第九章 ②

 部屋に入った瞬間、こらえきれず、千鶴は膝から崩れ落ちる。


――どうしてあんなにも優しい人がこんなに苦しい目に会うのか。


――人のために、自分の病も二の次に研究を行う人が。


――これから輝かしい未来が待っていた人が。


――何より、私の愛する人が。


――どうして、どうして。


 分かっている、桐秋が桜病にかかったからだ。


 ゆえに彼はこんなにも苦しみ、死の淵にいる。


 答えは単純。


 分かってるのに、憎み、恨む気持ちが千鶴の心を暴走している。


 根源をこの世から消してしまいたいと思うが、まだそれも出来ない。


 大粒の涙が千鶴の瞳から止めどなくあふれ続ける。


 拭う気力もなく、薄黄の着物に蝋梅ろうばいが咲いたような染みができていく。


 自分が桐秋の代わりになれたらと、何度願ってみても現実にはならない。


 千鶴はどうしようもできない現状に自身を責め続ける。


 己にできることの少なさに千鶴はひどく打ちのめされ、その日一日、千鶴は桐秋と顔を合わせることが出来なかった。



 数日後、桐秋は布団から離れることはできないものの、上半身を自力で起こすことができるまでに回復していた。


 けれど、その瞳はもう何かを悟っているかのように、遠くを見つめている。


 千鶴はそれが恐ろしく、頻繁に桐秋に話し掛ける。

 

 庭の様子、今日の献立、天気のこと、大した話ではない。


 それでも、千鶴が話すときだけは、桐秋の瞳が自分を映すから、千鶴はそれだけで安心できた。


 そうでないと、桐秋はすぐにでもここから立ち消えてしまいそうな雰囲気を漂わせていたから。


 千鶴の憂虞ゆうぐを知ってか知らずか、この日の桐秋は珍しく自ら話しを切り出した。


「君は私とあった時、私に桜が好きかと尋ねた。


 その時、私は何も答えなかった。いや、答えられなかった。


 桜の散る儚げな様を見て思い出されるのは、桜病にった母のこと。


 けれど満天の桜の様をみて思い出すのは、幼き日に出会った妖精の満開の笑顔。


 そんな相反する複雑な記憶があり、桜に対する気持ちをなんと形容していいのかわからなかった」


 ぽつり、ぽつりと桜への想いを語る桐秋に、千鶴は何も言わず、じっと耳を傾けている。


「でも今は迷いなく言える。


 私は桜が好きだ。


 今の私は桜を見れば君を思い出す。


 蕾の固いときは、君の意外に頑固な性格を。


 蕾が柔らかに膨らみ、紅色が花びらに浮き出て今にも咲きそうな瞬間には、頬がほのかに色づいた君のあでやかな顔を。


 花が開花し始めの頃、まだ開いている花は少ないが、一輪でも凜と己を主張して咲く様は、意志を持った君のまっすぐなまなざしを想起そうきさせる。


 花盛りの頃は、私の愛して止まない君の花咲くような笑み。


 散る様にさえ、何かの想いに一生懸命になって流す、君の美しい涙を思い浮かべる。


 さらに葉桜のみずみずしくも壮健な姿は、君そのものの在り方を見ているようで心地よい。


 桜に関する何もかもが、君への想いで塗り替えられた。


 だからいまは、桜という名の病にかかったことも、そう悪くはなかったと思える。


 君への想いに満ちた病気になったような気がするから。


 そして、この病気のおかげで君に出会えて、こうして側にいてもらえる。


 君と桜を見て、ことができる。私は果報者だ」


 そう微笑む桐秋の顔には微塵の悲壮感もない。発した言葉が本心からだとわかる。


 千鶴はそんな桐秋に、以前のように怒ることができない。


 死がはっきりと間近に迫っていることが分かる今、“死なない”という言霊の無力さを、千鶴自身も身にしみて感じているから。


 それでもやはり千鶴の奥の奥にある、内に内に秘める感情は、溶けた石のようにぐつぐつ、ぼこぼこと煮えたぎる。


 どうして諦められるのだと、どうして自分と離れるのに幸せそうなのかと。


 恋人としては正当で、看護婦としては理不尽な怒りが湧いてくる。


 桐秋が桜病で、治ることが難しい病ということは分かっていた。


 分かっていて、看護婦としての仕事を引き受けたのに、桐秋を愛してしまったが故こんな身勝手な怒りが体を侵すようになってしまった。


――こんなはずではなかった。


 けれど桐秋の前では笑っていなければならない。


 千鶴は内に秘める、震えるような激情を隠しながら、無理矢理に笑みを作るのだった。



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