第七章 ⑤

 桐秋と連れ立ち、千鶴は庭の木立の中を散策する。


 赤、黄、緑、とりどりに彩られた鮮やかな木々は豪華絢爛けんらん錦繍きんしゅうをまとっている。


 色紙いろがみにも似た、薄く儚くも艶やかな木の葉は風が吹けば、木から、地面から宙を舞う。


それは、千鶴たちを取り囲み、別世界にさえ連れていきそうな幻想的な景色を作り出す。


 色も形も違うのに、なぜか桜を見たときの様な感想を抱く。


 時に数が多く、美しい植物は、恐ろしいまでに自分のもつ武器で人間を圧倒し、思考を現実から逃避とうひさせる力でも持っているのだろうか。


 千鶴はともすれば異空間へと連れて行かれそうな意識を桐秋の手を握ることで現実に

戻す。

 

 桐秋の革手袋はめた手を自身の毛糸の手套しゅとう越しに、しっかりと握り、桐秋の手の感触を確認してから、千鶴は再び周りの木々を見渡す。


 すると木々は、また違った意味を千鶴に気づかせる。


 木立を遠くから見たときは、葉を落とす様を悲観ひかんしてしまった。


 しかし彼らは力尽き、木から手を離したのではなない。


 ましてや、母なる木から見放され、落とされたのでもない。


 冬が終わりやがて訪れる、みずからも経験した光に満ちた季節のため、その席をいさぎよ後進こうしんゆずったのだ。


 そして、散ってなお、地面に落ちてなお、最期まで千鶴達を楽しませてくれる。


 その生き様は何かにしがみついて生きる現実の人間よりもよほど見事だ。


 こういう風にさらりと音もなく散ることも、人生において必要なのかもしれないと千鶴はしみじみ考えてしまう。


 千鶴がそのようなことを思いながら歩いていると、いつの間にか、先ほど見ていた庭の花の前に来ていた。


 桐秋はそこで歩みを止める。


「本当は、この別荘には来たくなかった」


 桐秋から述べられた意外な言葉に、千鶴は彼の方を見つめる。


 花に目をむけたまま話す桐秋の横顔は、驚くほどいでいて、先の言葉を本当に吐いたのかと疑ってしまうほどだ。


「ここは、母が最期の時を過ごした場所なんだ」


 以前、千鶴は南山から桐秋の母が桜病さくらびょうで亡くなっていたことを聞いていた。


 けれども、桐秋本人から母親の話を聞くことは初めてだった。


 桐秋は、静かな口調で続ける。


「実の子の自分から見ても、美しく、儚い雰囲気をもった人だった。


 その佇まいに違わず、病弱で、桜病になる前もよく床にせっていた。


 それでもいつも優しい母を私も、父も、愛していた。


 この花、薔薇の一種なんだが、母が好んでいた花なんだ。

 

 ここは秋が一段と美しくなるからと、薔薇も秋に一番美しく咲く品種を海外から取り寄せて植えていた。


 君の部屋にも描かれているだろう」


  そう問われた千鶴は、浮かんだ疑問の答えにたどり着く。


 どこかで見たことがあると思っていたが、千鶴が使わせてもらっていた部屋一杯に描かれていたのだ。


 ということは、あの部屋は・・・。


「母は、桜病になってから、この別荘に移された。


 私は、母が桜病になってから、一切会うことを許されなかった。


 当時はまだ桜病がどのような病かわからなかったし、私は嫡男ちゃくなんであり、たった一人の子どもだったからだ。


 母は私の他にも、子どもを身ごもっていたこともあったが、全員お腹にいるうちか、生まれてすぐに亡くなったらしい。


 母を愛していた父は、母以外と子をもうけようとはせず、母が桜病になると熱心にここに通って、看病をしていた」


 そんな生活が半年を過ぎた頃、


「ちょうど今の時期だったと思う。


 父からここに来ることが許された。


 私は、母に会えるのだと喜んだ。


 だが、許されたのは、父と共にこの庭を散策する母を、二階の窓から見つめることだけ。


 秋の薄寂うすさびしい情景の中、ぽつりと咲いた薔薇の香りを嗅ごうと、花に顔を近づける白い母の横顔が、今も瞼を閉じると浮かんでくる。


 それが母を見た最期の姿だった。


 感染症だったため、遺体との対面も叶わなかった。


 父は、一目、母の姿を遠目にでも見せようと私を呼んだのだろうが、私は、そこにいるのに、母にふれられないことのほうが残酷に思えて、父のことをうらんだ。


 そんな思い出もあったから、ここに来ることはそれ以来避けていた」


 桐秋は静かに目を伏せ、一度そこで言葉を切る。


 それからゆっくりと瞼を開くと、再び口を開く。


「しかし、君をどこかに連れ出したいと思った時、真っ先に思い出されたのがここだったんだ」


 純粋に千鶴に喜んでもらいたいと考えたとき、苦しく悲しい思い出よりも先に、ここで過ごした幼い頃の楽しかった思い出が蘇(よみがえ)った。


 ここは幼い頃、毎年家族で訪れる場所だった。


 珍しい植物が植えられた温室とバラ園では、父と母がたくさんの草花の名前を桐秋に教えてくれた。


 庭にある西洋風の池では、何もいなくて寂しいといった桐秋のために、宝玉ほうぎょくの様な可愛らしい金魚を放してくれた。


 紅葉が美しい散策道では、桐秋を挟んで親子三人、手をつないで歩いた。


 千鶴を楽しませたいという願いは、悲しい思い出に塗り替えられていた桐秋の記憶の中から、大切な心温まる思い出をすくい取ってくれた。


 ここは唯一千鶴を連れ出せる場所であり、なにより共に訪れたい場所だったのだ。


「ここには、母と過ごした大切な思い出がたくさんあった。


 それを思いださせてくれたのは君だ。


 ありがとう。


 そして、今、こうして君と共に過ごすことができて、大切な思い出は、上書きされている。


 ・・・君といると私は幸せになれる。」


 最後の言葉を、ことさら優しく微笑み、告げる桐秋に、千鶴は、胸をきゅっと絞り取られる感覚を味わう。


 そこからあふれてくるのは、桐秋への想い。


 いとしさを大きくはらんだ・・・。


――君といると私は幸せになれる


 言葉の意味をかみしめるたび、痛いほどに千鶴の心から想いが絞り取られていく。


 それはどんどんと千鶴の心の下にある器へとたまり、やがては満々と水をたたえて、ぷつりとこぼれゆく。


 あふれた出た想いは行き場をなくし、瞳から光る雫として身体の外に流れ出る。


 初めて千鶴に想いを告げた時の桐秋と同じ。


 自然にこぼれ出たもの。


 千鶴が流す涙は桐秋への想いの結晶。


 次から次に湧き出てくる。


 そんな千鶴の姿に桐秋は泣かせるつもりは無かったと苦く微笑み、ハンカチで、千鶴の頬の涙をぬぐってくれる。


 さらに抱きしめてくれる。


 桐秋の前では、千鶴はすっかり泣き虫になってしまった。


 桐秋もそれを心得ていて、千鶴の涙を拭うのが仕事になっている。


 早く涙を止めなければと千鶴は思う。


 それでも、涙を拭う桐秋の顔があまりにも優しいから、千鶴はそれに甘え、桐秋の胸の中でしばし想いの雫をこぼす。


 二人を囲む幸せのそのは、かさりかさりとその葉を落とす。


 確実に季節が巡る音がする。


 でも今は、今だけは、く秋の音に耳を塞ぎ、ただ、このとき、この瞬間の幸せに二人、心を寄せるのだった。

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