第3話 化け物(後)
その名が叫ばれると、歓声は一変して悲鳴に変わった。
「アナスタシアが出たぞ!」
「逃げろ!」
領民たちは散り散りに逃げ、兵士たちは一斉に武器をかまえる。
あちこちで銃声が鳴り、矢が飛び始めた。
そうしてジャックは歯軋りをしたのだ。
「あの化け物を止めろ! 絶対に馬車へ近づけるな! 前へ出ろ!」
上官が叫ぶ。しかしジャックは動かない。馬車の御者に任命されていた彼は、決してエリスのそばから離れないよう言われていた。
(まさかあの化け物が出てくるとは!)
馬車の後ろに控えていた兵士が前方へ移動していく中、ジャックは御者席から下りた。そしてすぐに馬と馬車を繋ぐ紐を剣で切る。人間の緊張に感化された馬が、暴れそうになっていた。
馬を何とか畑の方へ逃がすと、耳がキンと痛くなった。
(銃声がこちらへ近づいてきている……?)
ジャックは御者席に再度上がり、前方を確認する。それから、息を呑んだ。
––––味方の数が減っている。
〝アナスタシア〟は雑草でも刈り取るように、兵士たちを殴り、蹴り飛ばし、薙ぎ倒しているのだ。
200人の壁がいとも簡単に壊されていく。
ジャックを決断させるには、充分すぎる光景だった。
「エリス様、失礼致します!」
ここにいては確実に危険だ。
ジャックはエリスを連れ出すことにした。いざという時はそう独断しても良いと、あらかじめ許可は得ている。
ジャックは勢いよく馬車のドアを開けた。
すると、
『うええええ……』
向かって右側の席にいる者が、幼い声で唸っていた。
『酔った……! 割と最初の段階から酔ったニャ……。馬車って揺れすぎニャ……』
仰向けで寝転んでブツブツと愚痴っているが、その者は人間ではない。
猫だった。
(いや、正確に言えば〝猫型の魔獣〟か)
確か〝チャーリー〟という名前だったと、ジャックは思い出す。
魔獣とは、魔女が術によって作り出した特殊な生物だ。チャーリーの姿はその辺りの猫とほとんど変わらないが、銀色の珍しい体毛を持っている。詳細は知らないが、エリスがクラーク領から連れて帰ってきた。
『うぅ、吐く……。いやいや、エリスの前でゲロをぶち撒けるなんて、万死に値するニャ!」
(ゲロの心配をしてる場合か!)
馬車酔いより何千倍も恐ろしいものが、こちらに迫ってきているんだぞ––––と、言いそうになったのを飲み込んで、ジャックは向かって左側の席に視線を移す。
「エリス様、緊急事態が発生しました。私が誘導するので、後ろについてきてください」
カーテン越しに窓の外を見ていた顔が、ゆっくりとジャックの方へ向く。
ジャックの目に映ったのは、噂通りの〝絶世の美男子〟だった。
儚い印象を与えるプラチナゴールドの髪に、山奥にある湖面の
鼻も唇も完璧に形が整っており、深窓の姫君のように肌が透き通っている。深緑のロングコートも、白いシャツも、茶色のズボンにブーツも、スラリとした体によく似合っていた。身柄の引き渡しの際、その姿にジャックはつい見惚れてしまったものだ。
「……〝アナスタシア〟」
エリスが呟いた。
声もまた美しい。
「アナスタシアとは、一体誰なんだい?」
ジャックは少し面食らった。
こんな状況なのに、エリスからは動揺や恐怖は感じられない。口調も表情もいたって穏やかだ。
「およそ20年ほど前から、ルフトに棲みついている化け物の名前です」
やや早口でジャックは答える。
「見た目は16か17歳頃の少女ですが、猛獣にも勝る身体能力を持っています」
「へぇ。そんなに強いの?」
「はい。普段は西の森を縄張りにしており、滅多に外には出てきません」
「彼女と君たちは〝敵〟なのかい?」
「そうです。現に我々は襲われています。……申し訳ありませんが、詳しく話している時間はありません」
エリスへと手を差し出す。
「兵士たちがあいつを防いでいる間に、ここから脱出します。さぁ、私と一緒に行き、」
「ゔああああああああっ!!」
言い終える前に、ジャックの背後からおぞましい咆哮があがった。
(なんだと……っ!?)
ジャックが振り返ると、視界いっぱいに〝赤色〟が広がった。
色の正体は、地面に届くほど長い髪と、焦点が合っていない瞳だった。血の如く真っ赤な毛髪と眼球を持つ化け物––––アナスタシア。
咆哮を出した口には獅子のような2本の牙が、そして左手には鷲のように鋭い爪が生えている。肌は褐色で、服は薄汚れた簡素なワンピース。
アナスタシアは、ジャックのすぐ近くにいた。
馬車との距離はあったはずなのに。エリスと会話をした短い時間に、こんなに近づかれたというのか。
ジャックをさらに焦らせたのは、アナスタシアが傷一つ負っていないことだった。
つまり、あれだけ放たれた銃弾を全て避けたのだ。しかも矢は素手で受け止めたらしく、束にして片手で抱えている。人間の武器などオモチャだと嘲笑うかのように。
ジャックはアナスタシアに剣を向けて、
「エリス様を頼みます!」
チャーリーに伝えた。
自分以外に立っている兵士はもういない。エリスを頼める相手は、あの魔獣だけだ。見た目は猫だけど、しかも馬車酔いをしているけど、背に腹は変えられない。
馬車の反対側には、ドアがもう1つある。自分がアナスタシアを引きつけている間に、そこからエリスを連れて逃げてくれたら––––。
ジャックがそう考えていると、突然、真横で気配がした。
「なっ!」
ジャックは驚いた。
今度は〝銀色〟で視界が埋め尽くされている。それがチャーリーなのだと気づいて、ますます驚く。
さっきまでは両手で抱えられるサイズだったのに、今は馬車と変わらないほど巨体になっている。
(これが、真の正体なのか?)
唖然とするジャックには目もくれず、チャーリーはため息を吐いた。
「まったく、大の男どもが揃いも揃って情けない。うかうか馬車酔いもしていられないニャ」
チャーリーの全身の毛が1度揺れたかと思うと、ぶわっと逆立った。太陽の光でぎらついた銀色の体毛が、ジャックには
魔獣の登場に、アナスタシアの様子も変わった。姿勢を低くして、長い爪が伸びた左手をかまえる。
「ゔぅぅぅぅ……!」
『エリスに手を出す奴は殺すニャ』
一触即発。アナスタシアとチャーリー、どちらから仕掛けるか。頬を切るようなピリピリとした空気に、ジャックは唾を飲み込む。
それと、ほぼ同時だった。
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