第八章 ②
ガラス越しの口づけから数日、東京に雪が舞った。例年よりも遅い初雪だ。
雪が降ったこともあって
そのため、居間の戸を開け、
この日千鶴が着ていたのは、白雪の中で凛と咲く
帯も椿の葉のような
桐秋の研究が終わって共に過ごすことが増えてからというもの、桐秋は別荘に滞在していた時と同じように頻繁に千鶴に着物を贈るようになった。
桐秋からは着て見せて私を楽しませてくれと言われているが、千鶴がおいそれと受け取れるような代物ではない。
別荘で過ごす日数は限られていたから、千鶴も受け取ってはいたが、桐秋が贈る衣服は本来、千鶴には手が届かないような一級品ばかりなのだ。
そのことに千鶴が頭を悩ませていると、女中頭からも受け取ってあげてほしいと頼まれた。
桐秋にはお金を残しておくような家族はいない。
自分の先を
桐秋のことをよく知る女中頭からの言葉に、千鶴の胸には相反する思いが入り乱れる。
桐秋からそこまで想ってもらえることへの喜びと、桐秋が万が一のことを考え、千鶴に何かを与えなければと思っていることへの寂しさ。
それでもやはり、千鶴の中心にある桐秋には喜んでもらいたいと想う気持ちは揺るぎない。
だからこそこうして、贈ってもらった着物を着ているのだ。
しかしそのおかげで、千鶴にとって思わぬよい出来事もあった。
それはもらった上等な着物を汚さぬよう
その姿を見た桐秋から真顔で
「良家の若妻みたいだな」
と言われ、千鶴は恥ずかしくも嬉しい気持ちになったのだ。
そんな切なくも幸福な日々の、初雪の舞った日。
千鶴は新雪が積もる様子を見ると何を思ったか、台所から器と
そして寒さもいとわず、器を持ち、庭に出る。
赤い振袖を揺らし、雪の中を進む様は、さながら尾びれをひらひらと舞わせて泳ぐ金魚のよう。
目的地は小山にある龍のような松であったようで、千鶴は松の葉に降りた雪を手で
それから、ひれをひらひらさせ再び部屋に戻ってくる。
桐秋はすぐさま戻ってきた千鶴の手を取り、手袋越しに冷えた手を包み温める。
千鶴はあの口づけ以来、桐秋から間近にふれられることの気恥ずかしさと、外に出た寒さでほっぺたを赤くしているが、桐秋の真剣な顔にされるがままおとなしくしている。
しばらくして千鶴の手に
やっとのことで赤面状態から解放された千鶴は逃げるように台所へと向かった。
桐秋は外気で冷えた部屋を暖めなおすため、火鉢の中の炭を
離れには
火の世話をしているうちに、千鶴が小さな小瓶を手に台所から戻ってくる。
その中身を先ほど松の葉から降ろした雪にとろりとかけ、匙をつけて桐秋の方に満面の笑みで差し出す。
「召し上がりませんか」
桐秋の目の前に差し出されたのは、白い雪の山に、赤いジャムがのった食べ物・・・だろうか。
それを不思議そうに見る桐秋に、千鶴は小首をかしげる。
ほどなくして何かの考えにいたったのか、急に言い訳じみたことを言い始める。
「申し訳ありません。
私の家では初雪が降ると、植物の葉に積もった雪を
我が家では毎年食べていたので、皆様やっていらっしゃるとばかり」
そういってしゅんとする千鶴に、桐秋は差し出された雪山をジャムと共に一口掬って食べ、上手い、と告げる。
するとたちまち千鶴は笑顔になる。
「家では
ですから実をいいますと、雪が降るときを今か今かと待ちわびておりました」
そんな千鶴に桐秋は、それならかき氷にかけたらいけなかったのかと少し意地悪を言う。
すると、千鶴はそれでは
確かに、と桐秋は苦笑し、自分が完全に悪かったという意味を込め、
本気で拗ねていたわけではなかった千鶴もすぐに顔をほころばせる。
「
そう千鶴が何気なく放った言葉に、桐秋は少しのひっかかりを覚える。
しかし、美味しそうに雪山を食べ進める千鶴の姿を前に、柔らかな幸せが桐秋の胸を占め、そう思ったこともすぐに忘れていた。
しばし二人でその優しく甘い味を楽しんでいたが、桐秋がそぞろに顔を上げてみると、千鶴の口元にジャムがまとわりつき、唇が艶めかしく潤んでいるのに気づく。
その姿に桐秋は瞬時に視線が釘付けとなる。
雪を喜ぶ無邪気な姿とは
千鶴もそれが何を意図しているのか悟ったのか、瞳を閉じて、桐秋に身を委ねる。
そっと千鶴の肩に手を置き、熱と熱がふれようとした寸前、桐秋は自身の胸に痛みを感じる。
それに我に返った桐秋は千鶴の肩に置いた手をばっと伸ばし、体をおもいきり突き離した。
いきなり拒絶されたことに千鶴は驚く。
が、自分からそらされた桐秋の顔を見ると、食べ終わった器を持って急いでその場を離れた。
千鶴によってめずらしく襖が荒っぽく閉められた後、何をしているんだと桐秋は自責の念に
自分は桜病患者。
肌同士の直接的な
千鶴が成人していないとはいえ、今まで気をつけていたではないか。
あの不自然な胸の痛みはきっと、最後の自制心が働いたもの。
ガラス越しの口づけで分かっていたはずだ。
自分が千鶴を想うがゆえの欲を持て余していることも、それが制御できなくなりつつあることも。
だから余計に気をつけなければならないと思っていたのに。
それが今日、あの小さな愛らしい唇に、赤い蜜をまとわせて、白い雪を食べている彼女を見た瞬間、理性は一瞬のうちに崩れ、体が勝手に動いていた。
彼女にふれたい、あの赤い
ついこの間、
彼女のことを知れば知るほど、ふれればふれるほど、もっともっとと求めてしまう。
それでも先がどうなるか分からない自分は、彼女に
桐秋はことさら炭が大きく爆ぜる音が響く部屋で、自分の欲と限られた命を恨み続けた。
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