泡
わたちょ
騎士と姫
潮の匂い。辺りは仄かに蒼く、太陽の光ではないけれど、確かな自然の光が周りを照らしてくる。蒼い膜のような天を見上げて男は目を細めた。
ここは海の中。水の世界……。
人魚の国だった。
たくさんの人魚が穏やかに暮らす国。男はこの国の騎士、名をファイレス・アクア。
彼は人魚の国の姫と婚約中の身でもあり、ゆくゆくは王となる立場のものだった。
騎士と姫の恋物語。
おなごなら夢見る話であり、男ならば誰もが羨むことであろう。だが、海の町を泳いでいる彼にはその事がとても重いモノとしてのし掛かっていた。結婚するのは後一年したらと姫との話、さらには大臣達の意向で決められている。もう少ししたら普通の者からは垂涎の的であろうものが待っている。
だけど、ファイレスはそれを喜べない。
他に好きな人が居るわけでも、まして姫が嫌いなわけでもない。自分を慕い真っ直ぐな愛を向けてくる姫は確かに好ましく、愛しく感じている。王になるのは色々としきたりに捕らわれて面倒なことだが、それでもそれが嫌なわけではない。
ただ、本当にただ、これで良いのかと思ってしまうのだ。
彼は自分に未来があるとは思わない。だけれど、まだ幼い十八の姫にはこれから先の未来があり、もっと良い選択肢があるのではないかと思うのだ。
何も己のようなものと……、と何度も考えてしまう。
だが男はそれを姫に言うことはしない。他の誰にも言わない。これは彼にとって義務であり、償いなのだ。それに付き合わせていることを心悪く思い続けるが、とうの姫がそれを了承し、いや、望んでいる以上はどうしようもない。
幼い頃から、己の罪を償うために姫の傍に居、姫を助けてきた彼。ある時、姫に告白された。その時、彼は覚悟した。これが己の道なのだと。
それでも彼には未来がなくとも、姫に未来はある。
こんなに早く結婚して良いのだろうかと思う。この先もし別の本当の意味で好きな人が現れたとき、どうするのだろうかと。
その時の覚悟はあるけれど、それでもファイレスはとても不安になるのだ。
重苦しく鬱々とした気分で町を泳ぐ。途中小物屋に寄ってから先を急いだ。
彼がやってきたのは王宮だった。
門から入ったすぐのところで駆けるように早く泳いでくる気配がある。彼はその気配に鰭を動かすのを止め、そっとその腕を開いた。胸に飛び込んでくる感覚。それを支えて彼は笑う。
「おはようございます。ナーツ様」
「おはよう」
明るい笑顔が向けられる。人魚の国の姫、だった。
「おそいわ」
「申し訳ございません。お詫びにこれを」
彼がさしだしたのは先ほど小物屋で買った髪飾りだった。淡い色合いのそれを手に取り、姫が嬉しそうに笑う。
「綺麗。良いの、これ」
「ええ。少し失礼」
姫の手から髪飾りを取り、長いその髪を恭しい手つきですき、髪飾りを止めた。髪飾りは姫に似合い、彼女の美しさを際だたせていた。
「どうぞ。ナーツさま。とてもお似合いです」
「ありがとう。」
姫が笑うのに彼も微笑みを返す。
重い気持ちがこの時だけ安らぐのは彼の中での本当だった。
「ナーツ様」
「なあに」
微笑みを返してくる姫に彼は息を落とした。これから言うことが姫の負担にならないか見極めている。
「私は明日から人間界の様子で偵察に行きます。二三日帰ってきませんが、大丈夫でしょうか」
姫の顔が強張る。唇が弱々しく震えた。嫌だとその唇が音を発するのを読みとり彼は完全な音が出る前に先を紡いでいた。
「これも騎士たる者の役目。分かって下さいますね」
にっこりと微笑む彼は姫に有無を言わせなかった。縦に振られる首に彼は吐息を吐く。
「ありがとうございます」
姫は何も言わなかった。その様子に続けて彼が声をかける。少しでも姫が笑ってくれるようにと努めて明るい声で話し掛けた。
「今日は何を話しましょうか」
「……」
明るかった姫の顔が歪み彼の服の裾がギュッと握りしめられた。
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