ブラ3はお好き? ~アンニュイな雨の休日の午後に~
普門院 ひかる
ブラ3はお好き? ~アンニュイな雨の休日の午後に~
年末恒例の第9公演を終え、楽屋口を出ると、出待ちの人たちが傘をさしている。期待は外れた。チェロのケースはかさばるので、傘をさしていても
「ゆうちん?」
女性の声がして、一瞬血の気が引いた。私のことを、こう呼ぶ女性は一人しかいない。
振り返ると、彼女がいた。
「やっぱり、ゆうちんだよね。まだ、チェロやってたんだぁ。確かに、あんなに上手だったら、やめるのもったいないもんね」
「まあ……な」
島林
「ねえ。せっかくの再会だからさ、これから飲みにいかない?」
「まあ……いいけど」
それまで話していた、合唱で出演した
手近なところにワインバーがあったので、2人で入る。
それからは、
「へえ。そうなんだ」
私は、
店のBGMで、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章がかかる。
――ねえ。ブラ3ってさあ、アンニュイな雨の休日の午後にピッタリの曲だと思わない?
ふと大学時代の
大学生といえば、大人ではあるが、今思えば子供っぽい純真さが随分残っていた。
ブラームスの交響曲第3番の第3楽章は、
この曲は、映画「さよならをもう一度」の主題曲として取り上げられて以来、映画音楽として広く認知され、単独でムード音楽として定着して有名となった。
曲冒頭の旋律は、まずはチェロのやや高音域で提示され、鮮烈に印象付けられる。チェロは、「憂い顔の騎士」とも
今思えば、
しかし、あの頃から私も成長した。
作曲家は、湧き出るインスピレーションそのままに、曲を書いているわけではない。作曲当時の私生活が作曲に直接影響するのか? と問われれば、私は否定的に考える。
ブラ3を解説する文章を読むと、作曲当時の若いアルト歌手との恋愛感情が、この曲に影響を及ぼしたとされているが、いかがなものだろう?
音楽の作曲は、しばしば綿密に計算されて構築した建築物に例えられる。そこへ一時の感情が入り込む余地は、あるのだろうか?
あれから成長した私は、ブラ3の第3楽章を聞いても、「計算」が鼻につくようになってしまった。例えれば、かわいらしいと思っていた女の子のしぐさや声が、実は「計算」だと知ったガッカリ感のようなものだ。
「これブラ3だよね。私、大好きなんだ」
ブラ3のことを考えていただけに、
彼女の発言に、おそらく他意はない。が、彼女は、まだ少しは私に心を寄せてくれているのではないか? もしかして、まだ心が通じ合っているのか? そんな都合のいい考えが思い浮かぶ。
大学の頃の
今日の
あたりまえだが、あれから約10年たった
心の葛藤とは裏腹に、
「ブラ3は、ちょうど去年の秋の演奏会でやったんだ。前にOBオケでやったときは、練習不足で満足いかなかったけど、今回はリベンジできたよ」
「そうなんだ。聞きたかったなあ。T響って、レベル高いよね。たまに管楽器のミスが聞こえなかったら、プロと区別がつかないよ」
「入団オーディションではコンチェルトを弾かされるし、プロの先生を呼んで厳しく審査するからね」
「弦楽器で入団オーディションがあるなんて、あまり聞かないよね」
「うちとS響くらいかな。でも、S響は入団時だけだけど、うちは定期的に更新オーディションもあるから」
「うわっ。それは厳しいね」
そこで、話が途切れた。
「もうオケはやらないの? 大学のOBが集まってるYオケとかあるでしょ」
「もう、ぜんぜん練習してなくて……この間、思い切って練習台もマレットも捨てちゃった。でもね、最近合唱を始めたんだよ。ママさんコーラスってやつで、あんまりじょうずじゃないけど」
「そうなんだ。じゃあ、さっき会ってた人は、同じサークルの人?」
「うん。すごくじょうずで、Sフィルハーモニック・合唱団とかけもちしてるんだ」
「へえ。そういうことなんだ」
昔みたいに、オケを通してつながる道が断たれ、淡い期待は消えた。むしろ、社会人で続けられる方がレアなのだと、思い直す。
「ゆうちんってさあ、結婚してないの?」
「まあね」
「えーっ! どうして? ゆうちんって、モテるのに。ゆうちんを狙ってた女の子って、結構いたんだよ」
「ほんとかよ。初めて聞いたよ」
「ゆうちんってさあ。ミステリアスで、いかにもアーチストっていう感じのオーラを出してるから、ちょっと近寄りがたいところがあるけど、付き合ってみると味があるっていうか……ブラームスみたいな?」
「どこがブラームスなんだよ!」
「だから、
なんだか、
クララは、遺伝子疾患で精神病となったシューマンを献身的に支え続けた。夫が自殺した後は、男社会である音楽界において、女流ピアニストの走りとして活動を続け、子供たちを立派に育て上げた。ブラームスは、子供たちの子守をするなど、クララに献身している。
クララは、お札の肖像画に採用されるほど、社会的評価の高い人物だ。が、ブラームスとの関係を考えるとどうなのだろう? ブラームスはクララへの思いを心に秘め続けたわけではなく、相当に熱烈な手紙を送っている。彼女は、ブラームスの思いを重々承知していたのだ。
私は、思わずにはいられない。クララは、計算高い女だったのではないかと……。
「今度、電話するね。携帯番号は変わってないよね?」
「ああ。変わってないよ」
この言葉の意味を考え込んだ。単なる社交辞令と思ってしまえば、真に受ける方がバカげている。が、
本気で待っていたわけではないが、彼女から電話は来ない。
そのうちに、またとんでもない激務が舞い込んできた。数カ月間、終電で帰れず、タクシーで帰宅する日々が続く。私には、よくよく仕事運がないらしい。私の心は悲鳴をあげていた。激務が続いたストレスで、中程度の
心が弱ったことで、私の音楽の趣味はガラリと変わった。オーケストラを派手に鳴らす曲は、刺激が強すぎて負担に感じる。聴くとして、室内楽やバロック・中世時代のおとなしい曲じゃないと無理だ。
そんなとき、ネット上で、雨の日に聞く曲を集めた曲を収録しているCDを発見して、衝動買いした。今の自分にピッタリだと思った。
CDが届いた日。しとしとと雨が降っていた。休日ではないが、休職中。
CDには、ブラ3の3楽章が収録されていた。
聴いてみると、「計算」が鼻につくことはなかった。というより、そこまで気を回す余力が、今の自分の心にないと言った方が正確か。
そうなって、あらためて気づいた。音楽を聴くときに、演奏者としての視点で聞き続けてきたことを。それは、
――聴きたいものを、自分の感性に素直にしたがって聴けばいい。
あまりに当たり前すぎることが、胸にストンと落ちた気がした。
音楽だけではない。男女間の関係にしても、裏に「計算」があるかなどと邪推して、いいことがあるのか? 何が楽しい? 自分の心へ素直になれば、それで十分だ。おそらくその先に、これまで得られなかった何かがある。
その後、復職した私は、再びT響でオケ活動を再開した。
職場の同僚の女性と交際を始めた。
Yオケにエキストラを頼まれた。メインはブラームスの交響曲第2番。大学時代に
演奏会が終わり、楽屋口から出ると妻が待っていた。私を見つけると、手を振って近づいてくる。
「
女性の声がして、一瞬血の気が引いた。声で分かった。
「島林さん、じゃなくて、名前が変わったんだよね?」
一歩下がって控えている男性が目に入り、ピンときた。どうりで、「ゆうちん」と呼べないはずだ。
「これ、うちの旦那」
「どうも」
「どうも」
おざなりに紹介された彼は、ボソリと一言だけあいさつした。が、私もにた者どうしだ。
少しだけ
「ねえ。誰? もしかして、元カノ? やだぁ。ゆうさんのスケコマシ!」と、妻が私の肩をど突きながら言う。怒ってはいない。冗談めいたニュアンスだ。
「え? まあ……そんな感じ?」と、答えかねていた私に代わり、
「昔のゆうさんって、どんな感じだったの?」
「ゆうちんはさあ……」
私の不愉快そうな視線に気づくと、2人は、少し離れた場所へ移動した。コソコソと何かを話している。
残された夫2人の会話は、これだけだった。
「お互い苦労しますね」
「まあ……そうですね」
でも、いやな苦労じゃない。
ブラ3はお好き? ~アンニュイな雨の休日の午後に~ 普門院 ひかる @c8jmbpwj
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