第2話 化け物(前)
「何ということだ! よりによって、こんな大事な日に……!」
男は歯軋りをした。
黒の髪と瞳を持つ彼の名前は、ジャック=フェルトン。ロビンソン伯爵家に使える若い兵士だ。
彼を含めた兵士たちは今日、極めて重要な任務を背負っていた。
それはロビンソン家の現当主であるルーカス=ロビンソン伯爵の弟––––エリス=ロビンソンを、
今年で20歳になったエリスは、隣国を治めるクラーク伯爵家の人質になっていた。
ロビンソン家とクラーク家は領土を巡って争っていたが、今から15年前、お互いの家から人質を1人ずつ差し出すことで停戦した。
そして最近になってようやく和解にまで至り、それぞれの人質は自分の故郷へ帰されることになった。
両国の境界には、深い森がある。そこで身柄の引き渡しは行われた。クラーク伯爵の四男をあちらに返還し、エリスの身柄も無事に保護したのが、今から1時間前のことだ。
200人もの兵士で構成された護衛軍が、細心の注意を払って森を出たのが30分前。
森の外に広がる荒野を進み、景色が田園地帯へと変わったのが10分前。
田畑に挟まれた広い畦道には、たくさんの領民たちが集まっていた。エリスを乗せた豪華絢爛な馬車は、護衛軍の行列の真ん中に配置されている。
馬車が見えてくると、普段はのどかな村は一気に賑やかになった。
「おかえりなさいませ!」
「お待ちしておりました!」
「エリスさま!」
歓声が飛び交い、鳴り止まない拍手が乾いた空気を震わせる。色とりどりの花びらがばら撒かれ、青い空に映えている。
誰もが歓喜していた。
人質が解放されたということは、平和が確定されたということだ。ロビンソン家とクラーク家が諍い起こすたびに、境界に近いこの場所に暮らす民は脅かされた。そんな日々がやっと終わるのだと、エリスの帰還は告げている。
「ねぇ、知ってる? エリスさまは、隣国では〝絶世の美男子〟と呼ばれていたそうよ」
1人の少女が言うと、周りにいた少女たちが次々と口を開いた。
「もちろんよ! エリスさまの肖像画を描きたい画家が多すぎて、常に予約待ちの状態だったんでしょう?」
「そうそう! しかもエリス様って学問や馬術にも優れているんですって。特に弓矢の扱いがとても上手いとか」
「クラーク伯爵様は気難しいことで有名なのに、エリス様のことはたいそう気に入っていたらしいわ。養子にしたくて、最後まで帰すのを惜しがっていたみたい」
「ということは容姿や能力だけでなく、人柄も素晴らしいのでしょうね」
「えぇ、きっと素敵な紳士なのよ。一目でいいから、お顔を拝見したいわ!」
年頃の彼女たちは、別の意味でも浮き足立っている。
辺りは祝福と幸福に包まれていた。老若男女問わず、誰もが心から笑っていたのだ。
そんな状況に異変が生じたのが、1分前だ。
最初に異変に気がついたのは、先頭を歩く兵士だった。
自分たちが進む先に、誰かが立っていた。進路を妨害するかのように。
しかも女だった。
フードが付いた茶色のマントを被っているので顔は見えないが、低い身長と細い体つきに、直感的に女性だと思った。
伯爵家の行列を阻むなど、撃たれてもおかしくない。何故、女性がたった1人でこんなことを……?
その一瞬の疑問が、兵士の行動を遅らせた。
次の瞬間にはもう、十数メートルは離れていたはずの女が目の前にいた。
「がっ……!?」
さらに次の瞬間には、兵士の意識は飛んだ。
腹を殴られた。装着している甲冑などおかまいなしに、女の拳は腹部を抉るようにめりこんでいる。
兵士が地面に倒れたのと同時に、女のフードが脱げた。露わになった容貌に、近くにいた別の兵士が叫んだ。
「お前は、アナスタシア!?」
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