第7話 手紙
――四年後。
細い絹糸のような雨粒が、簾のごとく落ちている。
絵美は黒い傘を差して、目の前にある飾り気のない門をくぐった。門に掲げられた銘板の『児童養護施設』という文字を横目に見ながら、通い慣れた道を歩く。
「……あらぁ、絵美ちゃん。お久しぶり」
雨の中、傘を差してポストを覗き込んでいた女性が振り返って微笑んだ。
「お久しぶりです。佐伯先生。……蒼太は?」
「蒼太くんは今頃、部屋で荷物の確認をしてるんじゃない? ……それにしても、あなたたちがこの学校に来てもう四年が経っていたのねぇ」
そうですね、と絵美は笑う。
母の葬儀の三日後、絵美たちは山の中にいるのを警察に見つかってしまった。そのまま家には帰らされず、絵美たちはこの児童養護施設に預けられることとなった。父がそう判断したらしい。なんにせよ、絵美にとっては父と離れる口実となったのでよかった。
一方、蒼太は無免許運転と傷害で逮捕されてしまった。少年院に入れられるのかと絵美は震えたが、保護観察処分とされてホッと胸を撫で下ろした。引き離されずに済んだことに心から安堵した。
だが、母の遺体は絵美たちが捕まった後、二人の知らない間に火葬されていた。絵美は怒り狂った。母の腐敗する体をいつまでも絵美は抱きしめていたかった。なのに、それが大人たちの都合で壊された。どうしても許すことが出来なかった。その後のことを絵美はもうあまり覚えていない。ただ、随分と荒れた時期だったのだと蒼太からは聞かされた。
しばらくの間二人は同じ施設で過ごしていたが、先に十八歳になった絵美が施設から出て行くことになった。初めて、蒼太と離れて暮らさなければならなくなり心から泣いた。だが、蒼太が大人になったとき、絵美がその場所を用意すればいいのだと佐伯先生に言われてハッとした。その通りだと思った。だから、絵美は蒼太と約束した。
『蒼太が十八歳になったら、迎えに行くからね』
蒼太は寂しそうに、だが嬉しそうに頷いたことを今でも覚えている。
そして、蒼太は十八歳を迎えた。今日はとうとう施設から出る日だった。
春のまだ寒い季節だった。
絵美は胸を高鳴らせながら、施設の廊下を歩く。
(やっと、蒼太と二人で暮らせる。お父さんや他の大人の手を借りずに、一緒に生きていける!)
それだけが、この数年間絵美を支えた生きる理由だった。
――蒼太と共に生きる。
そのために仕事を得た。お金を得た。二人で住める場所も得た。以前のような、子どもの絵美ではない。ちゃんと、自立した大人として二人で蒼太と生きていける。
蒼太の部屋の扉は開いていた。絵美は胸を押さえながら近づき、中を覗き込んだ。
部屋は綺麗に片付けられて、整然としていた。その真ん中に蒼太は大きなカバンを横に置いて座り込んでいた。
「蒼太」
絵美はゆっくりと近づきながら名前を呼んだ。蒼太は振り返る。十八歳になった彼は、随分と大人びて見えた。
「姉ちゃん」
「もう準備は出来た?」
蒼太はうん、と頷いて笑う。立ち上がって荷物を肩に担いだ。
「やっと、二人で生きていけるね」
絵美は感慨深げにそう呟いた。四年はあまりに長かった。だけど、それも今日までなんだ。
思わず涙ぐんで目頭を押さえた絵美は、誤魔化すように笑うと蒼太に手を伸ばした。
「さぁ、車は駐車場に止めてあるから、一緒に来て」
絵美の手はこれからの明るい未来への希望だ。この手を蒼太が握り返してさえくれれば、あとはもう過去を振り返らずに走り続けるだけ。これからも苦労はあるだろうけれど、二人でなら生きていける。蒼太と手を携えてさえいれば、絵美に、未来はあるのだ。
絵美はこの時、幸せの絶頂を確信していた。
しかし、蒼太は絵美の手を握り返してはくれなかった。
「……蒼太?」
彼は絵美の手をじっと見ながら、ポツリと呟くように言った。
「……ごめん、俺、姉ちゃんと一緒にはいられない」
「え?」
絵美は体が固まった。蒼太が何を言っているのかわからなかった。
「え、どう……どういうこと? どうして?」
伸ばしていた手の指先が震え始める。
「ずっと、約束してたよね? お姉ちゃんと一緒に生きてくれるって、ずっと、あの時からずっと話していたことだよね? どうして、そんなこと突然言うの? 蒼太……ねぇ、どうして?」
そう言って混乱する絵美に、蒼太は寂しそうに笑いかけた。
「だって、姉ちゃんは俺のことを愛してないだろう」
彼の瞳は寂しそうに揺れていた。
「愛してるよ!」
思わず叫ぶように言ってしまった。しかし蒼太はそれに動じない。
「違うよ。姉ちゃんは自分しか見てない。父さんと一緒だよ」
絵美は目を見開いた。
「姉ちゃんが俺に見ているのは、俺と共に生きることで幸せになる自分の姿だけだ。俺はそのための媒介でしかない。姉ちゃんが見ているのは、俺の瞳に映る姉ちゃん自身なんだよ」
『――それはエゴだよ』
随分昔に聞いた父の言葉が、今頃のように絵美の中に響いた。
「ち、違う」
絵美は首を振る。声が震えているのを感じた。
「俺、もう自分で部屋は決めたんだ。姉ちゃんとは違う場所に住むよ。……もちろん、これからも姉弟として会おう、一緒に支えあって生きていこう。だけど、一緒には住めないよ」
「私は、あんたを愛してる……」
絵美の言葉に蒼太は肩を竦めた。
「姉ちゃんの『愛してる』って、本当に俺のことを指してる?」
『絵美の言う『愛』ってつまり何だ?』
絵美は、四年前と同じように言葉を詰まらせた。
「……やめて。そんなこと言わないで……私は、これだけを理由に生きてきたのに」
絵美は耳に手を当てて、懇願した。
「お母さんもいなくなって、お父さんも私たちを捨てて……あんたまで私の世界からいなくなるの?」
そう言ってポロポロと涙を流した姉を、蒼太は黙って見つめていた。
「……これ」
そう言って絵美に向かって差し出したのは、すでに開封された白い手紙の封筒だった。端の方が折れて、紙の表面には皺ができている。
「お父さんが、この前ここに来た」
絵美は顔を上げた。
「読んで」
心臓の音が高鳴った。ひどくその白い紙が怖いと思った。絵美は震える手で受け取り、ゆっくりと封筒から中にあった手紙を引っ張り出した。ひどくもたつきながら、たった一枚の手紙を開く。
「絵美と、蒼太へ……」
小雨は布を撫でるような静かな音を、沈黙する二人の間に響かせた。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえた。やがてそれも消え失せて、後には絵美の嗚咽だけが残った。
「…………うん」
絵美は手紙を握りしめながら、小さく頷いた。
小雨はやがて止み、曇天から細い光が地上に向かって落ちていた。雨が上がれば、残った水たまりに青い空が映り込む。空が晴天になるまで、もうあと少しだった。
雨に溺れる 秋野 圭 @akinok6
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