があるからな」

「見付けたら俺たちの夢叶いますね」

「ああ」

 見えてない誰かの口元が悪魔のように上がる。その光景が鮮明に写り込んで吐き気を覚えた。ライリーを優しく撫でていた手が恐怖で固まる。何が聞こえてきたのか一瞬分からなくなり、だがすぐに脳は理解して、恐怖に引きつった。

(人魚……。こいつらは人魚を狙ってる、その為に……、)

 肩が震える。怒りや畏れ。色々な感情がごちゃ混ぜに交ざっていた。立ち上がりかけた足、だが遠くから足音が来て止まった。急いで近くの部屋に逃げ込む。息を潜めるうちに聞こえてきた足音は男がいる部屋にはいる。

「兄貴大変です!」

「ああ、どうした」

「あの女がにげやした!」

「なんだと!」

 隣の部屋でガタガタと音がする。相当焦っているようだ。

「早く探せ! 逃がすな!」

 隣の部屋や廊下からたくさんの足音が聞こえて遠離っていく。呼吸を整えた彼はちょっとだけ外を覗き込む。辺りはシーンとしていて人が居る気配はない。隣の部屋を先ほどまでと同じようにして覗き込むと人はいなかった。

 深呼吸を一つ、身長に階段を覗き込むと彼はライリーに行こうと手をさしだした。彼の手を掴もうとしたライリーの眼がふっと丸く見開かれる。引きつった声が漏れるのに彼が後ろを向こうとした、それよりも早く。

 脇腹と頭に抉るような痛みが響き渡った。

 床に倒れる彼の腹の上、誰かの足が載る。

「逃げたと思ったらこんな奴といたとはな。お前もお前であんな目にあった後も助けに来るとは」

 バカにしたような、面白い茶番劇を見るようなそんな感じの声だった。止めてとライリーが叫ぶのに止めることを知らない。

 自分のお腹の上に載った男の足を見上げながら彼は冷静に考えていた。またここで彼女を連れ去られるわけにはいかない。そんな事は決してさせない。そして、男達を許すことも出来ない。人魚を捜すという男達は見逃すわけにはいかない存在に彼の中でなっていた。

 痺れる腕を僅かに動かし剣の柄にかける。男が隙を見せる瞬間を待っていた。

「ライリーよ。部屋に帰るぞ。勝手に何処か行こうとしてんじゃねえよ」

 ライリーの手を掴もうと男の体重が移動する。それが一番の隙だった

 乗っている足を柄に手を掛けてない片方の手でつかみ、男がこちらに気を取られた一瞬、強い力で払う。床を転がり距離をとり、起きあがり様に剣を振り抜く。男を狙った剣は上手い具合にかわされるが、ライリーから男を遠ざけるためには十分だった。ほんの僅かに触れた切っ先により、男の顔には赤い筋がついている。

 合図もなく彼はライリーの手を取り走り出す。出来るだけ自分に有利なようにと部屋を選び、大人数を相手にそこで戦い、隙が出来たらまた逃げ出して、別の有利なところで戦う。人の数と労力を減らすこの戦法は上手くいっており、今のところ彼らは無事だった。

 何度か彼女のもう良いという声が聞こえたけどそんな事出来る段階ではもう無かった。ただ倒す。倒さねばならぬ敵だった。

 敵を倒した数と同じように彼も怪我をしていくけれど、それでも剣を掴んだ手と彼女を掴む腕だけは同じ強さだ。ドロドロとした重いものが彼の中を少しずつむしばんでいくけど、守らなければ、勝たなければ、それでもその言葉が彼を動かした。

 男の仲間達の約五分の四以上を倒し終えたとき、彼はもうボロボロだった。ライリーが支えて出口へと向かう。

「大丈夫ですか」

 其れに答えるのはへらりとした笑顔。

 ふっと歩いている彼らのもとに新たな敵が入り込む。それは男だった。青皺を寄せて彼らを見ている。

「やっと見付けたぞ。よくもここまでしてくれたもんだな」

 前にでようと彼はした。だがそれを止めたのはライリーだ。

「もう、駄目です。傷が」

 でもと言いたげな瞳はこの場ではペンを持つ力さえもなくしてライリーを見ている。男も見ている。

「よくも私を」

 彼女のくちから強い音が出るのに男がちょっとだけ笑う。

「もしかして聞いたかあの話。残念だったな」

 男は皮肉として口にする。何が一番聞くのか分かっているのだ。

「まさか、勝手にいなくなったはずの親が本当は殺されていて、お前はその相手にお金を払っているんだからな」

 人を追いつめる笑み。誰のことも考えていない、己のことしか見ていないそんな笑みで男は笑った。可哀想にと歪めた口元で呟いた。

「全部、嘘だったのね」

「嫌々、アイツが仲間だったのは本当だぜ。といっても俺が脅してならせたんだけどよ。後の金がどうこう言うのは全部その場の作り話。お金が欲しかったもんでね」

「最低……」

「褒め言葉だ」

 涙が流れているのを見つめる瞳は楽しそうに歪んでいる。伸ばされる手を彼が遮る。

「そんな怪我をしながらよくやることだ」

 睨み付けてくる彼の瞳をあざける男。遮ってきた体の何処に攻撃を仕掛けようか見ていた。ボロボロの体は何処に攻撃を仕掛けようが大きなダメージになる。どうしたら一番いたぶれるのか、思い通りに行かないことだらけで溜まっていた鬱憤を晴らすため男は考えていた。

 残りの部下にも指示を加えて彼らを襲わせる。

「お前のせいでこっちの手駒もだいぶ減ったんだ。その恨みもついでに晴らせて貰うぜ」

 攻撃を仕掛けられるのに仕返していく。一人がライリーにめがけて鉄棒を振り下ろすのを刀で受け止め、弾く。空いた隙間に入り込む一人を足で蹴りつける。もう一人襲ってくるのを受け止めた時、視覚から襲ってきたのに気付かなかった。

 襲ってきた痛み。床に転がりながら急いで立ち上がる。彼女の悲鳴。

 包囲されたのに残りの力を振り絞った。立っているのは後ほんの数人。それらを床に転がしながら、男のもとへ向かった。

 右にいた相手を切り捨て、殴りかかってくる男の拳を受け止め、空いた脇腹に拳を叩き付ける。ふたり同時に襲ってきたのをちょっと避けることで相打ちに、止めに剣の鞘と肘で突く。辿り着いた男のもと、これで最後とばかりに力を込める彼と正反対に男は苦渋に満ちた顔をした。舌打ち一つ。

 男は懐に手を入れナイフを取り出した。

 そのナイフを突き上げてくるのを避ける。横にふった刀。受け止められ蹴りを入れられる。ふらりと揺れる体。もう一度真っ直ぐにナイフが彼を狙ってくる。

「だめ!」

 すぐ耳元で彼女の声が聞こえた。押し飛ばされた感覚。

 目をやれば彼がつい先ほどまでいたその場所にライリーが立っている。赤い血が噴き出していた。崩れ落ちていくのを咄嗟に支えながら、目の前が真っ赤に染まっていた。

 訳も分からず叫んだ。一番最初に目についたのは赤く濡れた刃を持つ男だった。襲ってこようとしてくる男。何も考えずに振るった刀は見事に男を切り裂いた。倒れ落ちる男を見向きもせずライリーに向き直る。良かったことに彼女の怪我は浅く、肩をほんの少しかする程度だった。

 それでも彼が安堵することは出来ない。

「大丈夫か!」

 心配で怒鳴るような声が出る。とても震えた何かを恐れる声。

「大丈夫。かすっただけだから……。それより、ファイレスさんは……」

「俺のことは良い!」

 己の心配をされるのを切り捨てる彼に、ライリーが笑いかけた。

「駄目ですよ。貴方の方が重傷なんですから……」

 笑いかけながら彼女がふっとその左手を彼の頬に滑らせた。柔らかな手の感触とそして何かぬるりとした感触。血かと一瞬怯えた彼に柔らかく微笑んだ彼女が言う。

「私は大丈夫です。だから泣かないで」

 ぬるりとした感触は血ではなく彼の涙だった。それを拭うライリーの目にも涙が溢れている。溢れている涙を拭う手は不思議と何も感じなかった。

「ありがとう……」

 ライリーが言葉にする。そして、そう言えばと少しだけ驚いた表情もまぜながら彼女は口にした。

「声、でましたね……」

 掠れた音に一瞬何を言われたのか分からなかった。

「あ……」

 音にならない音が漏れて彼は始めて気付いた。声が出ている。

 彼の声が出ている。


 “ポーアモア”が果たされた。


 真実誰かを愛し、誰かに愛され、それが始めて音になる。


 彼の目の前が暗くなった。



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