第八章 ③

 この日の夜、千鶴は珍しく熱を出した。


 千鶴が寝込むのは離れにきて初めてのこと。


 雪を食べて体を冷やしたにもかかわらず、寒い台所でしばらくの間うずくまっていたせいだろう。 


 今は女中頭に叱られ、自分の部屋で大人しく寝ていた。


 頭は熱に浮かされながらも、体は寒さを訴え、ガクガクと震えが止まらない。


 千鶴が重ねた布団の中で凍えていると、ふわりと暖かい何かが千鶴の体に突としてかぶさってきた。


 それは千鶴の身体をすっぽりと大きく包み、こころまで抱いているかのように柔らかく抱きしめる。


 おかげで震えは治まった。


 けれど千鶴は熱のせいで、自分を覆ったものの正体が何かまでは気にならない。


 朧気おぼろげな意識の中、千鶴は譫言たわごとのように愛しい人の名前を呼ぶ。

 

 暖かい何かはそれに答えてくれるように布越しに千鶴の頭を撫でてくれる。


 暖かい何かが何か本当は分かっている。


 分かってはいるが、千鶴は熱のせいにして何かが誰か分からないままにしようとしている。


 きっと千鶴が気づいたことが分かれば、昼間のように突然離れていってしまうから。


――あの時、千鶴はあのまま桐秋を受け入れるつもりだった。


 目を閉じたあの一瞬に、たしかに互いの想いが重なったと感じた瞬間があったから。


 けれど、次に千鶴が桐秋の顔を見たとき、彼は後悔し、傷ついた顔をしていた。


 桐秋にとって、千鶴にふれることは自分自身を傷つけること。


 桐秋がふれると千鶴は桜病になる危険がある。繊細で情が深い人だから、人を傷つけることで自分も傷ついてしまう。


 ふれて想いを深めたい気持ちと、ふれないことで桐秋の心を傷つけずに済むという気持ち、どちらが正しいのか、無理をして考えた結果、混乱した千鶴は熱を出した。


 そんな状況の中、千鶴を温めてくれている暖かい何かはつぶやく。千鶴に聞かせようと思ってはいない小さな独り言。


 しかし千鶴の耳は、その人の声であればどんな状態にあろうがひろってしまう。


「私は、君がこんなに苦しんでいるのに、何もできない。


 君は、私のためにささやかな日常の中で、数えきれないくらいの思いやりに満ちた行いをしてくれるのに、私は、凍えている君に、布団の上からただ寄り添って、かすかな熱を与えることしかできない」


 その人は何もできない己の不甲斐なさを嘆く。


「それでも、私の心はできもしないのに、震えている君を布団の中に入って温めたい、直に肌でふれて、身に宿る熱を分け与えたいと思ってしまう。


あさましい欲だ」


 千鶴はその想いを肯定するように、布団の下から自分を覆うように抱きしめている腕をつかむ。


 それにその腕は千鶴を抱きしめる力を強くする。


 桐秋も自分と同じようにふれあうことに葛藤かっとうしていたと知り、千鶴は桐秋と自分の想いが繋がっていることにほっとする。


 けれどもそれを訴えるのは一寸もない布の上。


 葛藤の末、たどり着いた桐秋の場所はやはりそこなのだ。


 想いは重なっているのに、ありのままふれあうことは叶わないと千鶴は改めて思い知らされる。


 桜病を患っている者に直接触ふれれてはいけない。


 うつる可能性がないといわれている幼い子どもだって当たり前に知っていること。


 千鶴も看護婦として誰より知っていたはずなのに・・・。


 恋人になり、互いのことを知れば知るほどに、想えば想うほどにふれたくなってしまう。あますところなく相手が欲しくなってしまう。


 千鶴達にとっては今や想いさえ、甘美な毒なのだ。


 桜病は桐秋の体だけでなく、恋する二人の心さえ蝕んでいく。


 秋という実りの季節を経て、熟した二人の想いはもうどうしようも出来ない。


 自分たちは落ちる時をいっした季節外れの果実。


 中身はドロドロに溶け、落ちる時を今か今かと待つ。堕ちた先に待つのは・・・。


 桐秋への想いと、ふれあえぬことへの切なさと、体温を下げるための水分と、・・・・・、千鶴はなにもかもが混ざった雫を落とす。


 熱を冷ますための水分なのに、その涙は千鶴の温度を上げていく。


 ついに千鶴はその熱に耐えきれず、気絶するように眠りに落ちた。


 この熱さで何もかも分からなくなってしまえばいい、頭の片隅でそう思いながら。


 外では、雪が静かに降り積もる。秋で恋を成熟せいじゅくさせたつがいの想いを表すかのように、

 高く、高く、高く―――― 

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