第6話 雨

 蒼太は鬱陶しいほど降りしきる暗い雨空を見上げていた。

 彼が座っているのは薄汚れた農作業用の小屋の隅だ。

 時間は夕刻を過ぎ、既に辺りは暗い。山の中は墨で塗られたように黒かった。体は雨に濡れて重く、湿気のせいで息苦しい。雨音のどこかこもったようなその音を聞いていると、まるで雨の中に溺れてしまったようだと蒼太は思った。

 霊柩車は乗り捨ててきた。初めての車の運転で、しかも無免許だ。車はあちこちが凹んでひどい有り様だった。今も心臓がバクバクと高鳴って胸が痛かった。先輩に車の動かし方を教わったからと言って、それが思うように動くわけではないことを、この小屋に辿り着くまで嫌という程思い知った。

 ちらりと蒼太はすぐ横で眠る、母の顔を見た。そこに横たわった白く固い体は、まるで蝋人形のようだと思った。

 母も雨に濡れている。肌を流れる雫をそっと指ですくうと、直に彼女の体温の冷たさが指先越しに伝わってきた。

 その瞬間、蒼太の瞳がみるみるうちに涙で濡れる。

 ――蒼太はただ悲しかった。母の突然の死。父の無関心。そして、姉の激情。

 脳裏に、今にも窓が割れそうな運転席の中で、驚きに目を見開いていた運転手の顔を思い出した。

 蒼太は頭を抱えた。あの表情を、蒼太が引き出したんだ。蒼太が運転手に恐怖を与えた。

 そして、何より……。

 蒼太は自分が歯の根も合わないほど震えていることに気づいた。

『お前はもう俺の子じゃない』

 運転手を殴って運転席から追い出した時、まだ助手席に座っていた父が言った言葉だった。

 その言葉を聞いた瞬間、蒼太は体が凍りつくのを感じた。怖くなって、すぐに威嚇するような大声をあげて助手席に回り込む。

 だが、父は自ら扉を開けて車から降りたのだった。

『お前はこれから孤独だ。誰も守ってはくれない。母さんを俺から奪っても、母さんはお前に語りかけることはない。お前はこれから自分で自分を守らなければならない。自分で自分に語りかけなくてはいけない。――そういう道を選んだんだよ。お前は』

 うるさい、と蒼太は叫んだ。父の言葉に耐えきれず、持っていた傘でその頭を強く殴りつけた。

 父が雨の中に倒れたのを見ると、すぐに蒼太は運転席に乗って霊柩車を発進させた。

 父から一刻も早く離れたかった。

(お前だって……もう俺の父さんじゃない)

 そう思うのに、父の言葉が蒼太を追いかけてくるような気がした。どんなに車のスピードを上げて走らせても、蒼太の背中を追いかけて離れない。

 幅の狭い砂利道を蒼太は全速で走り抜けた。だが、途中で道の端にあった溝にタイヤを嵌らせてしまった。金属が擦れるような嫌な音を立てて車は止まった。

(ダメだ……追いつかれる)

 蒼太は運転席から転ぶようにして外に降り、そのまま棺に入っていた母を抱き上げると山を登った。

 母の冷たくて固い体と、追い立てられるような強迫観念が蒼太の足を進ませた。やがて、木々の間から、目的地だったボロボロの小屋が見えた時、蒼太は嗚咽を漏らした。

 彼が雨宿りをするこの小屋は、幼い頃に絵美と見つけたものだった。家族でこの山の近くのキャンプ場に来た時、絵美と二人で山に入って見つけたものだった。どうも持ち主に捨てられて長いようで、所々朽ちていた。初めて目にした廃墟に二人は興奮して夕方になるまでそこで遊んだ。だが、いざ帰ろうと顔を上げた時、二人は自分たちがどこから来て、どうやって帰ればいいのかわからないことに気づいた。

 二人は泣きながら、その小屋の中で誰かが来るのを待っていた。その時、どうやって二人の居場所を知ったのか、見つけてくれたのは父だった。

 心配したんだぞ、とあの時父は言っていた。

 お父さんが来たからもう大丈夫、と言って二人を抱き寄せてくれた。

『お前はもう俺の子じゃない』

 父の言葉が、まるでこだまのように蒼太の中で鳴り響く。

『母さんはお前に語りかけてはくれない』

 小屋にたどり着いた蒼太は、震える体を温めてほしくて母に抱きついた。しかし、母は抱き返してはくれなかった。

「母さん」

 蒼太は縋るように母の死装束を指で掻いた。だが、母はいつまでも静かだった。永遠にその静寂が失われることはない。

「……かあさん」

 父の言葉が蘇る。

『お前はこれから孤独だ。誰も守ってはくれない』

 蒼太は嗚咽を漏らした。

 そうなのだろう。葬式を大勢の前で壊し、父親を凶器で殴り、母の遺体を奪った蒼太は明らかに社会の倫理に外れる。人間社会の中に生まれた膿であり異物だ。

 これから、自分はどうなってしまうのだろうか。

 その問いに、母は答えてくれない。

「……姉ちゃん」

 蒼太は震えながら、雨の降る景色を見上げた。

 姉が一刻も早く迎えに来てくれることを、切実に待ち望んだ。


 絵美は山の中を走っていた。

 辺りはもう暗闇が満ちていて足元がおぼつかない。先ほどからもう何度も木の根に足をとられて転んでしまった。制服は泥だらけで、途中で靴も片足脱げてしまった。

(ひどい格好)

 暗い道を走りながら、絵美は途中で不安に駆られて後ろを振り返る。

 そこに誰もいないことを確認すると、ホッと息を吐くのだが、しばらく走っているとまた不安に駆られて振り返るのだった。先ほどから何度もその繰り返しだった。

 ――父が、追ってくるのではないか。

 それが怖いのか、嬉しいのか、今の絵美にはわからなかった。ただ、何度も背後を振り返ってしまう。

 絵美は父を捨ててきた。彼とはどのような形にせよ、もう共に生きていくことができないことを悟らざるを得なかったのだから。

 だから、決別のために父を殴った。怒りと悲しみの入り混じった感情を、全力で父にぶつけた。拳で顔を殴りつけられている間、父は何も言わなかった。抵抗もしなかった。たぶん、お互いにこれが最後なんだとわかっていたのだ。

 次第に父は静かになった。ピクリとも動かないその体を見た時、とうとう死んでしまったのかと心臓が大きく鳴った。しかし、その胸が微かに上下しているのを見て気絶しているのだとわかると、言いようのない悲しみが絵美を襲った。

 殺さなくてよかった、という安堵があった。同時に殺しておけばよかった、という後悔の念。その複雑な心の波を、絵美はどうすればいいかわからなかった。

 しばらくの間、絵美は父を見下ろしたまま動くことが出来ずにいた。だが、父の血だらけの頭を見ていると、突然「蒼太に会いたい」と強く思った。

 これから、絵美は蒼太と共に生きていく。二人で、この社会を生き抜くのだ。

 そう思うと、絵美の中に喜びが広がった。顔が上気するのを感じた。

(そうだ、私には蒼太がいる。そして蒼太には私がいる)

 もう二人にはお互いしか寄る辺がなかった。それはひどく寂しい事実のはずだが、絵美の心には後悔の念はなかった。ただ、嬉しい。これからは二人だけで、子どもの頃と同じように一緒に生きていける。

(ねぇ、蒼太)

 絵美は走り出した。何度もこけて傷だらけの体だが、少しも痛くなんてなかった。

(これからはお姉ちゃんが守るからね。だから……早く会いたい)

 暗い木々のざわめきが絵美の足を急かす。頭上の曇天は重く、どこか遠くで雷の音がした。

(お母さんを連れて、二人で遠くに行かないと……そのまま支え合って生きていくんだ)

 大丈夫、蒼太となら生きていける。二人なら何だって出来る。それにお母さんも傍にいるのだから大丈夫。私たちは三人家族で、いつまでも一緒だ。

 絵美は木の幹の足を掴まれ転ぶ。だが、すぐに立ち上がった。絵美の目は輝いていた。

 ――蒼太に会いたい。早く、蒼太の所に行きたい。

 絵美は雨に濡れながらひたすら走った。地響きのような雷鳴が頭上で聞こえる。

「私たちは、二人で生きていくんだ」

 絵美は腕を広げて、雨を浴びながらそう笑った。彼女の将来は希望に満ちているように感じた。

 雨が止む気配は、まだない。

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