ライリー

 淡い夢を見ていた。姫が笑っており、その回りには姫の母や父たくさんのものが居る。皆、幸せそうで……。ただ一つ、その中には彼がいない。

 その事が彼の心を穏やかにさせた。出来ることならこうあって欲しいと願った願望の形だった。けれど真実は残酷でこんな世界はもう二度と訪れやしない。時間は巻き戻せない。

 だから、彼は自分の何を犠牲にしても姫を幸せにしなくてはならない。罪を償わなくてはいけなかった。

 夢の中で姫が笑っている。





「大丈夫ですか」

 瞼に当たるかすかな光に目を覚まし、瞼を持ち上げると見知らぬ天井が見えた。白色のやや焼けた天井。鼻から入り込んだ空気は少し重くて人間界独特のものだった。その中にほんの少しだけ明るく胸を好くような香りが交じっている。

 呆然と天井を見上げる彼に先ほどの問いが投げかけられた。声は少し高い女のもの。目線を天井から少しずらせばそこに男に掴まっていた女の姿がある。幼い顔立ちをした少女自体の優しさが伝わるような女だ。色の抜けた赤茶色の髪が緩い癖を作っている。

 問いに対する答えがだせないでいると、女の方が動き出した。その動きに僅かに警戒を持つ彼を余所に、彼の額に手を伸ばしそこからまだ少し冷たい白いお手ふきを取った少女はそのままにっこりと微笑んだ。立ち上がろうとする彼を手で押さえる。

「まだ、動いては駄目です。起きあがるなんて無理です」

 女が言う通り彼の体はまだ動くことは出来そうになかった。起きあがろうと僅かに身を捻っただけでずきずきとした痛みが体を襲う。目線を傾け覗き込んだ彼の体には白い包帯が巻かれ痛々しいものとなっていた。

 痛みに耐えながら驚いている彼に女はそっと微笑んだ。

「私はライリー・ホールホックと言います。あなたは」

 問いかけに答える言葉を持たない彼は困ったような笑みを浮かべた。

「ぁ、言いたくないんでしたら、別に良いんです。でも、暫く動けないでしょうから、誰か伝えなくてはいけない人とかいらっしゃいませんか?」

 その問いにも答えないでいると女の方が困った様子を見せた。小さく首を傾げて口元を少しだけ歪ませて笑う。

「えっと……。ぁ、のど乾いたでしょう。水持ってきますね」

 そう言って一歩引こうとする女の手を彼は取った。驚いた顔をする女を安心させるように笑い、その手の平を人差し指でそっとなぞった。

 先ほどまでの様子は全て女を試すものだった。本当にいい人なのか。このまま施しを受けても良いのか。名前をしつこく尋ねるようならそれはアウトだった。だけど彼女はそっと、後ろに引いて困ったように笑いながらも、その瞳の中には心配の色の方が多かった。

 だから大丈夫だと判断した。

 人差し指で文字を書く。女は手の平に神経をやっている。支えている左手から女の手に力が入っていることが分かった。

「ファイレス・アクアさん、でしょうか?」

 女が呼んだ彼の名に頷く。 そうすると女がホッとしたように微笑んで、次の瞬間には悲しげな様子を見せた。この後に言われる言葉を分かっている。

「声、出せないんですか」

 同情されるようなその瞳の色。ほんのりと悲しく染められたそれに首を縦に振る。

 女がにっこりと笑った。

「じゃあ、筆と紙を用意しておきますね。何か用があればそれに書いてお伝え下さい」

 にこやかに笑う女に裏はなく、彼女は柔らかい手つきで彼の布団をかけ直した。

「では、もう暫く眠っていて下さい。傷も深いですし、熱も出ているので。次に起きたらご飯にしましょうか。二日も眠っていたのでお腹すいているでしょう。好きな食べ物ありますか」

 差し出された手の平は彼からの答えを待っている。体を少しだけずらしてその手の平に文字を滑らせた。

「そうですか。分かりました。では寝ていて下さいね」

 言い残して去っていた女の背を追い掛け吐息を付いた。

 見上げた天井。質は良いと言えないが優しい太陽の匂いが仄かに薫るふかふかの布団。目線だけで見渡す部屋の中は、棚が一つと机があるだけの質素なもの。綺麗に掃除されており清潔感が溢れている。大きな窓が一つあり、外の景色がよく見えた。外には大きな木が一本生えている。太い幹を持ち真っ直ぐに天に伸びる力強い木。窓の傍には控えめな花が花瓶に生けられ、風にそよそよと揺れていた。周りの壁は優しい白、床に敷かれた絨毯はベージュ色とクリーム色のシンプルなものだった。どれも仄かに焼けていて古く優しい色をしていた。柔らかな雰囲気の居心地の良い空間。肺に吸い込んだ空気に彼はほぅとため息を吐いた。

 入り込んでくる暖かな光に誘われてやってきた眠気。彼はゆっくりと眠りに落ちていた。






 ふんわりと良い匂いが彼を覚醒させた。

 目を開けるとそこにライリーの姿があり、彼を見ると笑みを浮かべた。

「ぁ、おはようございます。丁度今、食事の用意が出来たんですよ」

 ライリーが手に持つお椀の載ったお盆を見て、薫ってきた良い匂いのもとを知った。食欲をそそるおいしそうな匂いだった。

「起きあがれますか?」

 手を貸してくれるライリーにありがたく頼りながら起きあがるとすぐに背中と壁の間に折りたたまれた布団を差し込まれた。柔らかいそこにもたれると痛む体も少しは楽だった。

 礼を言おうと手を挙げると、その動きを察知したライリーは一旦、両手に持っていたお盆を置き、筆と手帳を手にした。

「はい、これ。何かあったらこれに書いてくださいね。あ、でも左肩怪我しているので持てませんよね。ぺんどうぞ。手帳の方は私が抑えておくので。それから後で使いそうな言葉は書いておきますね」

 開かれた手帳は多少古いものだが十分使えるもので最初の方こそ何か書かれていたが、ページはたくさん残っていた。手渡されたペンも古く長い間愛用されていた気配を感じた。ライリーが書きやすい位置に支えてくれている手帳に文字を書いていく。少し書きづらかったが、角張った丁寧な文字が書き記された。

—ありがとう—

「いえ、お礼を言われるようなことはしていませんから。それに……、私の方こそ助けていただきありがとうございました」

—いや、それこそ—  

そこまで書いた文字。さらに書こうと手を動かすが、ライリーに遮られた。目元は伏せられ、申し訳なさそうな顔だった。

「怪我までさせてしまって申し訳ございませんでした。怪我が癒えるまではここに居てくださって良いですからね。……ただ誰かに連絡する必要とかはありませんか? あるようなら私が行きますけど」

—いや、大丈夫です。……迷惑になりませんか?—

「大丈夫です。心配しないでください。それより、ご飯にしましょうか」





  彼はほうとため息を吐いた。人間界に来てから三週間ちかくも経ってしまっている。今までで一番長い滞在期間にそろそろ人魚の世界の者がそわそわし始めている頃だろう。姫も心配している。早く帰らなければと思う。

 だけど体の怪我が思うように治らず、ライリーの家でまだ過ごしている。自由には動けるようになり、何度かもう良いとライリーに話したのだが、彼の怪我に責任を感じているライリーに是非とも治るまで看病させて欲しいと頼まれ、それをふりほどけないでいた。

 彼に与えられた客室の中で故郷を思いため息を吐く。

 動けるならと今までやって貰った分少しでも返そうとライリーの手伝いを申し出ても全て断られ、やることもなく暇をもてあましていた。

 動けないこと、帰れないこと。彼の心を少しずつ憂鬱にさせていくはずだった。

 コンコンとノックの音が聞こえる。

 そして中に入ってきたライリーは男を見ると笑った。

「具合はどうですか。痛くないですか」

—大丈夫—  

あらかじめ用意されていたページを見せると女はホッとした様子を見せる。

「もし痛んだりしたら言って下さいね。それから部屋の中だけじゃなく、家の中なら自由に動いて下さって構いませんよ。ずっとここにいますけど気にしないでくれて良いんですからね」

—ありがとう—

「お礼を言われるような事じゃありませんよ。ぁ、窓を開けますね」

 窓に行こうとしたライリーの手をハッとした男が掴んだ。目を見開くライリーに男が困ったように笑った。

「どうしました」

 問われる問いに手帳とペンを取り出す。文字を書こうとすれば、動けない左腕の代わりに何を言わなくても彼女が手帳を支えてくれる。

—窓は開けなくていい—

「え? でも匂いが溜まって気分が悪くなったりしませんか?」

—そんな事ない—

「それなら、良いですけど……」

 そう言いながらもライリーは納得している様子はなかった。それもそのはず彼が目を覚ましてからずっとこの部屋の窓は開かれることがないのだ。彼が開けようとしなかったし、開けようとするライリーを今日のように何度も止めた。

 確かに空気が淀んでいるのは何となく感じるけど、この部屋、家事態の空気はとても綺麗ですんでいて、嘘のない明るい空気だった。そこに外からやってくる汚さや欲望、嘘の交じった空気を合わせるのがいやだったのだ  この家は彼女を中心とした世界として機能していた。空気が淀み蒸したこの部屋、それなのに外よりも落ち着き、居心地の良さを感じている。

 何よりも彼女が部屋に入ってきた瞬間に空気が変わる。柔らかな色の付いた空気が肺の中を満たす。

 ライリーは嘘のない少女だった。欲もなく、誰かのためにを実践とするような優しい少女だった。その回りには優しい空気しか存在しない。人間であることが不思議なくらい心根が綺麗だった。  

ふわりと笑う笑顔に癒されていく。

 動けないこと、帰れないこと。その事に憂鬱になっていくはずなのに。実際にはそんな事を感じる暇もなかった。

 下手したら人魚の国よりも落ち着いた日々を彼は送っていた。

 ライリーが笑う。

 先ほどまで干していて取り込んだばかりの布団をベッドに敷いて、それから彼を見る。

「私、これから出掛けてきますね。少しの間ですけど、お留守番頼んでも宜しいでしょうか」

—ああ—

「ありがとうございます」

 部屋の中から出て行く彼女を追い掛けたい気持ちを必死で押し込んで見送った。ライリーは毎日この時間と朝の早い時間、それからひる頃の三回に分けて出掛けていた。何をしているのかは分からないけど、働いていることは間違いない。彼女の父と母はもうこの世にはいないようで、少しばかり広いこの家にライリーは独りで住んでいた。

 特に寂しくはないと本人はいっていたが、果たしてそうなのだろうかと彼は思う。暫くここで厄介になっていて分かるのだが、この家は外の音があまり聞こえないので、夜などは本当に静かだ。まだ二人家の中にいるから何となく音がするような気もするが、一人になれば嫌がおうにも静寂が支配することとなるだろう。

 音がないのは思う以上に寂しいことだ。

 彼はそれを知っている。だから、こんな広い家で一人でいるというライリーのことに僅かに同情してしまう己がいた。

 外の景色を見ながら彼はため息を吐く。花瓶の中で小振りの花が咲き誇っていた。

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