第九章 ①

 新年は雪からはじまり、可憐な氷花ひょうかは離れの庭を一面、銀景色に変えた。


 数日はその美しさを楽しんでいた桐秋きりあき達だったが、しんしんと降る雪は低い温度に解けきれず、一週間も経てば雪かきをしなければいけないほどになる。


 南山みなみやま家はお抱えの庭師が雪かきを担うらしく、職人達は手際よく屋根に積もった雪を四角に切り出し、屋根下へと落としていく。


 腰ほどはあろうかという雪が、あまりにあっけなく落ちていく様に、千鶴ちづるは言い知れぬ寂寥感せきりょうかんに襲われた。

 

 年も明けて随分と経った頃、南山が離れを訪れた。


 最近は体調が芳しくない息子の様子を気にして、頻繁に顔を出していたが、その日、姿を表した南山の表情は少し晴れやかなものだった。


 そんな南山から告げられたのは、桜病さくらびょうの実験に関する経過報告。


 純粋培養した病原菌の弱毒化に成功し、それを少しずつ動物に投与する段階に入ったらしい。


 千鶴はその報告に、桐秋の桜病に対する一縷いちるの希望を見いだす。

 

 しかし、そこで南山の言葉はパタリと途切れる。


 間をあけ続けられたのは、動物に毒素を投与するのは様子を見ながら段階を踏んで行う。


 そのため、抗毒素血清を取り出すまでの量の抗体を作るには時間がかかり、それが桐秋の治療に間に合うかは分からないということだった。


 告げられた言葉に千鶴の表情は自然と曇ってしまう。


 けれども当の桐秋本人は、穏やかな顔で実験の進展を喜ぶ。


 加えて研究に協力してくれた人たちに、感謝の言葉を伝えてほしいと南山に頼んだ。


 南山が去った後、桐秋は千鶴にぽつりと告げる。


「まだ約束した少女らしき桜病患者の報告は聞いていない。


 彼女は日本では目立った外見をしていたから、病を発症していれば大学にも情報が入るはずだ。


 やはり桜病ではなかったのかもしれない。


 それでももし、これから桜病を発症したとしても、その頃には抗毒素血清も出来ているはず。


 だからもう大丈夫だ」


 桐秋は微笑みさえ浮かべ少女のことを思う。


 こんな状態にあっても自分のことは考えず、ただただ他者のため。


「・・・・・・」


 千鶴は悲しみに声を出すことが出来ず、されど桐秋の想いは肯定したくて、無理矢理に桐秋に向けて笑みを作った。


* 


 紅、白、黄の梅が庭のあちらこちらに愛らしく咲き、梅花の香りが離れを柔らかに包む頃。


 その日、比較的体調の良かった桐秋は、千鶴と並んで、雪の降った庭を散策していた。


 千鶴は庭に咲く蜜がかかったような色の梅より、ほのかに淡い黄色の着物を着ている。


 あの口づけ未遂から桐秋は千鶴と物理的な距離をとっている。


 今までと同じように会話はするが、前のようにはふれてこなくなったのだ。


 恋人になってからというもの手袋越しとはいえ、散策するときは手をつないでいた。


 しかし今の千鶴は、桐秋の三歩後ろを歩いている。


 ふれればふれるほどに自制が効かなくなる。それが分かっているからこそ、桐秋は手すら握ろうとしない。


 千鶴もその道理はわかっている。


 が、気持ちというものは裏腹でやはり寂しい。千鶴はその距離を一歩、二歩と開け、やがて立ち止まってしまった。


 千鶴が付いて来ていないことに気づいた桐秋は立ちどまり、後ろを振り返る。


 そこに可愛い恋人のうつむき、八の字になった眉を見る。


 その様子に、桐秋はわがままを言う子どもをみるような顔、されども優しい表情で大きく息を吐き、自身の手袋をした手を千鶴の方へと差し出す。


 千鶴は差し出された手に顔がほころび、両手で桐秋の手を握る。


 久しぶりにふれる桐秋の手に千鶴の身体は心まで暖かくなるようだった。


 千鶴は手を強く握るや否や、桐秋に福寿草ふくじゅそうのように明るく愛らしい笑みを返す。


 雪の合間に咲き、小さくも華やかな黄色をはっきりと主調するその花は、そこにあるだけで人の心を晴れやかにする。


 この顔を見れば、桐秋は自分の負けを認めざるを得ない。


 自身も千鶴の手を握る手にきゅと力を込める。


 庭をゆっくりと一回りして、そろそろ家の中に戻ろうとした時、千鶴としっかりと繋がれていた桐秋の手がふいと離れた。


 どうしたのだろうと千鶴が桐秋の顔を見る前に、視線の先の積もった雪に赤黒あかぐろい血の花がぱっと咲いた。


 千鶴はすぐさま顔を上げる。


 桐秋は口元を手で押さえており、指の合間からは、どろりとした赤い液体が漏れ出ていた。


 千鶴は今にも膝をついて倒れそうな桐秋の体を支えるようにして寝室に戻る。


 枕を高くしたベッドに血やたんが吐きやすいよう、桐秋を側臥位そくがいにして寝せ、口元に桶を置く。


 桐秋の背中をさすり続け、喀血かっけつが少し落ち着いたのを見計らい千鶴は台所に行く。


 台所にはちょうど女中頭じょちゅうがしらがいて、千鶴は彼女に桐秋が血を吐いたことを告げる。


 母屋に行き、至急医者を呼ぶようにと頼んだ。


 千鶴自身は氷嚢袋ひょうのうぶくろ粗製食塩液そせいしょくえんえきを作ると、寝室に戻る。


 再度部屋に入った時には荒い気息ではあるが、桐秋は血を吐いてはいなかった。


 桐秋の上半身を慎重に起こし、ゆっくりと口元に食塩液を流し込んで、血まみれの口の中を消毒する。


 それが済むと再び桐秋を寝かせ、心臓部付近に今しがた作った氷嚢袋を置く。


 枕元にあった桶を覗いてみると、かなりの血を吐いた跡が残っていた。


 千鶴の顔は真っ青になる。もしかしたら・・・。


 ほどなくして母屋から南山が駆けつけてきた。


 ちょうど家にいたらしい。


 ぐったりとした桐秋の体を一通り診察し、千鶴に喀血にいたった状況などを聞く。


 診察の後、神妙な面持ちで南山は告げる。


「今は呼吸も落ち着いてきているが、血を吐き始めたということは・・・」


 後の言葉は続かない。


 体調がかんばしくなかったとはいえ、今まで血を吐いたことなどなかった。


 喀血は、桜病の末期の症状。桐秋に残された時間の儚さを物語っていた。


 初めからその可能性があることはわかっていたのに、今の千鶴は現実を受け止めることが出来ない。


 冬になり、桐秋が大きく体調を崩し始めたときに感じた恐怖がより大きなものとなり、千鶴の足下からじわじわと如実にょじつに這い上がってくる。


 千鶴は目の前にある桐秋の真白い顔を見ていられず、南山と一緒に戻ってきていた女中頭にその場を頼み、ふらふらと自室に戻った。



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