人間の世界

 人間界は危険な場所だった。彼ら人魚にとって……。

 人魚の存在は人間界では伝説として語られているが、それでも信じている者は大勢おり、人魚を奴隷にし、あまつさえ食そうとする者もいる。

 それゆえ、人魚の国の存在はばれてはいけなかった。もしばれたら人魚が刈り尽くされてしまう。それだけでなく、人魚は神聖を尊ぶ。人魚の国は清らかでなくてはならない。そこに欲にまみれた人間が来れば、人所の国は汚染され、生きることのできない場所になる。

 人間にばれることは人魚の国の危機だった。

 故に人魚は定期的人間界に使者を送り、人魚の国に近付く者がいないか偵察していた。

 彼はその役を受け持っている。

人間の世界には危険が満ち溢れており、そこで命を落とす者もいる。姫は彼がその役を受け持っている事を大変嫌っているが、平和な人魚の国は兵士も平和ボケしている者が多く、この様な危険な任務を受け持つ事が出来る者は限られていた。だから彼がかり出されるのは仕方ない事で、さらにもう一つ彼にはかり出される理由があった。彼が抱える罪は許されない。だから、許されなくても精一杯人魚の国に貢献しなければならない。これは彼自身の意志でもあった。

毎回行くたびに姫を悲しませる事には彼も胸を痛ませるがそれも仕方のない事だった。




 そうして上がってきた人間界。

陸地で彼は息を吸うと、突端に顔を歪めた。何度も上がってきたことはあるが、人間界のこの空気だけはどうしても慣れなかった。人魚の世界とは違うドロドロとした空気。欲望や愛情、虚無、憎しみ、慈しみ、哀しみ、苦しみ。そんな物が全てまぜこぜになった独特の空気だった。

 何度か息を繰り返しやっと普通に息が出来る様になった頃、男は小さな小瓶を手にした。その小瓶の中身を飲み込み男は軽く噎せる。

 喉が焼けるように痛み出す。それと同じくして身体中が火照り始めた。徐々に鰭が痛み出す。裂ける様な痛みに彼は叫びを上げ出しそうになる。耐えるように蹲る彼の尾が次第に裂け始め、気付けば二本の足になった。

 人魚の魔女が作った薬、“ポーアモア”。

 その解毒剤があるのを確かめてから彼は立ち上がった。足がずきずきと痛い。何度やっても最初のこの痛みには慣れない。出来たばかりの足は違和感を伝え、地面を歩いた事のない柔らかさが地面の感触を直に伝え痛みを生み出す。彼はそれを堪えて歩き出した。時期にこの痛みにも慣れる。

彼は近くの洞穴に入り、そこに隠してある服を纏った。

 “ポーアモア”

 その薬を飲んだものは人間になる。但し、普通の者では声を失ってしまう。声を失わない方法は誰かを愛し愛されること。

 ファイレスの声が出ないことは誰にも秘密のことだった。姫は彼のことを愛してくれている。だから、彼の声が出ないのは、彼が姫を愛していないからだった。

 そんな事が知られたら、彼は不敬罪に捕らわれるだろう。だが秘密にするのはそれが原因ではない。姫が悲しむから。

 声が出ないことに罪悪感を抱えながら、彼は陸地を歩き出した。



 彼が来たのは港の国の都だった。栄えているそこを人の話に耳を傾けながら歩く。何処に行くのかさえ決めていなかった。ただふらふらと歩き、情報を集めている。市場でも見、買いながら、耳は誰かの話を拾う。きな臭い話はきな臭い場所に。彼は夜の町を歩き、悪人が集う裏の酒場に入り込む。話を集めていた彼の耳にとある話が入り込んできた。

 それは都の東街の方を縄張りとしている盗賊団達が人魚の国を狙っているという話だった。その話を聞いて彼は腰を上げた。行かなければならなかった。




 東街にやってきた彼は、そこで一回情報を集めてから、その盗賊団の集まる廃墟へと足を運んだ。その途中いくつかの場所に隠している刀の一つを拾っていた。怪しきは罰せよ。少しでも怪しいと思った奴は人魚の国のため一度倒しておくのが兵としての役割だった。

 入り口付近には隠れてはいるが見張りが居て、すぐにその場所と言うことが分かる。最初は不慣れな観光客を装いその辺りを彷徨った。建物形状に内部の構造、人がどれくらい居るのか、どこら辺に多く集まっているのか。それらを全て予想してから彼は動いた。見張りに気付かれないように入り口付近に近付き、自分の居る方向とは反対に石を投げた。石が跳ねる音に反応して、そちらをむく見張り達のすきをついて距離を詰めると、首筋への手刀、脇腹への膝蹴りによって沈めていた。

 そのまま中へと侵入して気付かれないように、盗賊団のボスの居場所を探した。程なくしてそこは見つかった。

 その部屋の前で軽く息を吸い込み整える踏み込んだ部屋。複数の男が驚いたような顔で彼を見た。

「何もんだ! どうやって此処に入ってきた」

 彼はその問いに答えず周りを見渡した。そこにいる人びとを睨み付ける。

「黙りか殺されてぇのか」

 黙ったままの彼に周りがしびれを切らす。

「何もいわねえつもりならそれでもいい。どうせお前は死ぬだけなんだからな。おい、みんなやるぞ」

「おうよ!」

 周りから集まってくる人。囲まれた彼は腰に差していた刀を握りしめた。だけど鞘から抜くことはしない。静かに彼が構えるのに男達が各々の武器を持ち襲っていた。身を小さく沈め人の隙間から円の外へと出る。先ほどまで彼がいた場所に振り下ろされようとしていた武器達は標的を失い仲間を傷つけていた。小さな場所にたくさんの人がもみあい固まりになっている。もみ合いに参加しないですんだ、幾人かが彼の方に武器を向けている。

 掛かってくる攻撃を綺麗に避けたり、受け止めたり。時に自分に向けて狙われた攻撃を別の人に受けさせながら最小限の動きで彼は動いた。かなりのかずいた男達が殆ど倒れている。

 元々狭い部屋で戦う場合は大人数よりも少数の方が有利となる。そこを上手くついた男の動きだった。

 まだ立っている残りの数人に目を合わせながら彼は呼吸を整える。

 ここから先は先までのようにはいかない。怒りに歪んでいる男達の顔。襲ってくるのを避けながら彼は足下を気にした。倒れた人が転がっている。だが、それ以上に彼が気にしたのは床に落ちている“血”だった。

 人間の血は人魚にとっては毒だ。人間の血に触れれば触れた部分は皮膚が爛れ、その部分から身体中に毒が回っていく。人間の中に渦巻く毒が神聖を尊ぶ人魚にとって最大の敵だった。

 血が所々床に落ちている部屋から彼は一旦外に出た。これ以上この場所での戦いは危険だと判断した。追い掛けてくる男達。廃墟の狭い廊下は彼に対して有利に働いた。数人で襲ってくることは出来ず、良くて二人が彼の前に立つ。流れるような動きで敵を倒していく。



 最後の一人を倒した。彼は静かになった建物の中、浅い息を繰り返す。

 倒れている男達を見ながら、何処かに動けないように縛る丈夫な縄がないかを探した。建物の奥の方でそれを見付けて、男達を縛り上げていく。途中彼は何処かに引っかかりを覚えた。

 たくさんの人が倒れているため、正確なところは覚えていないがたりない気がしたのだ。彼がどうだったかと思い出しているとき、悲鳴が聞こえてきた。

 甲高い女の悲鳴。

 縛っている手を止め、急いで悲鳴のしたところ、外へと向かった。そこでは一人の男が女を押さえつけ刃物を向けているところだった。男は彼を見るとびくりと肩を震わせる。彼が建物の中で倒した男達のうちの一人だった。意識を取り返した男は彼が縄を探している隙に一旦外へ逃げ出していたのだろう。わざわざ女を人質にして戻ってきたのは仲間のためか。

「おい」

 男の震えながらも勝利を確証した声が聞こえる。

「この女が痛い目に遭うのを見たくなかったら動くなよ」

 彼は動けなかった。男の手の中で女が暴れている。女は今にも恐怖で泣き出しそうな顔をしていた。

 どうすればいいのか考える彼の背後から足音が聞こえてきた。ふり返ると数人の男の姿。ニヤリと残虐に笑った口元。振り下ろされる手。

 重い何かが彼の頭に当たり、頭が割れるほどの痛みと衝撃に膝が地面に付いた。背中を男達に蹴られ、体全体が地面に付く。前からも容赦なく蹴られる。蹴り続けた男達のうち、一人が刃物を手に取った。それが振り下ろされる。咄嗟に避けた彼だが、横になっている状態では上手くいかず、肩先に刃がのめり込んだ。痛みが体中を襲う。それよりも入り込んだ刃の異物感。そこから入り込んでくるドロドロとした毒にも似た感情の固まり。意識が遠のきそうだった。

 それでも何とか歯を食いしばる彼の耳に女の悲鳴が入り込んだ。

 見れば女が男の手から逃れようと今まで以上に暴れている。必死で抵抗する女に男の手が緩んだ。その隙を彼は見逃さなかった。

 刀の鞘を飛ばす。

 男の足に当たったそれは、暴れる女を抑えるのに体重が崩れかけていた男を倒れさせるのには十分だった。男が地面へ倒れていく。女を掴んでいるため受け身も取れない。頭を地面にぶつけた男はそのまま気絶し、女は男を下敷きとしたため無傷だった。

 目を丸くする男達。

 痛む体を無理矢理持ち上げ、刀の柄で一人の腹を突く。残りの男も倒した。

 ぐらつく体を刀を支えにして立ち上がらせる。掴まっていた女が駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか」

 女の顔が彼の瞳に映った。

 涙をたたえた真っ黒な瞳。

 そこで彼は意識を失った。

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