第九章 ③

 その夜、自身の内に渦巻うずまく感情にいてもたってもいられなくなった千鶴は、夜遅く母屋の一室を訪れた。


 入室の許可を得ることもせず、急襲するかのように扉を開け、部屋の主の元に行き、訴える。


「南山教授。桜病の抗毒素血清はまだできないのでしょうか」


 いきなり部屋に飛び込んできた千鶴に南山は驚くが、鬼気迫る表情を前に咎めることはせず、沈痛ちんつうな面持ちで千鶴の言葉に答えを返した。


「残念ながら、今やっと検体の馬が毒素に慣れてきた状況で、抗体ができるまでには達していない」


 南山の返答に、千鶴は瞳いっぱいに涙を溜めて懇願こんがんする。


「どうにか、実験を早めていただくことはできませんか」


 その言葉に南山は眉間にしわを作る。


 医の道に関わるものであれば、新薬の開発を急くことがどれだけ危ういことか分かるはず。看護婦も例外ではない。


 ところが、今の千鶴はそれが分かっていない。


 桐秋のことをどうにかしようとするあまり、周りが、簡単なことが見えていないのだ。


 その原因が南山には分かっていた。


 南山は桐秋と千鶴の関係性の変化に気が付いていた。


 が、それを咎めることはしなかった。


 千鶴はそうした関係にあっても看護婦の職務をおろそかにすることなく桐秋の看護にあたってくれていたし、何より、千鶴との関係は桐秋の心身にもいい影響を与えていたからだ。


 最近では、あんなに反発し合っていた父である南山にも、柔和な顔を見せるようになっていたほど。


 ゆえに南山は、千鶴には医者としても、桐秋の父としても感謝していた。


 しかし今の千鶴の行動は、一人の女として桐秋を慕うが故の、己の感情に突き動かされた盲目的な行い。


 南山は以前の自分に既視感きしかんを覚える。


――過ぎる思いは冷静さを欠き、時に正常な判断をできなくさせます。


 そんな女の前で南山ができるのは、医師としてまがいもない現実を伝え、冷静になるようさとすこと。


「できる限り迅速じんそくに実験を進められるよう、研究室で一丸となって桜病研究に取り組んでいる。


 だが、未知の抗毒素血清ゆえに慎重に研究を進める必要がある」

 

 直と逸らさず、千鶴の瞳を見つめ、南山は言う。


 次いで、避けては通れない血清の更なる事実も千鶴に告げる。


「それにもし抗毒素血清ができたとしても、副作用の可能性だってある」


「副作用」


 南山が発した不穏ふおんな気配のある単語に、千鶴は言葉の意味を飲み込むように繰り返す。


「そもそも、抗毒素血清を作るのは馬で、人間ではない。


 血清を打つことは、種の異なるあいだでの体液の受け渡しとなる。


 よって、馬で作られた抗体を人間に取り込む際、人の体はそれを異物として認識し、拒絶反応を起こすこともある。


 それは最悪、死に至る危険性もはらんでいるのだ。


 特に今の弱っている桐秋の体ならば、なおさらその可能性は高い」


 南山から告げられた死を感じさせる言葉に、千鶴は身体のしんが抜け落ちたように口が開き、つと身体が崩れる。


 南山は二人を大きく隔てていた重厚な書斎机を回り込み、深くうなだれる千鶴の肩に優しく手を置く。


「私たちもあきらめずに、抗毒素血清を完成させられるよう努力するつもりだ。


 だからきみはきみのできることで、桐秋の力になってほしい」


「・・・」


 重き真実に顔を伏せていた千鶴だったが、最後の言葉にようやく頷き、光る両の目をゆっくりと南山に合わせるのだ。


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