罪悪



—ありがとうございました—

 丁寧に書いた文字にライリーが寂しそうに笑う。

「礼を言われるようなことは何もしてないわ。……本当にもう大丈夫?」

—大丈夫です—

「そう」

 怪我は完治してやっと人魚の世界に帰れるようになった。喜んで良いはずなのに、何故か寂しさを感じる。名残惜しく言葉を書いた。

—いつか礼をしにくる—

「そんなの」

—気持ちだから—

 用意していた言葉を見せるとライリーは言葉を止めた。彼はその事に満足げに笑った。

—ありがとう—

 もう一度書いた文字。その下に付け足す。

—さよなら—




 人魚の世界に帰ると、なかなか帰ってこなかった彼に周りは大騒動となっていた。人間世界で何か恐ろしいことが起きているのではないかと不安で怯えていたのだ。帰ってきた彼に周りの兵が殺到した。 周りによってくる人たちに彼は心配を掛けないように笑う。「大丈夫。何もなかったよ。ただ出先で怪我を負ってしまって帰るに帰れなかっただけだ」 出来る限り心配を掛けないようにしようと思いつつも、不自然な時間を説明するにはそれしか方法はなかった。皆が口々に怪我をしたことに何かあったのではないかと心配するのを抑え、彼は笑いかける。「心配しなくても良い。ちょっと人間のごたごたに巻き込まれただけだ。ここに人間が来ることはない」

 彼がそう言うと周りはやっと落ち着いてくる。実際はそうではなく、ここを狙っている人間達がいたのだけれど、そんな事は言う必要はない。穏やかに暮らすことを望んでいる平和者の彼らを無意味に怯えさせて何になる。ここにいるのは言われるままに城と国を守り、普通の暮らしを過ごす、一般の人魚だ。こんな話は人魚の世界を治め守る役割を持つ姫やその姫の手助けをする城の大臣達にすれば良いだけのこと。

「怪我、大丈夫でしたか」

「もし何かあれば言って下さい」

「僕等に出来ることなら何でもします」

 キラキラと見つめてくる瞳にああと笑いながら、周りの兵士達としばらく話した。

 それはたわいもないことだった。

「彼がいなかった間の人魚の国の様子」や「何か変わったことはなかったか」から、「稽古の話」「今度稽古をつける約束」「人間界はどんなところなのか」。たわいもない話をしながら彼はいつも通りの日常に安堵した。本当のところ、彼は恐れていたのだ。長い間、帰らなかったうちに、彼の居場所がなくなっているのではないかと。疑われているのではないかと、心配していたのだ。

 帰るのがほんの少しだけ恐かった。

 それなのに、久しぶりに帰ってきた彼に、周りは前と変わらず接し、疑われていることもない。心配していてくれた瞳。まだ幼く新入りや自分より下のものが大半だとしても己の素性を知らぬ訳でもない。それでもこうやって懐いてくれていることに、彼は嬉しさとほんの少しの棘を胸の内に抱える。

 こんな己を待っていてくれた。

 立ち話を続けていると、兵達の間を縫い、伝令の兵がやってきた。

「アクア様。姫と大臣の方々がお呼びです。

 その時彼は来たかと思った。

 憂鬱と言うほどではないが、胸の中重くのしかかる。

 伝令と共に姫と大臣の待つ謁見の場に彼は急いだ。

「アクア様をお連れしました」

 重い扉の前で兵が声を張り上げる。中から聞こえてきた凛とした声での返事に扉が開いた。

 珊瑚に貝殻、海の秘宝達で出来た謁見の場の中、中央の座にはたくさんの物を抱え込む海の中でも、とりわけ大きく美しい真珠貝の椅子に座り姫が彼を待っていた。傍には大勢の大臣が控えている。

 ここまで連れてきた兵が敬礼をして下がると姫がホッと息を吐いた。

「姫様。肩の力を落とすのはまだ早いですよ」

「はい!」

 肩に力を入れ直す姫にほんのすこしほっこりとしながら、彼は周りを見据えた。

「遅かったな。人間界はどうだった」

 一人の大臣が聞くと周りは一本の線を張りつめたように緊張する。

「ここを探している者がいましたが、全員倒したため問題はないでしょう。ただ、その際に負傷してしまい、帰るのが遅くなりました」

「そうか」

「本当に大丈夫なのか」

「何かその件に関して、他に報告するようなことは」

「他にここの暮らしを脅かす物はないか」

 次々と言われる言葉に彼は一つ一つ返した。

「はい。特にその件について他に話すべきことはありません。……他にはないと思いますが、最初にも言いましたが、負傷していたため動けず十分な調査をすることが出来ませんでした。また今度行って調査してきましょう」

「頼んだぞ」

「はい」

 その後、人間界、人魚の国の情報を報告しあい、全ての報告を終えると退出を命じられた。だが、姫の声がそれを止める。

「すこしはなしたいわ。大臣達、下がっていて頂戴」

「かしこまりました」

 彼の代わりに大臣達が外に出ると、今度こそ姫の肩の力が全て抜けた。口を真一文字に結び、真剣な様を形作っていたのがバラバラに崩れて泣き出しそうな顔が現れた。それは刹那の出来事で、彼が目を見開く間に唇をへの字に引き結び、目を少しつり上げた拗ねた表情に変わっていた。

「遅いわ」

 固い声が彼を詰る。その言葉を聞けば彼は泣き出しそうな表情の意味を悟った。心配をかけすぎたのだ。

「申し訳ございません」

 彼が謝るも姫の表情は変わらない。我が儘を言う子供に似た固い声が彼女の口からは出る。

「怪我をしても戻ってきたら良かったのよ。それとも動けないほどに酷い怪我だったの」

「いいえ。ただ人間界での傷は汚れになりますので」

「そんなの」

 姫が言おうとしたのは「気にする必要はない」か、「大丈夫でしょう」か。どちらにしてもその先の言葉を言うことは出来なかった。静かな瞳で彼が見つめ、真剣なその様子に彼女は何も言えないのだ。その顔が悔しそうに歪む。姫の言葉を奪いながら、彼の心は痛んでいた。

 汚いと自分で分かっている。

 人間から受けた傷は確かに毒になるが、だが帰れないほどではなかった。あの程度なら汚染することなく、自然と浄化され、怪我も早く治ったことだろう。帰ってこなかったのはだからそれが理由ではない。だけど本当のことは言えないから誤魔化すのだ。

 人魚は人間を嫌う。

 人間にお世話になったなど間違っても口にしてはいけない。

「申し訳ございません」

 拗ねた表情のままの姫に謝れど、彼女は一向にその顔をくずそうとはしなかった。

「許さないわ」

 小さな声が漏れた。彼は一度聞き返した。姫から漏れた言葉が予想外の物だったのだ。

「許さないとは?」

「そのままの意味よ。許さないの」

 幼い口調で姫が言う

。「こんなに心配させて、ごめんだけじゃ許さないの。罰として明日から一週間、毎日私のところに来なさい。これは命令よ」

 精一杯彼を睨み付け、胸を張り威厳を持って言葉にするが、彼にはそれが幼い姫のただの我が儘であることが分かっていた。寂しがり屋の姫が傍にいて欲しいと願っているだけだと。そんなこと言わなくても彼は、人間界に行かない間は毎日、姫のもとに通うのだけど、それだけでは不安なのだ。

「承知致しました」

 彼が微笑んで言うと、やっとのこと拗ねた表情が消え、口元が綻んだ。

「絶対よ」

 念を押す姫に彼が頷く。

 頷きを確認した姫は息を吐いて椅子に深く座り込む。彼を見て泣き出しそうな目になった。

「本当にね、心配したのよ」

 湿った声だった。これは駄目だと警鐘が鳴り響く。

「何かあったんじゃないのかって。殺されたりしてないかって」

 姫の目が潤んでいく。たくさん心配掛けたことはここに帰ってくる前から分かっていた。もしかしたら泣かれるかもしれないと思っていた。だが、実際泣かれるのと考えるのでは違う。

 姫の頬を大粒の涙が滑り落ちてくるのに、彼は胸を握りしめられる思いだった。

 出来ることなら姫の涙は見たくなかった。心配を掛けたくない、悲しい思いをさせたくない、泣いていて欲しくない。

 そんな姿を見ると彼はどうして良いのか分からないのだ。どう声を掛ければいいのか。どう傍にいればいいのか。分からなくて戸惑ってどうすることも出来ない。だから出来る限り見たくなかった。それに、そうじゃなくても見たくない。もう見ないと誓った。

 誓ったはずなのに、姫を泣かせてしまって彼にはどうにも出来ない思いだった。

 一番最低だと思うのは、それでも本当のことを言えないことと、ライリーとの日々を心地良かったと思ってしまっていること。

 胸の奥に罪悪感がつまっている。

「申し訳ございません」

 それしか言葉に出来なくて、口から出すと何とも陳腐な音だった。こんなのではとうてい泣きやますことなどできない。それでもそれしか持たない。 姫が苦しそうに彼を見ていた。

「いいの。仕方ないことだって分かってるから。この国のことを考えてだって。人間界に行くのだって仕方ないことなんだって分かってるの。でも、でも辛いの」

 ぽろぽろと流れる涙に彼は唇を噛みしめる。そうではない。そうではなかった。

 人間界に行くのはそれは仕方ないことだ。でも、彼が長い間帰ってこなかったのはこの国のことを考えてではなかった。早く帰らなければならないと分かっていたのに。握りしめられた腕を振り払わなければならないと分かっていたのに。それが出来なかったのは彼自身の責任だ。

 姫が泣いている。

 どうしたらいいのか分からない。

「おねがい。お願いよ」

 漏れ聞こえるか細い声に彼は何度も頷いた。それしかできなかった。

「いなくならないで」

 彼女が落とす言葉はまるでハンマーのようだった。彼の心臓は叩かれ、吹き飛ばされ、止まってしまうようだった。

「何があっても絶対に帰ってきて。ずっと私の傍にいて」

 涙を流す姫に彼ははいと答えた。

 でもその言葉を言うのにとても時間を要した。自分が何か途轍もない間違いを、途轍もなく恐ろしいことをしているような気がして、なかなか口から外に出て行かなかった。

 その事がさらに彼を苦しめた。

 胸が、心が、割れそうなほど痛かった。

 自分はここにいなくては行けないのだと解っているのに、何かが否定しようとしていた。顔を無意識に歪めた彼に姫が声を掛けた。

「どうしたの」

「え?」

「辛そうな顔をしてる。……いや? 私は嫌い」

 止まり掛けていた涙をさらに流しそうになりながら姫が問うのに彼は違うと首を振った。

「姫が嫌いなど、あるわけございません。ただ、とても悲しい思いをさせたのだと思うと苦しくなったのですよ」

「そう……。気にしなくて良いのよ。でも、もう嫌よ。いなくなちゃうんじゃないかと思うととても恐いの」

 よく言えたものだと思った。出来る限り嘘は言いたくないと今まで生きてきたのに、此処に来てたくさんの嘘を付いている。一体何がどうしているのか。零れていく涙を見て考える。

 姫の言葉は良く分かる。姫が恐れている事を知っている。姫が恐れているのは大事な人が居なくなること。失ってしまうこと。それは幼い頃からの姫のトラウマだ。だから、彼は姫の傍にずっと居てあげなければならない。もう泣かすことがないように。 覚悟を決めて彼は微笑んだ。

「解っています。ずっと傍にいます。では、私は少し大臣と話があるので外に出ますね」

「ええ。私も少ししたら自室に戻るわ。大臣達に伝えていてくれるかしら」

「分かりました」

 外に出ると一人の大臣が彼を待っていた。大臣達の中では一番偉い者だ。彼が敬礼をすると大臣は険しい目を向けた。

「姫とは何を」

「とても心配していたと。それだけを話しましたが」

「そうか」

 問われたことに答えても大臣はまだ疑うように彼を見る。仕方ないと分かっているので彼はその目線の中耐えた。彼は今までたくさんの覚悟を決めてきた。先もまた決めてきた。姫が望む限りずっとそばに居ると。泣かせはしないと。

だけど、そう決意しても彼の中にどうしようもない思いがある。望んでしまう事がある。もう一度あの娘に会いたい。お礼を言うだけ、そうそれだけだと何度も己に言い聞かせながら彼は息を整えた。これから言うことがいかに自分勝手なことか分かっている。

「大臣」

固い声に訝しく眉を寄せ大臣は何だと問うた。

「これから言うことは混乱を招くため他言無用にしていただきたいのですがよろしいでしょうか」

真剣なようすの彼には大臣も同じような表情となった。

「どうした」

「実はある大規模なグループがこの世界のことを探っており、人魚を狙っています」

「誠か」

驚いた大臣の表情は大きく見開かれた目に、わずかに青ざめて彼に罪悪感を思い起こさせた。彼がいたことは嘘であり、人間界にいくための彼の身勝手な思いの塊なのだ。

「はい。調査のために人間界に定期的に出掛けてみましょう。出来れば己一人で解決できればと思っております」

「そうか。はっきり言うとこの国には戦えるようなものはすくない。頼って良いか」

「はい」

「この国の平和が奪われるわけにはいかない」

「はい」

固い声で返事をしながら彼は知っている。そんな時はまだ来ないと。これは嘘だと。それでも彼は彼女に会いたくて……。そして、そんなことを思いながら彼は、そんな事を思う自分に嫌気を感じるのだ。

 何故、己が暮らしている、己が暮らすべきこの場所で満足できないのかと。何故、尽きたくもない嘘まで付いて別の場所に行こうとするのかと。

 姫が泣いていたのを思い出す。

 己は姫の傍にいなくてはいけない。そこ以外のどの場所にも行けるはずがない。それなのに別の場所に行こうとする己はどれだけ愚かなのか。

 彼の胸を重い罪悪感が絞めていた。



 翌日彼は姫のもとに訪れた。

 彼を見た瞬間姫は嬉しそうにわらって飛びかかる。いつもより尚過敏な喜びようにいかに己が心配させていたのかを知った。

 それでももう何も止まれない。



 のし掛かり溢れてくる黒くもやもやとした感情は収まりそうになかった。

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