第八章 ①

 空が透き通り、厳しい寒さの中にも冬晴れの日が続く限りの月。


 この寒さにあっても雪雲ゆきぐもの一つも出ていない。


 こおりの花を見ることの出来ない冬は少し寂しい。


 そんな恋しさもあってか、別荘から帰ってきてからというもの、二人は離れに在る刻を以前にも増して共に過ごすようになった。


 桐秋きりあきの部屋の掃除、食事の支度は千鶴ちづるが変わらず行っているが、桐秋はそれ以外の奥向きのことを女中頭じょちゅうがしらに頼むことにしたのだ。

 

 桐秋は他人が家に入ることを好まない。


 それでも、女中頭が桐秋の元乳母という気が置けない仲であること、何より千鶴との時間を増やすことを優先したのだ。


 おかげで千鶴は桐秋の看護に専念できるし、今も二人、縁側でお茶を飲みながら庭の移りゆく景色を眺めることができている。


 別荘の紅葉もよかった。


 けれどやはり、この見慣れた庭が好きだと千鶴は別荘から帰って来て、なおのこと思うようになった。


 同じ景色が四季折々に変化していく様を見ることは、桐秋と過ごしてきた刻の長さを感じることでもあるから。


 そうした蜜月みつげつを過ごしていた二人ではあったが、本格的な冬を迎え、一段と気温が下がると、晴れた昼のわずかな暖かさと夜の厳しい寒さによる寒暖差は、桐秋の体に大きな影響を与えた。


 熱が出て寝込む日が増えたのだ。


 これまでは、千鶴の看護計画に基づき、無理をせず、治療と研究を行っていたおかげか、桐秋が大きく体調を崩すことはなかった。


 あったとしても月に一、二度。


 しかし、現在は週に一、二回床とこに伏すことが増え、そのことは桐秋がふとしたことがきっかけで命を落とす病人であるということを、いまさらながら千鶴に現実として突きつける。


 看護婦をしている千鶴が看てきた患者の中にも、もちろんそういう人間はいて、最期の時を看取みとりもしてきた。

 

 が、こんな足下からせり上がってくるような底冷えする恐怖は感じなかった。


 千鶴の桐秋を想う気持ちが深ければ深いほど、なんでもない穏やかな日常を過ごせば過ごすほどに、現実は千鶴の心をじりじりと苦しめる。


 一方、桐秋はそのような病状にあっても、桜病(さくらびょう)の研究を諦めない。


 別荘から帰ってきた直後、桜病さくらびょうの病原菌の純粋培養に成功したと下平しもひらから連絡が入った。


 桐秋が待っていた実験はこれだったのだ。


 難関な実験を乗り越えたことに桐秋は喜びをあふれさせ、電話で直接下平に感謝を伝えていた。


 次は病原菌を弱毒化する作業。


 それが成功すれば、弱毒化した病原菌を馬に投与し抗体を作らせ、抗毒素血清を抽出することが可能になる。


 その血清が桐秋に使えるようになれば、桐秋自身の桜病も完治するかもしれない。


 千鶴もそんな希望のために桐秋の傍にいて、献身的けんしんてきに研究の補佐をした。


 そうしてその年も終わる頃、桐秋は頻繁ひんぱんに体調を崩す中で、抗毒素血清こうどくそけっせいを生成するための最後の実験計画を書き上げた。


 計画用紙を南山みなみやまに託す。


「これで終わりになります」


 そう言って父親に書類を渡す息子の顔は清々すがすがしいものだった。


 それから桐秋は一切の研究を終え、残りの刻を千鶴と過ごすことに費やした。


* 


 その日、桐秋は朝から熱が出ており、床にせっていた。


 それでも千鶴の熱心な看病のおかげか、徐々に体調は良くなり、昼食の大根粥だいこんがゆも残さずに食べられた。


 食後、再び大事をとって寝ていたが、ふと目が覚めて起き上がると、雪見障子のガラス部分から千鶴が縁側の拭き掃除をしているところが見えた。 


 千鶴は桐秋が床についている時はよく家のことを手伝っているので、今もその最中なのだろう。


 桐秋は雪見障子に近づくと、千鶴が気づくように軽くガラス部分を叩いた。


 木の枠組みにガラスがぶつかる少し不快な音が響く。


 それに気づいた千鶴は顔を上げる。


 音のした方向には桐秋の顔があり、眉を上げてぱっと笑顔になる。


 千鶴は桐秋の部屋につながる雪見障子に近づいて戸を開けようとするが、桐秋は手でそれを制する。


 千鶴はその場に座り、不思議そうに首をかしげて桐秋を見つめる。


 すると桐秋は、千鶴を障子越しに自分の正面に来るよう手で誘導ゆうどうする。


 請われるまま、千鶴が桐秋の前に来ると、お互いの顔をガラス越しに見つめあう形になる。


 互いの顔をまじまじと見つめる状況に千鶴が顔を赤らめていると、桐秋はもう少しこちらに顔を近づけるようにと言う。


 千鶴は恥ずかしそうに頬を染めながらも顔を近づける。


 それでも桐秋はもっとと言う。


 言われるままに千鶴は顔を近づけ続け、結局桐秋が納得したのは、千鶴の唇と鼻がガラスの表面に軽くれるかれないかぎりぎりのところ。


 息でガラスは曇り、肌は無機物の冷たさを感じる近さだ。


 薄い手延てのべガラス越しの、少し歪んだ千鶴の無防備な姿。


 桐秋はそこに自らの顔を近づけ、千鶴の唇の反対にある透明な玻璃はりに、己の唇を軽くふれさせ去っていった。


 突然のことに千鶴は驚き、真っ赤になって桐秋の方を見る。


 桐秋はいたずらが成功したように笑っている。


 じかにはふれられないからガラス越しの口づけ。

 

 それでも千鶴にとっては初めての口づけ。


 千鶴は無意識に、ありもしないふれられた感覚を肌になじませようと、指先で唇をなぞる。


 それからまた桐秋は、千鶴にガラスに顔を近づけるようにと言う。


 今度は、千鶴は赤面しながらも、目をつむり、透き通ったそれにしっかりと自身の唇を押し付ける。


 桐秋は数拍 《すうはく》ののち、ゆっくりと顔を近づけ、千鶴の澄んだ唇に己の唇を長く押合わせる。


 まるで本当に口唇こうしんがふれあっているかのように。


 冬の冷えたびいどろの薄膜はくまくは確かに二人の間に存在するのに、互いから発する熱い息がそれを感じさせない。


 無機質な硝子しょうしは唇の角度を変えるたび、吐かれる二人の吐息でどんどん白くくもっていく。


 やがて互いの顔も見えなくなるが、唇を合わせることに夢中な恋人達は気付かない。


 千鶴は息が苦しくなり、透明な隔たりに手をつく。


 桐秋はその手をも握りしめるかのように己の手を合わせる。


 唇、手、心、今の千鶴に差し出せるものはみな桐秋と数ミリのいた越しにつながっている。


 千鶴は余裕がなくなり、自然に瞼がうっすらと開く、白く朧気おぼろげな視界には、腹を空かせたおおかみのような、えた欲を浮かべる桐秋の目だけがはっきりと見えた。


 千鶴はるような眼光に自身が求められているのだと強く感じ、女としての愉悦ゆえつの笑みを浮かべる。

 

 しばらくして、互いの顔がゆっくりとガラスから離れる。


 曇りが取れた雪見障子越しに見える千鶴の頬は紅潮こうちょうして、瞳は陶酔とうすいしているかのようにトロリとしていた。


 歪んだガラスにそれは一層誇張こちょうされ、桐秋に伝わる。


 そんな千鶴の姿に桐秋は再び欲を刺激される。


 一方、千鶴はやっとのことで息を整えると、ガラスに映った自身の姿に羞恥を感じ、バタバタとその場を走り去る。


 桐秋はその音にようやく正気に戻る。


 明らかにやりすぎた。


 最初の軽い口づけは恋人同士の戯れ。


 今になってはそれもやりすぎだったと思うが、熱のせいだと大目に見ても、二回目の口づけは完全に彼女が欲しいという心の衝動に突き動かされたものだった。


 本当なら二度目は、千鶴が近づけた顔にガラス越しに息を吹きかけ、落書きをするというかわいいいたずらをするつもりだった。


 しかし、千鶴の口づけを待つ顔に、しっかりとガラスに押し付けられた豊潤ほうじゅんな唇に、桐秋は理性を奪われた。


 気づけばそこにある無機質でいて柔らかな唇に己の欲望をぶつけていた。


 体はだんだんと弱くなっているのに、千鶴への想いは大きくなるばかり。


 それにともな欲動よくどうも抑え込むことができていない。


 桐秋は欲にまみれた自分のありように嫌悪感けんおかんを抱く。


 だが、この刹那せつなにしか味わえない快楽に身を任せる自分にも逆らえない。


 最後の一線だけは超えてはいけない。

 

 そう理性では強く思いながらも、桐秋の脳内には艶めき、火照ほてった千鶴の顔が浮かんでは消えていくのだった。


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