溺れていく
「ファイレス!」
響いた声にふり返り彼は優しく微笑んだ。それに嬉しそうに頬を染める姫。姫は彼の手を掴む。
「ねぇ。一緒に町に行きましょう」
「え?」
目をまん丸く見開いた彼に姫が楽しそうに飛び跳ねていた。彼の想像を予想していたのか、ニヤリと笑っていた。
「大臣にね許可を貰ったのよ。私だって城の中に毎日いるだけじゃ暇だもの。たまには外に行きたいわ」
「そうですか」
「そうよ。だから行きましょう」
笑った姫は彼の返事も待たずに先を行きだす。その後ろ姿を眩しい物を見るように彼は見つめていた。その瞳の中で見ているのは光とほんの少しの黒だった。
早くと手を振る姫のもとに向かった。
町の中で姫はいつになく楽しそうにはしゃいでいた。彼の手をしっかりと握り色々なところを巡っていくのだ。ひとしきり町の中を探索し終えれば二人は広場に来ていた。
「町って楽しいのね」
姫の言葉に彼は頷き、続いて真剣な表情になった。
「姫」
「どうしたの」
「今日はどうしてこの様なことを」
彼が聞いたのに姫の様子が一変する。姫の中から笑みが消え、不安なものにと。それは悪戯がばれて怒られるのを待つ子供のようだった。
「だって、ファイレスがどんなところで暮らしているのか知りたかったんだもの」
今にも泣き出しそうな姫の姿に彼は出来る限り優しい言葉を見せるようにしていた。
「だからと言って大臣に許可を貰ったなどと嘘を付いて」
「やっぱり分かったのね」
「街に姫を捜している兵がいましたので」
「そう」
彼を見る姫の瞳が切なげに微笑まれた。
「だってファイレスと一緒にいたかったんだもん」
「私はずっと姫の傍にいますよ」
「違うの」
「え?」
「違うのよ」
「姫」
彼の手を握る手はは柔らかな手の平の何処にこんな力があるのか疑うほど強く、そして下に向けられた瞳は悲しい色を浮かべていた。
「どうしました、姫」
「何でもないの」
何でもないと口にした姫は暫く掴んだ手を放さず佇んでいた。だが、顔を上げた時、彼女はにっこりと笑っていた。
「帰りましょう。満足したわ」
名残惜しくも手を放し、駆けだした姫を彼が追う。後ろを振り向いた姫がほんの僅かに苦しげに空を仰いだ。
「どこにもいかないよね」
姫が見つめる彼は立ち止まった姫に優しく微笑んでいた。その姿は昔と何処か違っていた。
人間界にやってきた彼はライリーの家に着いて目を見開いた。肺に吸い込まれた空気が重く汚らわしい。さらに玄関の扉が無造作に開き、そこから家の中が荒らされているのが見えたのだ。恐る恐る上がり込んだその家の中、物音が奥の扉から聞こえてきた。彼が急いで部屋の中に向かう。大きく乱暴な手つきで開け放った扉の奥には、倒れたタンスや机、それ以外何もない床の上にライリーが一人座り込んでいた。
ライリーは呆然としていて、大きな音を立てたというのに、部屋の中に入っていた彼に気付かない。何処か遠くを静かに見つめている瞳には涙が静かに流れていた。何かを恐れるようにその瞳は震えている。
彼はライリーの傍にすぐさま寄り添い彼女をそっと揺すった。彼女の視界の中に入り込み口先だけで彼女の名を呼ぶ。ハッと我に帰ったようにライリーの焦点が彼にあった。
「ファイレス……さん」
—どうしました。これは一体—
彼は手帳に書きながら彼女に優しくほほえみかけている。その笑みに合わせるようにライリーの目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
ごめんなさいと彼女の口は何度も嗚咽と共に言葉にした。何を謝られているのか分からないけど、彼は必死に彼女を宥めた。言葉など出せなくて、手帳に書いたところで今のライリーは読める状況ではなく、ただ背をさするだけの行動だったが少しでも彼女が落ち着けばいいとそればかり考えていた。
暫くして泣きやんだライリーに事の次第を聞こうとした彼だったが、結局詳しいことは何も話して貰えなかった。
彼女はちょっとしたことなのとただそれだけを口にして、何が起きたのかは決して話さなかった。
彼が手伝い元の位置に直した棚は軽く荷物という物が入っていないようだった。
「ありがとう」
まだ目に涙を溜めて微笑むライリーに彼も曖昧に笑う。
何も言って貰えないことが不服だった。何かがあったことは一目瞭然で彼女が悲しんでいることは泣いていることから分かって。その理由さえ教えて貰えれば、頼りにして貰えれば、彼は何があっても力になろうとするのに、何も分からない今の状況では助けになることなどできない。
助けたいのに。守りたいのに。
その事が辛かった。
曖昧に微笑む彼に彼女も悲しそうに笑う。何も言わないことに少しだけ罪悪感を感じて。
彼が吸い込む空気は重い。彼の好きな空気とはほど遠い。
それでも今、ここからは離れたくなかった。
それがどんな思いから来るものか何てまだ彼には分からない。
それから一週間近く彼はライリーの家にお世話になっていた。本来ならもう少し早く帰るのだが、最初の日のこともあり何か起きるのではないかと見張っていたのだ。だがあまり長いこと戻らなければ不審がられることもある。彼は仕方なく重い腰を上げた。
−また、近いうちに来るからー
そう書いた手帳にライリーが困ったように笑う。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。本当になにもなかったんです」
言って欲しいことを何も言ってくれないライリー。それでも仕方ないと思うのは彼と彼女が他人だから。人間とここまで一緒にいたのは初めてなのに、彼はライリーのことを何も知らない。彼自身も本当のことなど片手の指で数えられるぐらいしか話していない。結局他人でしかない関係。こんな関係で頼って欲しいというのも無理なのかもしれない。それでも守りたいと思う彼は精一杯の思いを手帳に書き記す。
—何かあったら言って。俺に出来ることなら力になる—
「……はい。ありがとうございます」
彼女の困ったような笑みに彼もやはり曖昧に笑うしかなかった。頼られないことは分かっていた。それでも少しぐらい……。
—じゃあ—
「お元気で」
—ああ—
簡単な別れの言葉。もっとここにいたいと去り際はいつも思う。
その言葉をいつものように飲み込んで彼は歩き出す。また、今度はいつ会えるだろうなんてそんな事考えながら。
溺れていくのをもう誰も止められなかったのかもしれない。
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