シーサイド・ブルー

若槻きいろ

第1話

 仕事を辞めた。夢も、諦めた。

 だからこれは、傷心旅行。

 また歯車として機能するための、いっときの猶予。

 輪郭を失った私を取り戻すための時間。

 ネットで見かけた海辺の駅のブルーアワー。日の出前、入りの後に発生する空が青く染まる時間帯を言うらしい。調べてみたらうんと地方で、でも一目見てみたくって。無理を承知で聞いたら意外といけて。

 そして私は、今相方とそれを見に来ている。


 黎明を急ぐ。明け方まであと僅か。

 ホテルの一室で寝ぼけながらスマートフォンの時刻を確かめると、中々にやばい時間を告げていた。未だ夢の中を微睡む相方を叱咤し、布団を引っぺがす。見れなければ何の為に来たというのだろう。嗚呼、昨夜調子に乗って酒なんて飲まなければよかった。そんな愚痴さえ、布団の中で未だ微睡む彼には聞こえない。

 身支度をして、と追い立てて二人して外に飛び出す。空はまだ明けていない。その様子に私はほっ、と息を漏らす。


 冬の終わりはまだ来ない。もう少し暖かくなれば、空へ伸びる花々も見られるようになる。だけど、まだそれには早い。

 空はどんどん色を褪めてゆく。風はまだ冷たく、防寒はしっかりしなければいけないほど。

 駅に着いて、時刻通りの電車に乗る。

 一つのイヤホン、一つのミュージックプレイヤー。そして一両編成の列車に乗った、二人きりの私たち。

 二人には余る程広いのに、私たちはぴたり、と横並びに座る。これはそう、寒いからだ。それ以外に理由などない。彼は少しうつらうつらとしていて、まだ眠気から醒めきっていないようだった。

 それを横目に、そっと窓の外を覗く。のどかな田園とぽつぽつと点在する家屋、古い時代の遺産。ガラス越しで見える景色は少しずつ本来の色に色づいていく。

 この光景は、私たちが知らないところで繰り返しされるこの町の営みなのだろう。数日前までの果てしない日々を思い出し、なんて無味乾燥な時間だっただろう自重気味になる。あれが永遠と続く。そう考えたら眩暈を覚えるようだった。

 曲が変わる。昔聞いていた音楽が次々と二人で共有される。電車はガタゴトと線路を辿って目的地へ向かっていく。

 田舎の一駅分は意外に長い。都会ならば二、三分といった所を十分なんてざらだったりする。もっとすごいところは電車が来るのが1時間に一本なんてあることだ。地元じゃちょっと考えられない。思いがけず自分のところの交通便の良さに有難がる。

 がたたん、がたたん。揺れる電車の中ではつい物思いに耽ってしまう。ゆるゆると思考の縛りが解けていく。

 大人になって、昔よりできることはうんと増えた。けれどできなくなったことも増えていった。本当は、有限の日々を食いつぶしているだけなんだって。

 それを酒の席で言えば、子供の頃がまぶしいね。と彼は笑っていた。

 本当だよ。昔ばかりが懐かしくて輝かしい。

 懐かしい音が互いを一つのコードで繋ぐ。そう、いわゆる青春時代を象徴するこの音楽たちも相まって、特にそう思うのだ。

 彼がむくり、と顔を上げる。欠伸を一つして、そのまま遠くを見つめる。


 私たちの間にあるのは同じイヤホンで昔に聞いた音楽のみで、会話なんて出立してから一つもない。

ガタゴトと線路を辿って目的地へ向かっていく。

 田舎の一駅分は意外に長い。都会ならば二、三分といった所を十分なんてざらだったりする。もっとすごいところは電車が来るのが1時間に一本なんてあることだ。地元じゃちょっと考えられない。思いがけず自分のところの交通便の良さに有難がる。

 がたたん、がたたん。揺れる電車の中ではつい物思いに耽ってしまう。ゆるゆると思考の縛りが解けていく。

 大人になって、昔よりできることはうんと増えた。けれどできなくなったことも増えていった。本当は、有限の日々を食いつぶしているだけなんだって。

 それを酒の席で言えば、子供の頃がまぶしいね。と彼は笑っていた。

 本当だよ。昔ばかりが懐かしくて輝かしい。

 懐かしい音が互いを一つのコードで繋ぐ。そう、いわゆる青春時代を象徴するこの音楽たちも相まって、特にそう思うのだ。

 彼がむくり、と顔を上げる。欠伸を一つして、そのまま遠くを見つめる。

 私たちの間にあるのは同じイヤホンで昔に聞いた音楽のみで、会話なんて出立してから一つもない。


 不満を抱えつつ視線を向ければ、黒白の猫らが目の前を通り過ぎた。

 黒猫がとっ、と線をの向こうをゆく。そのあとを白い猫が追う。少し先で白いのを待つ黒いのは、やってくるのを認めるなり隣に寄り添って歩き出した。まるで番みたいだ。猫のくせに、なんて少し嫉妬する。

「かわいいねぇ」

 ねぇ、そう思うでしょう? と同意を求められる。視線は猫たちから逸らさない。

 私に構わず夢中になっているから、ついむっとして言ってしまう。

「ちゃんと呼んでよ、名前」

 そう言うと、彼は決まりが悪そうにそっぽむく。

 照れているだけなのだ。それはまぁ、知ってる。知ってるけど、やっぱり呼んでほしい時もあって。

 名前は、自分を形作る一つだと思うから。私を私とたらしめるものだと思うから。

 自分がよくわからなくなった今だから、呼んでほしい。

 呼んでくれたら、少しは自分を取り戻せる気がする。

 当たり前なことだって、今の私には足りないんだ。

 わがままだって言ってもいいよ。でも必要なんだ。

 何もなくなっちゃったから。置いて行かれる焦燥感だけが膨らんでゆくの。風船みたいに弾けちゃいそうなんだ。

 だからさ。

 あいまいな私に色をください。この景色のような。

「   」

 その言葉を聞いて、私の世界はやっと色づく。

 花の色やにおいが、空と海の青さが瞳に映り込む。世界が私を認識する。すべてが一つの色に染まってゆく。

 下弦の月が薄らいで、反対で陽の光が昇り始める。

「ほら、夜が明けたよ」

 照れが消えない彼の手を引っ張って、私は一歩前へ踏みだす。空はすっかり白んで、地平線からはみかん色の淡さが滲んでいる。潮風がそよいで、私たちは海の向こうを見つめる。

 きっといつか忘れちゃうんだ。今日見たことも、一緒にいたことも。

 ずっと続くであろう景色を眺めて、そう思う。

 けど今は。今だけは。隣の熱は、手の平のあたたかさは、確かにそこのあったのだ。

     Fin.





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